オスカー・ロバートソン

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オスカー・ロバートソン
Oscar Robertson
1960年代ねんだいシンシナティ・ロイヤルズでのロバートソン
引退いんたい
愛称あいしょう the Big O
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
生年月日せいねんがっぴ (1938-11-24) 1938ねん11月24にち(85さい
出身しゅっしん テネシーしゅうシャーロット
身長しんちょう(現役げんえき) 196cm (6 ft 5 in)
体重たいじゅう(現役げんえき) 93kg (205 lb)
キャリア情報じょうほう
高校こうこう クリスパス・アタック高校こうこう
大学だいがく シンシナティ大学だいがく
NBAドラフト 1960ねん / 地域ちいき指名しめい
プロ選手せんしゅ期間きかん 1960ねん–1974ねん
ポジション ポイントガード
背番号せばんごうれき 14, 1
永久えいきゅう欠番けつばん キングス  14  / バックス  1 
経歴けいれき
1960-1970シンシナティ・ロイヤルズ
1970-1974ミルウォーキー・バックス
受賞じゅしょうれき
NBA通算つうさん成績せいせき
得点とくてん 26,710 (25.7 ppg)
リバウンド 7,804 (7.5 rpg)
アシスト 9,887 (9.5 apg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
バスケットボール殿堂でんどう選手せんしゅ (詳細しょうさい)
FIBA殿堂でんどう選手せんしゅ (詳細しょうさい)
カレッジバスケットボール殿堂でんどう (2006ねん)
代表だいひょうれき
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
獲得かくとくメダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
オリンピック
きむ 1960 ローマ バスケットボール
パンアメリカン競技きょうぎ大会たいかい
きむ 1959 シカゴ バスケットボール

オスカー・パーマー・ロバートソン (Oscar Palmer Robertson, 1938ねん11月24にち - ) は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくテネシーしゅうシャーロット出身しゅっしんもとプロバスケットボール選手せんしゅ。ニックネームはThe Big Oで、全米ぜんべいバスケットボール協会きょうかい(NBA)のシンシナティ・ロイヤルズミルウォーキー・バックスでプレーした。1960年代ねんだいから1970年代ねんだい前半ぜんはんにかけて活躍かつやくし、NBA史上しじょう最高さいこう選手せんしゅとしてかたられることもある伝説でんせつてきめい選手せんしゅである。

シンシナティ大学だいがく卒業そつぎょう1960ねんローマオリンピックきんメダル獲得かくとくしたのち1960ねんのNBAドラフトでプロキャリアの大半たいはんごすことになるシンシナティ・ロイヤルズ(げんサクラメント・キングス)から全体ぜんたい1指名しめいけてNBAりし、1961ねん新人しんじんおう受賞じゅしょう以後いご1974ねん現役げんえきから引退いんたいするまでにアシストおう6かいオールスターゲーム出場しゅつじょう12かい、オールスターMVP受賞じゅしょう3かい、オールNBAチーム選出せんしゅつ11かいシーズンMVP受賞じゅしょう1かいミルウォーキー・バックス時代じだい優勝ゆうしょうたすなど数々かずかず栄誉えいよよくした。また現役げんえきちゅう選手せんしゅかいNBPA会長かいちょうとしてNBA選手せんしゅ地位ちい向上こうじょうおおきく貢献こうけん。1980ねんには殿堂でんどうたし、カレッジバスケかいではもっと重要じゅうよう個人こじんしょうひとつとして『オスカー・ロバートソン・トロフィー』がもうけられている。1961-62シーズン達成たっせいしたシーズン平均へいきんトリプル・ダブルはNBAの伝説でんせつとなっている。また、かれESPNによる20世紀せいき最高さいこうのアメリカじんアスリートだい36にランクインしている[1][2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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オスカー・パルマー・ロバートソンはいま人種じんしゅ差別さべつ色濃いろこのこ時代じだいである1938ねんテネシーしゅうシャーロットでまれ、4さいころうつんだインディアナポリスでは黒人こくじんゲットーを住処すみかとして、貧困ひんこん人種じんしゅ差別さべつれた少年しょうねんごした。この時代じだい子供こどもたちのおおくは野球やきゅう熱中ねっちゅうしていたが、野球やきゅう道具どうぐそろえることができなかったロバートソンは果物くだものカゴをぶらげたかべけて、テニスボールにぬのまるめたものをげてあそんだ。これがかれバスケットボールキャリアのはじまりだった。

高校こうこう進学しんがく選択肢せんたくしせまく、ほとんどの黒人こくじん学校がっこうはバスケットができる体育館たいいくかんがなく、また白人はくじん学校がっこうはロバートソンの入学にゅうがく拒否きょひしたため、ロバートソンはインディアナポリスのクリスパス・アタックス高校こうこう進学しんがくするしかなかったが、ここでコーチ、レイ・クロウに出会であえたことはロバートソンにとってはおおきな幸運こううんだった。クロウはロバートソンのすぐれた身体しんたい能力のうりょくおおきな可能かのうせい見出みいだし、基礎きそからみっちりとたたんだ。クロウの指導しどうのもとチームのエースに成長せいちょうしたロバートソンは2年生ねんせいの1954ねんのシーズンにはチームをインディアナしゅうチャンピオンシップのベスト4にみちびき、よく1955ねんのシーズンには31しょう1はい成績せいせきでついにしゅうチャンピオンシップを制覇せいはどうしゅうにとって黒人こくじん学校がっこうがチャンピオンにかがやくのははつ快挙かいきょであった。1956ねんのシーズンにはいってもアタックス高校こうこういきおいはまらず、前年ぜんねんからつづき45連勝れんしょうしゅうしん記録きろくとなった)を記録きろくし、31せん全勝ぜんしょうしゅうチャンピオンシップも連覇れんぱ達成たっせいするとうパーフェクトシーズンをごす。平均へいきん24.0得点とくてん記録きろくしたロバートソンはしゅうのMr.バスケットボールにえらばれた。コートではだれよりもかがやいたロバートソンだったが、コートからいちでもそとれば差別さべつされる黒人こくじん一人ひとりぎず、優勝ゆうしょう祝賀しゅくがパーティーをひらこうとしたところ、まちからされるなどのあつかいをけた。このような状況じょうきょうはインディアナをはなれ、シンシナティ大学だいがく進学しんがくしたのちつづいた。

シンシナティ大学だいがく[編集へんしゅう]

大学だいがくでのロバートソンはさらに素晴すばらしく、1957ねんからの3年間ねんかんのプレイで平均へいきん33.8得点とくてん同校どうこう歴代れきだい3)15.2リバウンド4.8アシストを記録きろくすべてのシーズンでNCAA得点とくてんおう、オールアメリカン、大学だいがく年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅかがやき、14のNCAA記録きろくと19の大学だいがく記録きろくえた。大学だいがく通算つうさん2,973得点とくてんのちピート・マラビッチやぶられるまでのNCAA記録きろくだった。2ねんのシーズンにはマディソン・スクエア・ガーデンでのトーナメント大会たいかいで52得点とくてん翌年よくねんには62得点とくてんをあげている。当時とうじのカレッジバスケかいのトップ選手せんしゅとなったロバートソンだったが、人種じんしゅ差別さべつ被害ひがい相変あいかわらずだった。過去かこシンシナティでプレイした黒人こくじんはチェスター・スミス(1932ねん)、ロンドン・ガント(1936ねん)、 ウィラード・スターゲル(1942ねん)、 トム・オバートン(1951ねん)の4にんしかおらず、5にんとなるロバートソンがコートのうえ活躍かつやくする光景こうけいおおくの白人はくじんにとってはれられないものだった。差別さべつはげしい都市としへの遠征えんせいおおくの困難こんなんがつきまとい、ホテルへの宿泊しゅくはく拒否きょひされ、大学だいがく宿舎しゅくしゃまらなければならないことは日常にちじょう茶飯事さはんじだった。またロバートソンの在学ざいがくちゅうシンシナティたいは79しょう9はい記録きろくし、NCAAトーナメントでは2Final4に進出しんしゅつするも優勝ゆうしょうとはえんがなかったことは、ロバートソンののちのNBAキャリアを暗示あんじしているかのようだった。

オリンピック[編集へんしゅう]

大学だいがく卒業そつぎょうしたロバートソンは1960ねんなつアメリカ代表だいひょうとして1960ねんローマオリンピック出場しゅつじょう。ロバートソンにジェリー・ウェストジェリー・ルーカスウォルト・ベラミーテリー・ディッシンガーボブ・ブーザーエイドリアン・スミスダレル・イムホフなど錚々たるメンバーがそろったこのとき代表だいひょうドリームチーム以前いぜんとしては歴代れきだい最高さいこう代表だいひょうチームと評価ひょうかされている(12選手せんしゅちゅう10にんのちにNBAでプレイし、ロバートソン、ウェスト、ルーカス、ベラミーの4にん殿堂でんどうしている)。ロバートソンはウェストとともにチームキャプテンをつとめ、ともにチームの主要しゅよう得点とくてんげんとしても活躍かつやく大会たいかい平均へいきん17.0得点とくてんをあげ、試合しあいでは平均へいきん42.4てんをつけて各国かっこく代表だいひょう一蹴いっしゅうし、きんメダルを獲得かくとくした。ポジションはフォワードとして登録とうろくされていたが、実質じっしつロバートソンがポイントガードとして代表だいひょうチームを牽引けんいんした。なお、ロバートソンはルーカス、ブーザー、スミスの3にんのちにNBAでもチームメートとしてごすことになる。

NBAキャリア[編集へんしゅう]

シンシナティ・ロイヤルズ (1960-1970)[編集へんしゅう]

ロイヤルズ時代じだい

1960ねんのNBAドラフト地域ちいき指名しめい地元じもと出身しゅっしん選手せんしゅ指名しめいできる制度せいど)と全体ぜんたい1指名しめいけてシンシナティ・ロイヤルズ入団にゅうだん同期どうきにジェリー・ウェストやレニー・ウィルケンズらがいる。ロバートソンはロイヤルズとの契約けいやくで33,000ドルとまずしかった少年しょうねん時代じだいにはかんがえられないような大金たいきんにしたが、すぐにそのがく見合みあうだけの選手せんしゅであることを証明しょうめいした。ロバートソンはルーキーイヤーから平均へいきん30.5得点とくてん10.1リバウンド9.7アシストと、おどろくべきオールラウンドな能力のうりょく発揮はっき。1ねんからアシストおうかがやくとともに、平均へいきん9.7アシストはNBAではボブ・クージー記録きろくいて過去かこ最高さいこう数字すうじとなり、また平均へいきん30.5得点とくてんはリーグ3こう記録きろくだった。さらに今後こんご12ねん連続れんぞくえらばれることになるオールスターゲームにも出場しゅつじょうし、23得点とくてん14アシストをあげてオールスターMVPにもかがやいた。当然とうぜんのように新人しんじんおう受賞じゅしょうするとともに、やはり今後こんご9ねん連続れんぞくえらばれつづけることになるオールNBA1stチームにもつらねている。1ねんからはやくもリーグトップクラスの選手せんしゅとしての地位ちい確立かくりつしてしまったロバートソンともう一人ひとりのエース、ジャック・トゥィマンひきいられ、モーリス・ストークス不慮ふりょ事故じこ以来いらい成績せいせきんでたロイヤルズも上昇じょうしょう気流きりゅうり、前年ぜんねんの19しょう56はいから33しょう46はいおおきく勝率しょうりつばしたものの、プレーオフにはとどかなかった。

よく1961-62シーズンはロバートソンにとってもNBAにとっても伝説でんせつてきなシーズンとなった。かれはこのシーズン平均へいきん30.8得点とくてん12.5リバウンド11.4アシストを記録きろくし、2016-2017シーズンラッセル・ウェストブルック達成たっせいするまでNBA史上しじょうはつシーズン平均へいきんトリプル・ダブル達成たっせいしたのである。平均へいきん11.4アシストはリーグはつけた大台おおだい突破とっぱであり、通算つうさん899アシストはクージーの記録きろく更新こうしんするリーグ歴代れきだい最多さいたとなった。2ねん連続れんぞくアシストおうはもちろんのこと、平均へいきん30.8得点とくてんはリーグ5、12.5リバウンドもリーグ9はいった。チームは43しょう37はい成績せいせきでプレーオフ出場しゅつじょうたし、ロバートソンはプレーオフ期間きかんちゅう平均へいきん28.8得点とくてん11.0リバウンド11.0アシストのトリプル・ダブルの成績せいせきでチームを牽引けんいんしたが、デトロイト・ピストンズまえに1しょう4はい敗退はいたいした。以後いごもロバートソンは個人こじん成績せいせきではじゅんトリプル・ダブルの数字すうじのこつづけるが(ロバートソンの最初さいしょの5シーズンは平均へいきん30.4得点とくてん10.4リバウンド10.6アシストのトリプル・ダブルの成績せいせきだった)、プレーオフでは結果けっかのこせない日々ひびつづく。かれまえ当時とうじのリーグを支配しはいしたボストン・セルティックスちはだかったからである。さらにシラキュース・ナショナルズ(フィラデルフィア・76ers)ともプレーオフでは幾度いくどとなく対戦たいせんしたが、ロイヤルズはセルティックスと76ersのかべをどうしてもとっくずすことができなかった(チームあいだのライバル関係かんけいだけでなく、セルティックスのボブ・クージー、76ersのハル・グリアとのマッチアップも注目ちゅうもくあつめた)。1962-63シーズンにはデビジョン準決勝じゅんけっしょうでナショナルズをやぶり、デビジョン決勝けっしょうにてセルティックスと対決たいけつ当時とうじ無敵むてきほこったセルティックス相手あいてだい7せんまでねば健闘けんとうせた。

1963-64シーズンにロバートソンのキャリアは絶頂ぜっちょうむかえる。かれはこのシーズンに平均へいきん31.4得点とくてん9.9リバウンド11.0アシストをあげ、3かいのアシストおうかがやくととも得点とくてんおうレースではリーグ2はいり、フリースロー成功せいこうりつ85.3%はリーグ1となった。ロバートソンに盟友めいゆうトゥィマン、ベテランのウェイン・エンブリー、アメリカ代表だいひょうのチームメートでこのシーズンにNBAデビューをたしたジェリー・ルーカス、やはり代表だいひょうチームメートのエイドリアン・スミスにボブ・ブーザーと充実じゅうじつしたロスターとなったロイヤルズは、しんヘッドコーチにもとロイヤルズ選手せんしゅだったジャック・マクマホンむかえ、過去かこ最高さいこうぼしとなる55しょうをあげた。かい進撃しんげき中心ちゅうしんにいたロバートソンはシーズンMVP受賞じゅしょう当時とうじどうしょうだいセンタービル・ラッセルウィルト・チェンバレン独占どくせん状態じょうたいだったが、60年代ねんだいにこの2人ふたり以外いがい選手せんしゅ唯一ゆいいつMVPにかがやいたのがロバートソンだった。さらにロバートソンはオールスターで26得点とくてん14リバウンド8アシストをあげ、オールスターMVPも受賞じゅしょうしている。絶好調ぜっこうちょうのシーズンをごしたロバートソンとロイヤルズはプレーオフ・デビジョン準決勝じゅんけっしょうでチェンバレンの76ersをやぶるが、デビジョン決勝けっしょうではふたたびラッセルのセルティックスのまえやぶれ、ゆめファイナル進出しんしゅつかなわなかった。

以後いごもロバートソンは個人こじん成績せいせきでは素晴すばらしい数字すうじのこつづけ、ロイヤルズ所属しょぞくけい6かいのアシストおう、2かいのフリースロー成功せいこうりつ11967-68シーズン記録きろくした平均へいきん29.2得点とくてんはリーグ1当時とうじ得点とくてんおう平均へいきんではなく通算つうさんめられていたため得点とくてんおうではなかった)となったが、かれ奮闘ふんとうもチームの成功せいこうにはつながらなかった。1964-65シーズンからは3ねん連続れんぞくでプレーオフ・デビジョン準決勝じゅんけっしょう敗退はいたいし、さらに1967-68シーズンからはプレーオフにすら出場しゅつじょうできなかった。不甲斐ふがいないチームに地元じもとファンの支持しじうすらいでいき、1969-70シーズンにはファンをもどすために当時とうじロイヤルズのヘッドコーチだったボブ・クージーが現役げんえき復帰ふっきするという苦肉くにくさくるも、チーム成績せいせき回復かいふくしなかった。

1969-70シーズン終了しゅうりょう、ロイヤルズとミルウォーキー・バックスとのあいだでトレードが成立せいりつ。バックスからのフリン・ロビンソンチャーリー・パウルクたいし、ロイヤルズから放出ほうしゅつされる選手せんしゅがオスカー・ロバートソンであることにNBAファンはおどろいた。ロイヤルズがチームのだいエースを手放てばなした理由りゆう当時とうじもっとささやかれたのがロバートソンとボブ・クージーHCの確執かくしつであり、クージーがかれ保持ほじしていたいくつかのNBA記録きろくをロバートソンが次々つぎつぎやぶっていったことに嫉妬しっとしたからだというものだった。ロバートソンはトレードについて「わたしかれ(クージー)が間違まちがってたとおもうし、このことをけっしてわすれないとおもう」とかたっている。ロバートソンは大学だいがく時代じだいの4年間ねんかん、NBAでの10年間ねんかんけい14年間ねんかんごしたシンシナティをはなれることになった。

ミルウォーキー・バックス (1970-1974)[編集へんしゅう]

バックス時代じだい

ロバートソンのバックス移籍いせきはロバートソンとルー・アルシンダー(カリーム・アブドゥル=ジャバー)というビッグデュオの誕生たんじょう意味いみした。ジャバーはロバートソンよりも一回ひとまわわかいがすでにリーグトップクラスのセンターとしての地位ちい確立かくりつしており、のちには史上しじょう最高さいこうのセンターの一人ひとり評価ひょうかされるにいたる。ポイントガードとセンターそれぞれに史上しじょう最高さいこうクラスの選手せんしゅようしたバックスは1970-71シーズンはいると無類むるいつよさを発揮はっき当時とうじのNBA記録きろくとなる20連勝れんしょう達成たっせいし、最終さいしゅうてきにはリーグ1となる66しょう16はい記録きろくした。ロバートソン個人こじんはエースの役割やくわりわかいジャバーにゆずり、個人こじん成績せいせき平均へいきん19.4得点とくてん5.7リバウンド8.2アシストと数字すうじじょうでは過去かこ最低さいていとなったが、チームの司令塔しれいとうとして抜群ばつぐん統率とうそつりょく発揮はっきし、またジャバーとのピック&ロールは非常ひじょう阻止そしがたいオフェンスパターンとなった。プレーオフではロバートソンにとって宿願しゅくがんとなるデビジョン決勝けっしょう突破とっぱたし、ついにNBAファイナルに到達とうたつ。ファイナルではウェス・アンセルドガス・ジョンソンようするボルティモア・ブレッツ対決たいけつするが、バックスは4せん全勝ぜんしょうでブレッツを一蹴いっしゅうし、プレーオフ期間きかんちゅうも12しょう2はいという圧倒的あっとうてきつよさをせつけ、ついにバックスはつとなる優勝ゆうしょうげた。ロバートソンにとっては移籍いせき1ねんにしてのはつ優勝ゆうしょうとなった。

プロ12ねん、33さいとなっていたロバートソンは歴年れきねん奮闘ふんとうたたり、このころにはあし慢性まんせいてき故障こしょうかかえるようになったため、念願ねんがんのチャンピオンリングをれたことで引退いんたい考慮こうりょしたが、そのもバックスで3年間ねんかんプレイ。かれ所属しょぞく期間きかんちゅうの4年間ねんかん、バックスはすべてのシーズンでデビジョン優勝ゆうしょうたし、3ねん連続れんぞくで60しょうえを達成たっせいするなどリーグ屈指くっし強豪きょうごうとして君臨くんりんした。1973-74シーズンにはふたたびファイナル進出しんしゅつたし、ロバートソンには2つのチャンピオンリング獲得かくとく機会きかいあたえられたが、かれゆめはばんだのはまたしてもボストン・セルティックスだった。バックスとデーブ・コーウェンスジョン・ハブリチェックようするセルティックスは激戦げきせんひろげ、優勝ゆうしょう行方ゆくえだい7せんにまでもつれたが、バックスはだい7せんやぶれて優勝ゆうしょうはならなかった。

ロバートソンは1973-74シーズンを最後さいご引退いんたい決意けつい。14年間ねんかんおよんだNBAキャリアにまくろした。ロバートソンのラストシーズンに59しょうをあげたバックスが、かれ引退いんたい1974-75シーズンに38しょうまで成績せいせきんだことは、ロバートソンの影響えいきょうりょくおおきさを物語ものがたるものだった。

プレースタイル・業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

オスカー・ロバートソンは「NBA史上しじょう最高さいこう選手せんしゅ」をろんじるうえ無視むしできない存在そんざいである。ロバートソンは身長しんちょう196cm体重たいじゅう100kgとフォワードみの長身ちょうしん屈強くっきょう肉体にくたいぬしでありながら、ガードとしてのすぐれたスピードとクイックネスをそなえ、さらにバスケットIQも非常ひじょうたかいという、どころのない万能ばんのう選手せんしゅであり、当時とうじ記者きしゃからは「ハンターの、マジシャンの、スプリンターのあしあわったおとこ」とひょうされ、伝説でんせつてきなコーチ、レッド・アワーバックはロバートソンをいままでなかもっと才能さいのうのある評価ひょうかした。

ロバートソンは得点とくてん、リバウンド、アシストなどバスケットに必要ひつようなあらゆるめんたいして非凡ひぼん才能さいのう発揮はっきした。2のフリースロー成功せいこうりつ1(キャリア通算つうさん83.8%)の実績じっせきしめすようにロバートソンはすぐれたシューターだった。その長身ちょうしんゆえにミスマッチの発生はっせい容易よういなうえ、さらにひじけてはなつという独特どくとくのシュートフォームのためかれのシュートをブロックするのはむずかしく、また屈強くっきょう肉体にくたいかしたパワープレイからロングレンジからのジャンプシュートとシュートエリアは非常ひじょうひろかった。ルーキーイヤーに記録きろくした平均へいきん30.5得点とくてんはルーキーとしては歴代れきだい3、キャリア平均へいきん25.7得点とくてん歴代れきだい10、オールスター平均へいきん20.5得点とくてん歴代れきだい1(4試合しあい以上いじょう出場しゅつじょうした選手せんしゅのみを対象たいしょう)と、ロバートソンの得点とくてんりょく歴代れきだいでも屈指くっしであり、これらの数字すうじはNBAにスリーポイントシュートが導入どうにゅうされる以前いぜんのガードの選手せんしゅのこしたものとしては異例いれいえる(スリーポイントシュート導入どうにゅう以前いぜんのガードでロバートソンよりたかいキャリア平均へいきん得点とくてんのこしてるのはジェリー・ウェストのみ)。

かれ得点とくてんりょくいたてきチームは当然とうぜんのようにダブルチームを仕掛しかけるが、それでもめられないのがロバートソンだった。ひろ視野しやとパスセンスにすぐれたロバートソンはプレイメーカーとしてもきわめて優秀ゆうしゅうであり、ジェリー・ウェストからは「状況じょうきょう判断はんだん上手うま選手せんしゅ」、ビル・ラッセルからは「心理しんりせん得意とくいだがオスカーにはいつもうらをかかれてしまう」とひょうされ、ディフェンスを集中しゅうちゅうされてもあっさりと味方みかた得点とくてんチャンスにえてしまうロバートソンにてきチームはお手上てあ状態じょうたいだった。かれ毎晩まいばんのようにアシストを量産りょうさんし、シーズン平均へいきんアシストがはじめてけた大台おおだい突破とっぱした選手せんしゅとなり、6かいのアシストおうにもかがやいた。通常つうじょう得点とくてんとアシストを両立りょうりつすることは困難こんなんとされているが、かれにバスケットの常識じょうしきてはまらず、史上しじょう7かいしか達成たっせいされていないシーズン平均へいきん30得点とくてん10アシスト以上いじょうはうち5かいがロバートソンによるものであり、また平均へいきん得点とくてん・アシストの双方そうほうでリーグトップにつというNBA史上しじょう2にんしかいない偉業いぎょう達成たっせいしている(いずれももう一人ひとりネイト・アーチボルド。アーチボルドの時代じだいには得点とくてんおう、アシストおう通算つうさんではなく平均へいきんめられるようになったため、アーチボルドが史上しじょう唯一ゆいいつ得点とくてんおう・アシストおうかん達成たっせいしゃとなっている)。またゴールでもけないロバートソンはリバウンドでも才能さいのう発揮はっきしており、ガードの選手せんしゅとしてはロバートソンただ一人ひとり達成たっせいしたシーズン平均へいきんけたリバウンドを3シーズン連続れんぞく記録きろくしている。

ロバートソンは数字すうじじょう実績じっせきのみならず、バスケットボールという競技きょうぎそのものにもおおきな影響えいきょうあたえた選手せんしゅである。かれは「ひく選手せんしゅつとめる」というガードの概念がいねんやぶり、マジック・ジョンソンのような大型おおがたのポイントガードの出現しゅつげんうながし、また1980年代ねんだいからひろまったポイントフォワード始祖しそであるという見方みかたもある。またヘッドフェイクやフェイダウェイ・ジャンプシュートなど、当時とうじはまだあたらしかった技術ぎじゅつ普及ふきゅうにも貢献こうけんした。

トリプル・ダブル[編集へんしゅう]

ロバートソンのキャリアのなかでももっとかがやかしい業績ぎょうせきひとつが1961-62シーズン記録きろくされたシーズン平均へいきんトリプル・ダブルである。もっとも当時とうじはまだトリプル・ダブルという概念がいねんそのものが一般いっぱん認知にんちされておらず、この記録きろくがいかに偉大いだいで、そして困難こんなんきわまるものであるかをものすくなく、ロバートソン本人ほんにんですらものちになって「そんなにすごいことなら毎年まいとしでもやっていたのに」とかたっていたほどだった。この偉業いぎょうがようやく正当せいとう評価ひょうかされたのは1980年代ねんだいはいってマジック・ジョンソンがトリプル・ダブルを量産りょうさんするようになってからで、近年きんねんになりあらためてロバートソンの試合しあいのスコアが調しらべられ、かれがキャリアで181かいものトリプル・ダブルを達成たっせいしていることが判明はんめいした。これはマジックの138かいおおきくはなし、2021ねんラッセル・ウェストブルックくまで、歴代れきだい1記録きろくであった。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ロバートソンがすくなくとも数字すうじうえでは史上しじょうもっと万能ばんのう選手せんしゅ一人ひとりであることはうたがいないが、一方いっぽうでチームをおおきな成功せいこうみちびけなかったことを指摘してきされることもおおく、かれNBAファイナルせいしたのはカリーム・アブドゥル=ジャバーんだミルウォーキー・バックス時代じだいの1かいのみで、またこれほどの選手せんしゅでありながらシーズンMVPを受賞じゅしょうしたのも1かいのみである。それでもロバートソンが現役げんえきから引退いんたいしておおくの年月としつきてもなおかれたいする評価ひょうかたかく、1999ねんESPN発表はっぴょうした『20世紀せいき偉大いだいなアメリカンアスリートTop100』ではだい36(バスケットボール選手せんしゅではだい7)に、ランクされ、2000ねんには全米ぜんべいバスケットボールコーチ協会きょうかいから"Player of the Century"の称号しょうごうあたえられた。さらに2003ねん発表はっぴょうされたスラムマガジンえらぶ『NBA選手せんしゅTop75』ではマイケル・ジョーダンウィルト・チェンバレンだい3、また2006ねんにESPNが発表はっぴょうした偉大いだいなポイントガードではマジック・ジョンソンぐ2だった。2006ねん創設そうせつされた全米ぜんべいカレッジバスケットボール殿堂でんどうでは、ジョン・ウッデンビル・ラッセルディーン・スミスジェームズ・ネイスミスらととも初代しょだい殿堂でんどうりメンバーにえらばれた。

カレッジバスケではかれ業績ぎょうせきたたえ、選手せんしゅ個人こじんあたえられるしょうひとつとして『オスカー・ロバートソン・トロフィー』をもうけている。これは1959ねんはじまった全米ぜんべいバスケットボール記者きしゃ協会きょうかい (USBWA)が選出せんしゅつする年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう姿すがたえたもので、初代しょだいと、よく1960ねんにロバートソンが2ねん連続れんぞく受賞じゅしょうしている。1998ねんには現在げんざい名前なまえわり、現在げんざいカレッジバスケかいではもっと名誉めいよある個人こじんしょうひとつにかぞえられている。

オスカー・ロバートソン訴訟そしょう[編集へんしゅう]

ロバートソンがのこした業績ぎょうせきとしてわすれてはならないのが、選手せんしゅ会長かいちょうとしてNBA選手せんしゅ地位ちい向上こうじょう貢献こうけんしたことである。ロバートソンは1965ねんトム・ヘインソーンあといでだいさんだい選手せんしゅ会長かいちょう就任しゅうにん。ロバートソンの在任ざいにんちゅう選手せんしゅかいNBPA)の活動かつどう活発かっぱつした時期じきであり、選手せんしゅかいからの様々さまざま要望ようぼう実現じつげんさせた。なかでも「オスカー・ロバートソン訴訟そしょう」として名高なだかい1970ねんきた裁判さいばんはNBAにおけるフリーエージェントせい確立かくりつおおきな影響えいきょうおよぼした。はしはっしたのは1970ねんにNBAと、当時とうじ存在そんざいしたライバルリーグのABA合併がっぺい合意ごういであり、これにより選手せんしゅ年俸ねんぽう減額げんがくされることをおそれた選手せんしゅかいがわ独占どくせん禁止きんしほう違反いはんとしてリーグがわうったえた(この裁判さいばん影響えいきょうでABAとの合併がっぺいは1976ねんまでおくれた)。訴訟そしょうから6ねんにようやく和解わかいいたり、選手せんしゅかいがわがABAとの合併がっぺいみとめるかわりに、フリーエージェント条項じょうこう大学だいがくドラフト規定きてい改定かいていされた。以後いごフリーエージェントせい確立かくりつともにNBA選手せんしゅ年俸ねんぽう天井てんじょうらずの上昇じょうしょうつづけ、現在げんざいはどのプロスポーツリーグよりもたか平均へいきん年俸ねんぽうとなっている。

人物じんぶつひょう[編集へんしゅう]

オスカー以上いじょうのオールラウンドな選手せんしゅたことがない。ジョーダンに出来できることをオスカーはジョーダン以上いじょうにこなせた。 — レナード・コペット (著名ちょめいなスポーツ記者きしゃ

オスカーはたかくはべなかったがそれ以外いがいすべてジョーダンよりうえだ。 — ネイト・サーモンド殿堂でんどう選手せんしゅ

どのポジション、どの時代じだいとおしてもパーフェクトな選手せんしゅはオスカー・ロバートソンだ。 — チャーリー・ローゼン (コーチ・評論ひょうろん

かれはオーケストラの指揮しきしゃのようにコートじょう出来事できごとをコントロールしていた。 — ビル・ブラッドリー殿堂でんどう選手せんしゅ

NBA個人こじん成績せいせき[編集へんしゅう]

略称りゃくしょう説明せつめい
  GP 出場しゅつじょう試合しあいすう   GS  先発せんぱつ出場しゅつじょう試合しあいすう  MPG  平均へいきん出場しゅつじょう時間じかん
 FG%  フィールドゴール成功せいこうりつ  3P%  スリーポイント成功せいこうりつ  FT%  フリースロー成功せいこうりつ
 RPG  平均へいきんリバウンドかず  APG  平均へいきんアシストかず  SPG  平均へいきんスティールかず
 BPG  平均へいきんブロックかず  PPG  平均へいきん得点とくてん  太字ふとじ  キャリアハイ

レギュラーシーズン[編集へんしゅう]

シーズン チーム GP MPG FG% FT% RPG APG PPG
1960–61 CIN 71 42.7 .473 .822 10.1 9.7* 30.5
1961–62 79 44.3 .478 .803 12.5 11.4* 30.8
1962–63 80* 44.0 .518 .810 10.4 9.5 28.3
1963–64 79 45.1 .483 .853* 9.9 11.0* 31.4
1964–65 75 45.6* .480 .839 9.0 11.5* 30.4
1965–66 76 46.0 .475 .842 7.7 11.1* 31.3
1966–67 79 43.9 .493 .873 6.2 10.7 30.5
1967–68 65 42.5 .500 .873* 6.0 9.7* 29.2*
1968–69 79 43.8 .486 .838 6.4 9.8* 24.7
1969–70 69 41.5 .511 .809 6.1 8.1 25.3
1970–71 MIL 81 39.4 .496 .850 5.7 8.2 19.4
1971–72 64 37.3 .472 .836 5.0 7.7 17.4
1972–73 73 37.5 .454 .847 4.9 7.5 15.5
1973–74 70 35.4 .438 .835 4.0 6.4 12.7
通算つうさん : 14ねん 1,040 42.2 .485 .838 7.5 9.5 25.7

プレーオフ[編集へんしゅう]

年度ねんど チーム GP MPG FG% FT% RPG APG PPG
1962 CIN 4 46.3 .519 .795 11.0 11.0 28.8
1963 12 47.5 .470 .864 13.0 9.0 31.8
1964 10 47.1 .455 .858 8.9 8.4 29.3
1965 4 48.8 .427 .923 4.8 12.0 28.0
1966 5 44.8 .408 .897 7.6 7.8 31.8
1967 4 45.8 .516 .892 4.0 11.3 24.8
1971 MIL 14 37.1 .486 .754 5.0 8.9 18.3
1972 11 34.5 .407 .833 5.8 7.5 13.1
1973 6 42.7 .500 .912 4.7 7.5 21.2
1974 16 43.1 .450 .846 3.4 9.3 14.0
出場しゅつじょう : 10かい 86 42.7 .460 .855 6.7 8.9 22.2

おも実績じっせき[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき[編集へんしゅう]

  • NBAレギュラーシーズン通算つうさん成績せいせき
    • 出場しゅつじょう試合しあい:1,040試合しあい (14シーズン)
    • 通算つうさん得点とくてん:26,710得点とくてん
    • 通算つうさんリバウンド:7,804リバウンド
    • 通算つうさんアシスト:9,887アシスト (歴代れきだい6
    • FG成功せいこうりつ:.485
  • NBAプレーオフ通算つうさん成績せいせき
    • 出場しゅつじょう試合しあい:86試合しあい
    • 通算つうさん得点とくてん:1,910得点とくてん
    • 通算つうさんリバウンド:578リバウンド
    • 通算つうさんアシスト:769アシスト
  • NBAレギュラーシーズン平均へいきん成績せいせき
    • 平均へいきん出場しゅつじょう時間じかん:42.2ふん
    • 平均へいきん得点とくてん:25.7得点とくてん歴代れきだい10
    • 平均へいきんリバウンド:7.5リバウンド
    • 平均へいきんアシスト:9.5アシスト (歴代れきだい4
    • FT成功せいこうりつ:.838
  • NBAプレーオフ平均へいきん成績せいせき
    • 平均へいきん出場しゅつじょう時間じかん:42.7ふん
    • 平均へいきん得点とくてん:22.2得点とくてん
    • 平均へいきんリバウンド:6.7リバウンド
    • 平均へいきんアシスト:8.9アシスト

おも受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

カレッジ
NBA
スタッツリーダー
  • NBAアシストおう: 1961, 1962, 1964-1966, 1969
  • 2× NBAフリースロー成功せいこうりつ1: 1964ねん, 1968ねん
その
サクラメント・キングスのチーム記録きろく
    • 通算つうさん22,009得点とくてん歴代れきだい1
    • 通算つうさん7,731アシストは歴代れきだい1
    • 1試合しあい21アシストは歴代れきだい1
NBA記録きろく
  • NBA史上しじょう2にんのみが達成たっせいしているシーズン平均へいきんトリプル・ダブル達成たっせいしゃ
  • 通算つうさんトリプル・ダブル達成たっせい回数かいすう181かいはNBA歴代れきだい2

引退いんたい私生活しせいかつなど[編集へんしゅう]

ロバートソンはちちベイリーとははマーゼルのあいだで、さんにん兄弟きょうだいのうちの一人ひとりとしてまれ、差別さべつ貧困ひんこんなかそだった。幼少ようしょうころかん癪持しゃくもちだったがきんメダル獲得かくとく、プロ選手せんしゅとしての成功せいこう結婚けっこんきのある青年せいねんへと成長せいちょうし、2人ふたりむすめにもめぐまれた。むすめ一人ひとり腎不全じんふぜんわずらっていたためロバートソンは自身じしん腎臓じんぞうむすめ移植いしょくしており、この経験けいけんもあって全米ぜんべい腎臓じんぞう財団ざいだんのスポークスマンもつとめた。引退いんたいインディアナポリスアフリカけいアメリカじん生活せいかつ環境かんきょう向上こうじょう尽力じんりょくするかたわら、シンシナティ拠点きょてんとする化学かがく会社かいしゃ『Orchem』を所有しょゆうし、短期間たんきかんながらCBSNBA解説かいせつしゃつとめた。1994ねんにはかれ功績こうせき記念きねんし、シンシナティのバスケットボールアリーナ、シューメーカーセンターのまえに9フィートの銅像どうぞう建設けんせつされた。2003ねんには自伝じでん『Big O』を出版しゅっぱんしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Top N. American athletes of the century”. ESPN. 2012ねん5がつ24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ The Naismith Memorial Basketball Hall of Fame – Hall of Famers”. Hoophall.com. 2011ねん2がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
トム・ヘインソーン
NBA選手せんしゅ会長かいちょう
1965-1974
次代じだい
ポール・サイラス