オスカー・パーマー・ロバートソン (Oscar Palmer Robertson , 1938年 ねん 11月24日 にち - ) は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・テネシー州 しゅう シャーロット 出身 しゅっしん の元 もと プロバスケットボール 選手 せんしゅ 。ニックネームはThe Big O で、全米 ぜんべい バスケットボール協会 きょうかい (NBA)のシンシナティ・ロイヤルズ とミルウォーキー・バックス でプレーした。1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい の前半 ぜんはん にかけて活躍 かつやく し、NBA史上 しじょう 最高 さいこう の選手 せんしゅ として語 かた られることもある伝説 でんせつ 的 てき 名 めい 選手 せんしゅ である。
シンシナティ大学 だいがく 卒業 そつぎょう 、1960年 ねん ローマオリンピック で金 きん メダル を獲得 かくとく した後 のち 、1960年 ねん のNBAドラフト でプロキャリアの大半 たいはん を過 す ごすことになるシンシナティ・ロイヤルズ(現 げん サクラメント・キングス )から全体 ぜんたい 1位 い 指名 しめい を受 う けてNBA入 い りし、1961年 ねん の新人 しんじん 王 おう を受賞 じゅしょう 。以後 いご 1974年 ねん に現役 げんえき から引退 いんたい するまでにアシスト王 おう 6回 かい 、オールスターゲーム 出場 しゅつじょう 12回 かい 、オールスターMVP受賞 じゅしょう 3回 かい 、オールNBAチーム選出 せんしゅつ 11回 かい 、シーズンMVP 受賞 じゅしょう 1回 かい 、ミルウォーキー・バックス 時代 じだい に優勝 ゆうしょう を果 は たすなど数々 かずかず の栄誉 えいよ に浴 よく した。また現役 げんえき 中 ちゅう は選手 せんしゅ 会 かい (NBPA )会長 かいちょう としてNBA選手 せんしゅ の地位 ちい 向上 こうじょう に大 おお きく貢献 こうけん 。1980年 ねん には殿堂 でんどう 入 い り を果 は たし、カレッジバスケ界 かい では最 もっと も重要 じゅうよう な個人 こじん 賞 しょう の一 ひと つとして『オスカー・ロバートソン・トロフィー 』が設 もう けられている。1961-62シーズン に達成 たっせい したシーズン平均 へいきん トリプル・ダブル はNBAの伝説 でんせつ となっている。また、彼 かれ はESPN による20世紀 せいき 最高 さいこう のアメリカ人 じん アスリート第 だい 36位 い にランクインしている[1] [2] 。
オスカー・パルマー・ロバートソンは未 いま だ人種 じんしゅ 差別 さべつ が色濃 いろこ く残 のこ る時代 じだい である1938年 ねん 、テネシー州 しゅう シャーロットで生 う まれ、4歳 さい の頃 ころ に移 うつ り住 す んだインディアナポリス では黒人 こくじん ゲットーを住処 すみか として、貧困 ひんこん と人種 じんしゅ 差別 さべつ に塗 ぬ れた少年 しょうねん 期 き を過 す ごした。この時代 じだい 子供 こども たちの多 おお くは野球 やきゅう に熱中 ねっちゅう していたが、野球 やきゅう 道具 どうぐ を揃 そろ えることができなかったロバートソンは果物 くだもの カゴをぶら下 さ げた壁 かべ に向 む けて、テニスボールに布 ぬの を丸 まる めたものを投 な げて遊 あそ んだ。これが彼 かれ のバスケットボール キャリアの始 はじ まりだった。
高校 こうこう 進学 しんがく の選択肢 せんたくし は狭 せま く、殆 ほとん どの黒人 こくじん 学校 がっこう はバスケットができる体育館 たいいくかん がなく、また白人 はくじん 学校 がっこう はロバートソンの入学 にゅうがく を拒否 きょひ したため、ロバートソンはインディアナポリスのクリスパス・アタックス高校 こうこう に進学 しんがく するしかなかったが、ここでコーチ、レイ・クロウに出会 であ えたことはロバートソンにとっては大 おお きな幸運 こううん だった。クロウはロバートソンの優 すぐ れた身体 しんたい 能力 のうりょく に大 おお きな可能 かのう 性 せい を見出 みいだ し、基礎 きそ からみっちりと叩 たた き込 こ んだ。クロウの指導 しどう のもとチームのエースに成長 せいちょう したロバートソンは2年生 ねんせい の1954年 ねん のシーズンにはチームをインディアナ州 しゅう チャンピオンシップのベスト4に導 みちび き、翌 よく 1955年 ねん のシーズンには31勝 しょう 1敗 はい の成績 せいせき でついに州 しゅう チャンピオンシップを制覇 せいは 。同 どう 州 しゅう にとって黒人 こくじん 学校 がっこう がチャンピオンに輝 かがや くのは初 はつ の快挙 かいきょ であった。1956年 ねん のシーズンに入 はい ってもアタックス高校 こうこう の勢 いきお いは止 と まらず、前年 ぜんねん から引 ひ き続 つづ き45連勝 れんしょう (州 しゅう 新 しん 記録 きろく となった)を記録 きろく し、31戦 せん 全勝 ぜんしょう で州 しゅう チャンピオンシップも連覇 れんぱ を達成 たっせい すると言 い うパーフェクトシーズンを過 す ごす。平均 へいきん 24.0得点 とくてん を記録 きろく したロバートソンは州 しゅう のMr.バスケットボールに選 えら ばれた。コートでは誰 だれ よりも輝 かがや いたロバートソンだったが、コートから一 いち 歩 ほ でも外 そと に出 で れば差別 さべつ される黒人 こくじん の一人 ひとり に過 す ぎず、優勝 ゆうしょう の祝賀 しゅくが パーティーを開 ひら こうとしたところ、街 まち から追 お い出 だ されるなどの扱 あつか いを受 う けた。このような状況 じょうきょう はインディアナを離 はな れ、シンシナティ大学 だいがく に進学 しんがく した後 のち も続 つづ いた。
大学 だいがく でのロバートソンはさらに素晴 すば らしく、1957年 ねん からの3年間 ねんかん のプレイで平均 へいきん 33.8得点 とくてん (同校 どうこう 歴代 れきだい 3位 い )15.2リバウンド4.8アシストを記録 きろく 。全 すべ てのシーズンでNCAA の得点 とくてん 王 おう 、オールアメリカン、大学 だいがく 年間 ねんかん 最優秀 さいゆうしゅう 選手 せんしゅ に輝 かがや き、14のNCAA記録 きろく と19の大学 だいがく 記録 きろく を塗 ぬ り替 か えた。大学 だいがく 通算 つうさん 2,973得点 とくてん は後 のち にピート・マラビッチ に破 やぶ られるまでのNCAA記録 きろく だった。2年 ねん 目 め のシーズンにはマディソン・スクエア・ガーデン でのトーナメント大会 たいかい で52得点 とくてん 、翌年 よくねん には62得点 とくてん をあげている。当時 とうじ のカレッジバスケ界 かい のトップ選手 せんしゅ となったロバートソンだったが、人種 じんしゅ 差別 さべつ の被害 ひがい は相変 あいか わらずだった。過去 かこ シンシナティでプレイした黒人 こくじん はチェスター・スミス(1932年 ねん )、ロンドン・ガント(1936年 ねん )、 ウィラード・スターゲル(1942年 ねん )、 トム・オバートン(1951年 ねん )の4人 にん しかおらず、5人 にん 目 め となるロバートソンがコートの上 うえ で活躍 かつやく する光景 こうけい は多 おお くの白人 はくじん にとっては受 う け入 い れられないものだった。差別 さべつ の激 はげ しい都市 とし への遠征 えんせい は多 おお くの困難 こんなん がつきまとい、ホテルへの宿泊 しゅくはく を拒否 きょひ され、大学 だいがく の宿舎 しゅくしゃ に泊 と まらなければならないことは日常 にちじょう 茶飯事 さはんじ だった。またロバートソンの在学 ざいがく 中 ちゅう シンシナティ大 たい は79勝 しょう 9敗 はい を記録 きろく し、NCAAトーナメント では2度 ど Final4に進出 しんしゅつ するも優勝 ゆうしょう とは縁 えん がなかったことは、ロバートソンの後 のち のNBAキャリアを暗示 あんじ しているかのようだった。
大学 だいがく を卒業 そつぎょう したロバートソンは1960年 ねん の夏 なつ 、アメリカ代表 だいひょう として1960年 ねん ローマオリンピック に出場 しゅつじょう 。ロバートソンにジェリー・ウェスト 、ジェリー・ルーカス 、ウォルト・ベラミー 、テリー・ディッシンガー 、ボブ・ブーザー 、エイドリアン・スミス 、ダレル・イムホフ など錚々たるメンバーが揃 そろ ったこの時 とき の代表 だいひょう はドリームチーム 以前 いぜん としては歴代 れきだい 最高 さいこう の代表 だいひょう チームと評価 ひょうか されている(12選手 せんしゅ 中 ちゅう 10人 にん が後 のち にNBAでプレイし、ロバートソン、ウェスト、ルーカス、ベラミーの4人 にん が殿堂 でんどう 入 い り している)。ロバートソンはウェストと共 とも にチームキャプテンを務 つと め、共 とも にチームの主要 しゅよう 得点 とくてん 源 げん としても活躍 かつやく 。大会 たいかい 平均 へいきん 17.0得点 とくてん をあげ、試合 しあい では平均 へいきん 42.4点 てん 差 さ をつけて各国 かっこく 代表 だいひょう を一蹴 いっしゅう し、金 きん メダルを獲得 かくとく した。ポジションはフォワードとして登録 とうろく されていたが、実質 じっしつ ロバートソンがポイントガード として代表 だいひょう チームを牽引 けんいん した。なお、ロバートソンはルーカス、ブーザー、スミスの3人 にん と後 のち にNBAでもチームメートとして過 す ごすことになる。
シンシナティ・ロイヤルズ (1960-1970) [ 編集 へんしゅう ]
ロイヤルズ時代 じだい
1960年 ねん のNBAドラフト で地域 ちいき 指名 しめい (地元 じもと 出身 しゅっしん 選手 せんしゅ を指名 しめい できる制度 せいど )と全体 ぜんたい 1位 い 指名 しめい を受 う けてシンシナティ・ロイヤルズ に入団 にゅうだん 。同期 どうき にジェリー・ウェストやレニー・ウィルケンズ らがいる。ロバートソンはロイヤルズとの契約 けいやく で33,000ドルと貧 まず しかった少年 しょうねん 時代 じだい には考 かんが えられないような大金 たいきん を手 て にしたが、すぐにその額 がく に見合 みあ うだけの選手 せんしゅ であることを証明 しょうめい した。ロバートソンはルーキーイヤー から平均 へいきん 30.5得点 とくてん 10.1リバウンド9.7アシストと、驚 おどろ くべきオールラウンドな能力 のうりょく を発揮 はっき 。1年 ねん 目 め からアシスト王 おう に輝 かがや くと共 とも に、平均 へいきん 9.7アシストはNBAではボブ・クージー の記録 きろく を抜 ぬ いて過去 かこ 最高 さいこう の数字 すうじ となり、また平均 へいきん 30.5得点 とくてん はリーグ3位 い の好 こう 記録 きろく だった。さらに今後 こんご 12年 ねん 連続 れんぞく で選 えら ばれることになるオールスターゲーム にも出場 しゅつじょう し、23得点 とくてん 14アシストをあげてオールスターMVPにも輝 かがや いた。当然 とうぜん のように新人 しんじん 王 おう を受賞 じゅしょう すると共 とも に、やはり今後 こんご 9年 ねん 連続 れんぞく で選 えら ばれ続 つづ けることになるオールNBA1stチームにも名 な を連 つら ねている。1年 ねん 目 め から早 はや くもリーグトップクラスの選手 せんしゅ としての地位 ちい を確立 かくりつ してしまったロバートソンともう一人 ひとり のエース、ジャック・トゥィマン に率 ひき いられ、モーリス・ストークス の不慮 ふりょ の事故 じこ 以来 いらい 成績 せいせき が落 お ち込 こ んでたロイヤルズも上昇 じょうしょう 気流 きりゅう に乗 の り、前年 ぜんねん の19勝 しょう 56敗 はい から33勝 しょう 46敗 はい と大 おお きく勝率 しょうりつ を伸 の ばしたものの、プレーオフ には届 とど かなかった。
翌 よく 1961-62シーズン はロバートソンにとってもNBAにとっても伝説 でんせつ 的 てき なシーズンとなった。彼 かれ はこのシーズン平均 へいきん 30.8得点 とくてん 12.5リバウンド11.4アシストを記録 きろく し、2016-2017シーズン にラッセル・ウェストブルック が達成 たっせい するまでNBA史上 しじょう 初 はつ のシーズン平均 へいきん トリプル・ダブル を達成 たっせい したのである。平均 へいきん 11.4アシストはリーグ初 はつ の二 に 桁 けた の大台 おおだい 突破 とっぱ であり、通算 つうさん 899アシストはクージーの記録 きろく を更新 こうしん するリーグ歴代 れきだい 最多 さいた となった。2年 ねん 連続 れんぞく アシスト王 おう はもちろんのこと、平均 へいきん 30.8得点 とくてん はリーグ5位 い 、12.5リバウンドもリーグ9位 い に入 はい った。チームは43勝 しょう 37敗 はい の成績 せいせき でプレーオフ出場 しゅつじょう を果 は たし、ロバートソンはプレーオフ期間 きかん 中 ちゅう も平均 へいきん 28.8得点 とくてん 11.0リバウンド11.0アシストのトリプル・ダブルの成績 せいせき でチームを牽引 けんいん したが、デトロイト・ピストンズ の前 まえ に1勝 しょう 4敗 はい で敗退 はいたい した。以後 いご もロバートソンは個人 こじん 成績 せいせき では準 じゅん トリプル・ダブルの数字 すうじ を残 のこ し続 つづ けるが(ロバートソンの最初 さいしょ の5シーズンは平均 へいきん 30.4得点 とくてん 10.4リバウンド10.6アシストのトリプル・ダブルの成績 せいせき だった)、プレーオフでは結果 けっか を残 のこ せない日々 ひび が続 つづ く。彼 かれ の前 まえ に当時 とうじ のリーグを支配 しはい したボストン・セルティックス が立 た ちはだかったからである。さらにシラキュース・ナショナルズ(後 ご のフィラデルフィア・76ers )ともプレーオフでは幾度 いくど となく対戦 たいせん したが、ロイヤルズはセルティックスと76ersの壁 かべ をどうしても突 とっ き崩 くず すことができなかった(チーム間 あいだ のライバル関係 かんけい だけでなく、セルティックスのボブ・クージー、76ersのハル・グリア とのマッチアップも注目 ちゅうもく を集 あつ めた)。1962-63シーズン にはデビジョン準決勝 じゅんけっしょう でナショナルズを破 やぶ り、デビジョン決勝 けっしょう にてセルティックスと対決 たいけつ 。当時 とうじ 無敵 むてき を誇 ほこ ったセルティックス相手 あいて に第 だい 7戦 せん まで粘 ねば る健闘 けんとう を見 み せた。
1963-64シーズン にロバートソンのキャリアは絶頂 ぜっちょう 期 き を迎 むか える。彼 かれ はこのシーズンに平均 へいきん 31.4得点 とくてん 9.9リバウンド11.0アシストをあげ、3回 かい 目 め のアシスト王 おう に輝 かがや くと共 とも に得点 とくてん 王 おう レースではリーグ2位 い に入 はい り、フリースロー成功 せいこう 率 りつ 85.3%はリーグ1位 い となった。ロバートソンに盟友 めいゆう トゥィマン、ベテランのウェイン・エンブリー 、アメリカ代表 だいひょう のチームメートでこのシーズンにNBAデビューを果 は たしたジェリー・ルーカス、やはり代表 だいひょう チームメートのエイドリアン・スミスにボブ・ブーザーと充実 じゅうじつ したロスターとなったロイヤルズは、新 しん ヘッドコーチに元 もと ロイヤルズ選手 せんしゅ だったジャック・マクマホン を迎 むか え、過去 かこ 最高 さいこう の勝 か ち星 ぼし となる55勝 しょう をあげた。快 かい 進撃 しんげき の中心 ちゅうしん にいたロバートソンはシーズンMVP を受賞 じゅしょう 。当時 とうじ 、同 どう 賞 しょう は二 に 大 だい センター のビル・ラッセル とウィルト・チェンバレン の独占 どくせん 状態 じょうたい だったが、60年代 ねんだい にこの2人 ふたり 以外 いがい の選手 せんしゅ で唯一 ゆいいつ MVPに輝 かがや いたのがロバートソンだった。さらにロバートソンはオールスターで26得点 とくてん 14リバウンド8アシストをあげ、オールスターMVPも受賞 じゅしょう している。絶好調 ぜっこうちょう のシーズンを過 す ごしたロバートソンとロイヤルズはプレーオフ・デビジョン準決勝 じゅんけっしょう でチェンバレンの76ersを破 やぶ るが、デビジョン決勝 けっしょう では再 ふたた びラッセルのセルティックスの前 まえ に破 やぶ れ、夢 ゆめ のファイナル 進出 しんしゅつ は叶 かな わなかった。
以後 いご もロバートソンは個人 こじん 成績 せいせき では素晴 すば らしい数字 すうじ を残 のこ し続 つづ け、ロイヤルズ所属 しょぞく 時 じ に計 けい 6回 かい のアシスト王 おう 、2回 かい のフリースロー成功 せいこう 率 りつ 1位 い 、1967-68シーズン に記録 きろく した平均 へいきん 29.2得点 とくてん はリーグ1位 い (当時 とうじ の得点 とくてん 王 おう は平均 へいきん ではなく通算 つうさん で決 き められていたため得点 とくてん 王 おう ではなかった)となったが、彼 かれ の奮闘 ふんとう もチームの成功 せいこう には繋 つな がらなかった。1964-65シーズン からは3年 ねん 連続 れんぞく でプレーオフ・デビジョン準決勝 じゅんけっしょう で敗退 はいたい し、さらに1967-68シーズン からはプレーオフにすら出場 しゅつじょう できなかった。不甲斐 ふがい ないチームに地元 じもと ファンの支持 しじ も薄 うす らいでいき、1969-70シーズン にはファンを呼 よ び戻 もど すために当時 とうじ ロイヤルズのヘッドコーチだったボブ・クージーが現役 げんえき に復帰 ふっき するという苦肉 くにく の策 さく に出 で るも、チーム成績 せいせき は回復 かいふく しなかった。
1969-70シーズン終了 しゅうりょう 後 ご 、ロイヤルズとミルウォーキー・バックス との間 あいだ でトレードが成立 せいりつ 。バックスからのフリン・ロビンソン 、チャーリー・パウルク に対 たい し、ロイヤルズから放出 ほうしゅつ される選手 せんしゅ がオスカー・ロバートソンであることにNBAファンは驚 おどろ いた。ロイヤルズがチームの大 だい エースを手放 てばな した理由 りゆう で当時 とうじ 最 もっと も囁 ささや かれたのがロバートソンとボブ・クージーHCの確執 かくしつ であり、クージーが彼 かれ が保持 ほじ していた幾 いく つかのNBA記録 きろく をロバートソンが次々 つぎつぎ と破 やぶ っていったことに嫉妬 しっと したからだというものだった。ロバートソンはトレードについて「私 わたし は彼 かれ (クージー)が間違 まちが ってたと思 おも うし、このことを決 けっ して忘 わす れないと思 おも う」と語 かた っている。ロバートソンは大学 だいがく 時代 じだい の4年間 ねんかん 、NBAでの10年間 ねんかん 、計 けい 14年間 ねんかん 過 す ごしたシンシナティを離 はな れることになった。
ミルウォーキー・バックス (1970-1974) [ 編集 へんしゅう ]
バックス時代 じだい
ロバートソンのバックス移籍 いせき はロバートソンとルー・アルシンダー(後 ご のカリーム・アブドゥル=ジャバー )というビッグデュオの誕生 たんじょう を意味 いみ した。ジャバーはロバートソンよりも一回 ひとまわ り若 わか いがすでにリーグトップクラスのセンター としての地位 ちい を確立 かくりつ しており、後 のち には史上 しじょう 最高 さいこう のセンターの一人 ひとり と評価 ひょうか されるに至 いた る。ポイントガードとセンターそれぞれに史上 しじょう 最高 さいこう クラスの選手 せんしゅ を擁 よう したバックスは1970-71シーズン に入 はい ると無類 むるい の強 つよ さを発揮 はっき 。当時 とうじ のNBA記録 きろく となる20連勝 れんしょう を達成 たっせい し、最終 さいしゅう 的 てき にはリーグ1位 い となる66勝 しょう 16敗 はい を記録 きろく した。ロバートソン個人 こじん はエースの役割 やくわり を若 わか いジャバーに譲 ゆず り、個人 こじん 成績 せいせき は平均 へいきん 19.4得点 とくてん 5.7リバウンド8.2アシストと数字 すうじ 上 じょう では過去 かこ 最低 さいてい となったが、チームの司令塔 しれいとう として抜群 ばつぐん の統率 とうそつ 力 りょく を発揮 はっき し、またジャバーとのピック&ロールは非常 ひじょう に阻止 そし し難 がた いオフェンスパターンとなった。プレーオフではロバートソンにとって宿願 しゅくがん となるデビジョン決勝 けっしょう 突破 とっぱ を果 は たし、ついにNBAファイナルに到達 とうたつ 。ファイナルではウェス・アンセルド 、ガス・ジョンソン 擁 よう するボルティモア・ブレッツ と対決 たいけつ するが、バックスは4戦 せん 全勝 ぜんしょう でブレッツを一蹴 いっしゅう し、プレーオフ期間 きかん 中 ちゅう も12勝 しょう 2敗 はい という圧倒的 あっとうてき な強 つよ さを見 み せつけ、ついにバックス初 はつ となる優勝 ゆうしょう を成 な し遂 と げた。ロバートソンにとっては移籍 いせき 1年 ねん 目 め にしての初 はつ 優勝 ゆうしょう となった。
プロ12年 ねん 目 め 、33歳 さい となっていたロバートソンは歴年 れきねん の奮闘 ふんとう が祟 たた り、この頃 ころ には足 あし に慢性 まんせい 的 てき な故障 こしょう を抱 かか えるようになったため、念願 ねんがん のチャンピオンリングを手 て に入 い れたことで引退 いんたい も考慮 こうりょ したが、その後 ご もバックスで3年間 ねんかん プレイ。彼 かれ の所属 しょぞく 期間 きかん 中 ちゅう の4年間 ねんかん 、バックスは全 すべ てのシーズンでデビジョン優勝 ゆうしょう を果 は たし、3年 ねん 連続 れんぞく で60勝 しょう 超 こ えを達成 たっせい するなどリーグ屈指 くっし の強豪 きょうごう として君臨 くんりん した。1973-74シーズン には再 ふたた びファイナル進出 しんしゅつ を果 は たし、ロバートソンには2つ目 め のチャンピオンリング獲得 かくとく の機会 きかい を与 あた えられたが、彼 かれ の夢 ゆめ を阻 はば んだのはまたしてもボストン・セルティックスだった。バックスとデーブ・コーウェンス 、ジョン・ハブリチェック 擁 よう するセルティックスは激戦 げきせん を繰 く り広 ひろ げ、優勝 ゆうしょう の行方 ゆくえ は第 だい 7戦 せん にまでもつれたが、バックスは第 だい 7戦 せん に破 やぶ れて優勝 ゆうしょう はならなかった。
ロバートソンは1973-74シーズンを最後 さいご に引退 いんたい を決意 けつい 。14年間 ねんかん に及 およ んだNBAキャリアに幕 まく を降 お ろした。ロバートソンのラストシーズンに59勝 しょう をあげたバックスが、彼 かれ の引退 いんたい 後 ご の1974-75シーズン に38勝 しょう まで成績 せいせき が落 お ち込 こ んだことは、ロバートソンの影響 えいきょう 力 りょく の大 おお きさを物語 ものがた るものだった。
プレースタイル・業績 ぎょうせき [ 編集 へんしゅう ]
オスカー・ロバートソンは「NBA史上 しじょう 最高 さいこう の選手 せんしゅ 」を論 ろん じる上 うえ で無視 むし できない存在 そんざい である。ロバートソンは身長 しんちょう 196cm体重 たいじゅう 100kgとフォワード並 な みの長身 ちょうしん と屈強 くっきょう な肉体 にくたい の持 も ち主 ぬし でありながら、ガードとしての優 すぐ れたスピードとクイックネスを兼 か ね備 そな え、さらにバスケットIQも非常 ひじょう に高 たか いという、非 ひ の打 う ち所 どころ のない万能 ばんのう な選手 せんしゅ であり、当時 とうじ の記者 きしゃ からは「ハンターの目 め 、マジシャンの手 て 、スプリンターの脚 あし を併 あわ せ持 も った男 おとこ 」と評 ひょう され、伝説 でんせつ 的 てき なコーチ、レッド・アワーバック はロバートソンを今 いま まで見 み た中 なか で最 もっと も才能 さいのう のある手 て と評価 ひょうか した。
ロバートソンは得点 とくてん 、リバウンド、アシストなどバスケットに必要 ひつよう なあらゆる面 めん に対 たい して非凡 ひぼん な才能 さいのう を発揮 はっき した。2度 ど のフリースロー成功 せいこう 率 りつ 1位 い (キャリア通算 つうさん 83.8%)の実績 じっせき が示 しめ すようにロバートソンは優 すぐ れたシューターだった。その長身 ちょうしん 故 ゆえ にミスマッチの発生 はっせい が容易 ようい なうえ、さらに肘 ひじ を開 あ けて放 はな つという独特 どくとく のシュートフォームのため彼 かれ のシュートをブロックするのは難 むずか しく、また屈強 くっきょう な肉体 にくたい を活 い かしたパワープレイからロングレンジからのジャンプシュートとシュートエリアは非常 ひじょう に広 ひろ かった。ルーキーイヤーに記録 きろく した平均 へいきん 30.5得点 とくてん はルーキーとしては歴代 れきだい 3位 い 、キャリア平均 へいきん 25.7得点 とくてん は歴代 れきだい 10位 い 、オールスター平均 へいきん 20.5得点 とくてん は歴代 れきだい 1位 い (4試合 しあい 以上 いじょう 出場 しゅつじょう した選手 せんしゅ のみを対象 たいしょう )と、ロバートソンの得点 とくてん 力 りょく は歴代 れきだい でも屈指 くっし であり、これらの数字 すうじ はNBAにスリーポイントシュートが導入 どうにゅう される以前 いぜん のガードの選手 せんしゅ が残 のこ したものとしては異例 いれい と言 い える(スリーポイントシュート導入 どうにゅう 以前 いぜん のガードでロバートソンより高 たか いキャリア平均 へいきん 得点 とくてん を残 のこ してるのはジェリー・ウェスト のみ)。
彼 かれ の得点 とくてん 力 りょく に手 て を焼 や いた敵 てき チームは当然 とうぜん のようにダブルチームを仕掛 しか けるが、それでも止 と められないのがロバートソンだった。広 ひろ い視野 しや とパスセンスに優 すぐ れたロバートソンはプレイメーカーとしても極 きわ めて優秀 ゆうしゅう であり、ジェリー・ウェストからは「状況 じょうきょう 判断 はんだん の上手 うま い選手 せんしゅ 」、ビル・ラッセル からは「心理 しんり 戦 せん は得意 とくい だがオスカーにはいつも裏 うら をかかれてしまう」と評 ひょう され、ディフェンスを集中 しゅうちゅう されてもあっさりと味方 みかた の得点 とくてん チャンスに変 か えてしまうロバートソンに敵 てき チームはお手上 てあ げ状態 じょうたい だった。彼 かれ は毎晩 まいばん のようにアシストを量産 りょうさん し、シーズン平均 へいきん アシストが初 はじ めて二 に 桁 けた の大台 おおだい を突破 とっぱ した選手 せんしゅ となり、6回 かい のアシスト王 おう にも輝 かがや いた。通常 つうじょう 得点 とくてん とアシストを両立 りょうりつ することは困難 こんなん とされているが、彼 かれ にバスケットの常識 じょうしき は当 あ てはまらず、史上 しじょう 7回 かい しか達成 たっせい されていないシーズン平均 へいきん 30得点 とくてん 10アシスト以上 いじょう はうち5回 かい がロバートソンによるものであり、また平均 へいきん 得点 とくてん ・アシストの双方 そうほう でリーグトップに立 た つというNBA史上 しじょう 2人 にん しかいない偉業 いぎょう も達成 たっせい している(いずれももう一人 ひとり はネイト・アーチボルド 。アーチボルドの時代 じだい には得点 とくてん 王 おう 、アシスト王 おう は通算 つうさん ではなく平均 へいきん で決 き められるようになったため、アーチボルドが史上 しじょう 唯一 ゆいいつ の得点 とくてん 王 おう ・アシスト王 おう の二 に 冠 かん 達成 たっせい 者 しゃ となっている)。またゴール下 か でも競 せ り負 ま けないロバートソンはリバウンドでも才能 さいのう を発揮 はっき しており、ガードの選手 せんしゅ としてはロバートソンただ一人 ひとり が達成 たっせい したシーズン平均 へいきん 二 に 桁 けた リバウンドを3シーズン連続 れんぞく で記録 きろく している。
ロバートソンは数字 すうじ 上 じょう の実績 じっせき のみならず、バスケットボールという競技 きょうぎ そのものにも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた選手 せんしゅ である。彼 かれ は「背 せ の低 ひく い選手 せんしゅ が務 つと める」というガードの概念 がいねん を打 う ち破 やぶ り、後 ご のマジック・ジョンソン のような大型 おおがた のポイントガードの出現 しゅつげん を促 うなが し、また1980年代 ねんだい から広 ひろ まったポイントフォワード の始祖 しそ であるという見方 みかた もある。またヘッドフェイクやフェイダウェイ・ジャンプシュートなど、当時 とうじ はまだ新 あたら しかった技術 ぎじゅつ の普及 ふきゅう にも貢献 こうけん した。
ロバートソンのキャリアの中 なか でも最 もっと も輝 かがや かしい業績 ぎょうせき の一 ひと つが1961-62シーズン に記録 きろく されたシーズン平均 へいきん トリプル・ダブル である。もっとも当時 とうじ はまだトリプル・ダブルという概念 がいねん そのものが一般 いっぱん に認知 にんち されておらず、この記録 きろく がいかに偉大 いだい で、そして困難 こんなん 極 きわ まるものであるかを知 し る者 もの は少 すく なく、ロバートソン本人 ほんにん ですらも後 のち になって「そんなに凄 すご いことなら毎年 まいとし でもやっていたのに」と語 かた っていたほどだった。この偉業 いぎょう がようやく正当 せいとう に評価 ひょうか されたのは1980年代 ねんだい に入 はい ってマジック・ジョンソン がトリプル・ダブルを量産 りょうさん するようになってからで、近年 きんねん になり改 あらた めてロバートソンの試合 しあい のスコアが調 しら べられ、彼 かれ がキャリアで181回 かい ものトリプル・ダブルを達成 たっせい していることが判明 はんめい した。これはマジックの138回 かい を大 おお きく引 ひ き離 はな し、2021年 ねん ラッセル・ウェストブルック が抜 ぬ くまで、歴代 れきだい 1位 い の記録 きろく であった。
ロバートソンが少 すく なくとも数字 すうじ の上 うえ では史上 しじょう 最 もっと も万能 ばんのう な選手 せんしゅ の一人 ひとり であることは疑 うたが いないが、一方 いっぽう でチームを大 おお きな成功 せいこう に導 みちび けなかったことを指摘 してき されることも多 おお く、彼 かれ がNBAファイナル を制 せい したのはカリーム・アブドゥル=ジャバー と組 く んだミルウォーキー・バックス 時代 じだい の1回 かい のみで、またこれほどの選手 せんしゅ でありながらシーズンMVPを受賞 じゅしょう したのも1回 かい のみである。それでもロバートソンが現役 げんえき から引退 いんたい して多 おお くの年月 としつき を経 へ てもなお彼 かれ に対 たい する評価 ひょうか は高 たか く、1999年 ねん にESPN が発表 はっぴょう した『20世紀 せいき の偉大 いだい なアメリカンアスリートTop100』では第 だい 36位 い (バスケットボール選手 せんしゅ では第 だい 7位 い )に、ランクされ、2000年 ねん には全米 ぜんべい バスケットボールコーチ協会 きょうかい から"Player of the Century"の称号 しょうごう を与 あた えられた。さらに2003年 ねん に発表 はっぴょう されたスラムマガジン が選 えら ぶ『NBA選手 せんしゅ Top75』ではマイケル・ジョーダン 、ウィルト・チェンバレン に次 つ ぐ第 だい 3位 い 、また2006年 ねん にESPNが発表 はっぴょう した偉大 いだい なポイントガードではマジック・ジョンソン に次 つ ぐ2位 い だった。2006年 ねん に創設 そうせつ された全米 ぜんべい カレッジバスケットボール殿堂 でんどう では、ジョン・ウッデン 、ビル・ラッセル 、ディーン・スミス 、ジェームズ・ネイスミス らと共 とも に初代 しょだい 殿堂 でんどう 入 い りメンバーに選 えら ばれた。
カレッジバスケでは彼 かれ の業績 ぎょうせき を讃 たた え、選手 せんしゅ 個人 こじん に与 あた えられる賞 しょう の一 ひと つとして『オスカー・ロバートソン・トロフィー』を設 もう けている。これは1959年 ねん に始 はじ まった全米 ぜんべい バスケットボール記者 きしゃ 協会 きょうかい (USBWA)が選出 せんしゅつ する年間 ねんかん 最優秀 さいゆうしゅう 選手 せんしゅ 賞 しょう が姿 すがた を変 か えたもので、初代 しょだい と、翌 よく 1960年 ねん にロバートソンが2年 ねん 連続 れんぞく で受賞 じゅしょう している。1998年 ねん には現在 げんざい の名前 なまえ に変 か わり、現在 げんざい カレッジバスケ界 かい では最 もっと も名誉 めいよ ある個人 こじん 賞 しょう の一 ひと つに数 かぞ えられている。
オスカー・ロバートソン訴訟 そしょう [ 編集 へんしゅう ]
ロバートソンが残 のこ した業績 ぎょうせき として忘 わす れてはならないのが、選手 せんしゅ 会長 かいちょう としてNBA選手 せんしゅ の地位 ちい 向上 こうじょう に貢献 こうけん したことである。ロバートソンは1965年 ねん にトム・ヘインソーン の跡 あと を継 つ いで第 だい 三 さん 代 だい 選手 せんしゅ 会長 かいちょう に就任 しゅうにん 。ロバートソンの在任 ざいにん 中 ちゅう は選手 せんしゅ 会 かい (NBPA )の活動 かつどう が活発 かっぱつ 化 か した時期 じき であり、選手 せんしゅ 会 かい からの様々 さまざま な要望 ようぼう を実現 じつげん させた。中 なか でも「オスカー・ロバートソン訴訟 そしょう 」として名高 なだか い1970年 ねん に起 お きた裁判 さいばん はNBAにおけるフリーエージェント 制 せい の確立 かくりつ に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。端 はし を発 はっ したのは1970年 ねん にNBAと、当時 とうじ 存在 そんざい したライバルリーグのABA の合併 がっぺい 合意 ごうい であり、これにより選手 せんしゅ の年俸 ねんぽう が減額 げんがく されることを恐 おそ れた選手 せんしゅ 会 かい 側 がわ は独占 どくせん 禁止 きんし 法 ほう 違反 いはん としてリーグ側 がわ を訴 うった えた(この裁判 さいばん の影響 えいきょう でABAとの合併 がっぺい は1976年 ねん まで遅 おく れた)。訴訟 そしょう から6年 ねん 後 ご にようやく和解 わかい に至 いた り、選手 せんしゅ 会 かい 側 がわ がABAとの合併 がっぺい を認 みと めるかわりに、フリーエージェント条項 じょうこう や大学 だいがく ドラフト規定 きてい が改定 かいてい された。以後 いご フリーエージェント制 せい の確立 かくりつ と共 とも にNBA選手 せんしゅ の年俸 ねんぽう は天井 てんじょう 知 し らずの上昇 じょうしょう を続 つづ け、現在 げんざい はどのプロスポーツリーグよりも高 たか い平均 へいきん 年俸 ねんぽう となっている。
オスカー以上 いじょう のオールラウンドな選手 せんしゅ は見 み たことがない。ジョーダンに出来 でき ることをオスカーはジョーダン以上 いじょう にこなせた。 — レナード・コペット (著名 ちょめい なスポーツ記者 きしゃ )
オスカーは高 たか くは跳 と べなかったがそれ以外 いがい は全 すべ てジョーダンより上 うえ だ。 — ネイト・サーモンド (殿堂 でんどう 入 い り選手 せんしゅ )
どのポジション、どの時代 じだい を通 とお してもパーフェクトな選手 せんしゅ はオスカー・ロバートソンだ。 — チャーリー・ローゼン (コーチ・評論 ひょうろん 家 か )
彼 かれ はオーケストラの指揮 しき 者 しゃ のようにコート上 じょう の出来事 できごと をコントロールしていた。 — ビル・ブラッドリー (殿堂 でんどう 入 い り選手 せんしゅ )
NBA個人 こじん 成績 せいせき [ 編集 へんしゅう ]
略称 りゃくしょう 説明 せつめい
GP
出場 しゅつじょう 試合 しあい 数 すう
GS
先発 せんぱつ 出場 しゅつじょう 試合 しあい 数 すう
MPG
平均 へいきん 出場 しゅつじょう 時間 じかん
FG%
フィールドゴール 成功 せいこう 率 りつ
3P%
スリーポイント 成功 せいこう 率 りつ
FT%
フリースロー 成功 せいこう 率 りつ
RPG
平均 へいきん リバウンド 数 かず
APG
平均 へいきん アシスト 数 かず
SPG
平均 へいきん スティール 数 かず
BPG
平均 へいきん ブロック 数 かず
PPG
平均 へいきん 得点 とくてん
太字 ふとじ
キャリアハイ
シーズン
チーム
GP
MPG
FG%
FT%
RPG
APG
PPG
1960–61
CIN
71
42.7
.473
.822
10.1
9.7*
30.5
1961–62
79
44.3
.478
.803
12.5
11.4*
30.8
1962–63
80*
44.0
.518
.810
10.4
9.5
28.3
1963–64
79
45.1
.483
.853*
9.9
11.0*
31.4
1964–65
75
45.6*
.480
.839
9.0
11.5 *
30.4
1965–66
76
46.0
.475
.842
7.7
11.1*
31.3
1966–67
79
43.9
.493
.873
6.2
10.7
30.5
1967–68
65
42.5
.500
.873 *
6.0
9.7*
29.2*
1968–69
79
43.8
.486
.838
6.4
9.8*
24.7
1969–70
69
41.5
.511
.809
6.1
8.1
25.3
1970–71 †
MIL
81
39.4
.496
.850
5.7
8.2
19.4
1971–72
64
37.3
.472
.836
5.0
7.7
17.4
1972–73
73
37.5
.454
.847
4.9
7.5
15.5
1973–74
70
35.4
.438
.835
4.0
6.4
12.7
通算 つうさん : 14年 ねん
1,040
42.2
.485
.838
7.5
9.5
25.7
年度 ねんど
チーム
GP
MPG
FG%
FT%
RPG
APG
PPG
1962
CIN
4
46.3
.519
.795
11.0
11.0
28.8
1963
12
47.5
.470
.864
13.0
9.0
31.8
1964
10
47.1
.455
.858
8.9
8.4
29.3
1965
4
48.8
.427
.923
4.8
12.0
28.0
1966
5
44.8
.408
.897
7.6
7.8
31.8
1967
4
45.8
.516
.892
4.0
11.3
24.8
1971 †
MIL
14
37.1
.486
.754
5.0
8.9
18.3
1972
11
34.5
.407
.833
5.8
7.5
13.1
1973
6
42.7
.500
.912
4.7
7.5
21.2
1974
16
43.1
.450
.846
3.4
9.3
14.0
出場 しゅつじょう : 10回 かい
86
42.7
.460
.855
6.7
8.9
22.2
NBAレギュラーシーズン通算 つうさん 成績 せいせき
出場 しゅつじょう 試合 しあい :1,040試合 しあい (14シーズン)
通算 つうさん 得点 とくてん :26,710得点 とくてん
通算 つうさん リバウンド:7,804リバウンド
通算 つうさん アシスト:9,887アシスト (歴代 れきだい 6位 い )
FG成功 せいこう 率 りつ :.485
NBAプレーオフ 通算 つうさん 成績 せいせき
出場 しゅつじょう 試合 しあい :86試合 しあい
通算 つうさん 得点 とくてん :1,910得点 とくてん
通算 つうさん リバウンド:578リバウンド
通算 つうさん アシスト:769アシスト
NBAレギュラーシーズン平均 へいきん 成績 せいせき
平均 へいきん 出場 しゅつじょう 時間 じかん :42.2分 ふん
平均 へいきん 得点 とくてん :25.7得点 とくてん (歴代 れきだい 10位 い )
平均 へいきん リバウンド:7.5リバウンド
平均 へいきん アシスト:9.5アシスト (歴代 れきだい 4位 い )
FT成功 せいこう 率 りつ :.838
NBAプレーオフ平均 へいきん 成績 せいせき
平均 へいきん 出場 しゅつじょう 時間 じかん :42.7分 ふん
平均 へいきん 得点 とくてん :22.2得点 とくてん
平均 へいきん リバウンド:6.7リバウンド
平均 へいきん アシスト:8.9アシスト
カレッジ
NBA
スタッツリーダー
6× NBAアシスト王 おう : 1961, 1962, 1964-1966, 1969
2× NBAフリースロー成功 せいこう 率 りつ 1位 い : 1964年 ねん , 1968年 ねん
その他 た
サクラメント・キングスのチーム記録 きろく
通算 つうさん 22,009得点 とくてん は歴代 れきだい 1位 い
通算 つうさん 7,731アシストは歴代 れきだい 1位 い
1試合 しあい 21アシストは歴代 れきだい 1位 い
NBA記録 きろく
NBA史上 しじょう 2人 にん のみが達成 たっせい しているシーズン平均 へいきん トリプル・ダブル 達成 たっせい 者 しゃ
通算 つうさん トリプル・ダブル 達成 たっせい 回数 かいすう 181回 かい はNBA歴代 れきだい 2位 い
引退 いんたい 後 ご ・私生活 しせいかつ など[ 編集 へんしゅう ]
ロバートソンは父 ちち ベイリーと母 はは マーゼルの間 あいだ で、三 さん 人 にん 兄弟 きょうだい のうちの一人 ひとり として生 う まれ、差別 さべつ と貧困 ひんこん の中 なか で育 そだ った。幼少 ようしょう 期 き の頃 ころ は癇 かん 癪持 しゃくも ちだったが金 きん メダル獲得 かくとく 、プロ選手 せんしゅ としての成功 せいこう 、結婚 けっこん を経 へ て落 お ち着 つ きのある青年 せいねん へと成長 せいちょう し、2人 ふたり の娘 むすめ にも恵 めぐ まれた。娘 むすめ の一人 ひとり が腎不全 じんふぜん を患 わずら っていたためロバートソンは自身 じしん の腎臓 じんぞう を娘 むすめ に移植 いしょく しており、この経験 けいけん もあって全米 ぜんべい 腎臓 じんぞう 財団 ざいだん のスポークスマンも務 つと めた。引退 いんたい 後 ご はインディアナポリス のアフリカ系 けい アメリカ人 じん の生活 せいかつ 環境 かんきょう の向上 こうじょう に尽力 じんりょく する傍 かたわ ら、シンシナティ を拠点 きょてん とする化学 かがく 会社 かいしゃ 『Orchem』を所有 しょゆう し、短期間 たんきかん ながらCBS でNBA の解説 かいせつ 者 しゃ を務 つと めた。1994年 ねん には彼 かれ の功績 こうせき を記念 きねん し、シンシナティのバスケットボールアリーナ、シューメーカーセンターの前 まえ に9フィートの銅像 どうぞう が建設 けんせつ された。2003年 ねん には自伝 じでん 『Big O』を出版 しゅっぱん している。
関連 かんれん 項目 こうもく 1940年代 ねんだい 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1940年代 ねんだい 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい 歴代 れきだい ベスト10プレーオフ歴代 れきだい ベスト10
1940年代 ねんだい 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい 歴代 れきだい ベスト10
①ジョン・ストックトン :15,806
②ジェイソン・キッド :12,091
③クリス・ポール :11,501
④レブロン・ジェームズ :10,420
⑤スティーブ・ナッシュ :10,335
⑥マーク・ジャクソン :10,334
⑦マジック・ジョンソン :10,141
⑧オスカー・ロバートソン :9,887
⑨ラッセル・ウェストブルック :9,162
⑩アイザイア・トーマス :9,061
プレーオフ歴代 れきだい ベスト10
①マジック・ジョンソン :2,346
②レブロン・ジェームズ :2,023
③ジョン・ストックトン :1,839
④ジェイソン・キッド :1,263
⑤クリス・ポール :1,233
⑥トニー・パーカー :1,143
⑦ラジョン・ロンド :1,136
⑧ラリー・バード :1,062
⑨スティーブ・ナッシュ :1,061
⑩スコッティ・ピッペン :1,048