スコッティ・ピッペン

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スコッティ・ピッペン
Scottie Pippen
2022ねんのピッペン
引退いんたい
愛称あいしょう Pip
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
生年月日せいねんがっぴ (1965-09-25) 1965ねん9月25にち(58さい
出身しゅっしん アーカンソー州の旗 アーカンソーしゅうハンブルク
身長しんちょう(現役げんえき) 203cm (6 ft 8 in)
体重たいじゅう(現役げんえき) 103kg (227 lb)
ウィングスパン(現役げんえき) 221cm  (7 ft 3 in)[1]
キャリア情報じょうほう
高校こうこう ハンブルク高校こうこう
(アーカンソーしゅうハンブルク)
大学だいがく アーカンソー中央大学ちゅうおうだいがく
NBAドラフト 1987ねん / 1じゅん / 全体ぜんたい5[1]
プロ選手せんしゅ期間きかん 1987–2004, 2008
ポジション スモールフォワード
背番号せばんごうれき 33
永久えいきゅう欠番けつばん ブルズ  33 
経歴けいれき
1987-1998シカゴ・ブルズ
1998-1999ヒューストン・ロケッツ
1999-2003ポートランド・トレイルブレイザーズ
2003-2004シカゴ・ブルズ
2008トルパン・ポジャト
2008スンズヴァル・ドラゴンズ
受賞じゅしょうれき
NBA通算つうさん成績せいせき
得点とくてん 18,940 (16.1 ppg)
リバウンド 7,494 (6.4 rpg)
アシスト 6,135 (5.2 apg)
Stats Basketball-Reference.com
バスケットボール殿堂でんどう選手せんしゅ (詳細しょうさい)
代表だいひょうれき
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
獲得かくとくメダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
オリンピック
きむ 1992 バルセロナ バスケットボール
きむ 1996 アトランタ バスケットボール

スコッティ・モーリス・ピッペン・シニアScotty Maurice Pippen Sr.[2][3], 1965ねん9月25にち - )はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアーカンソーしゅうハンブルク出身しゅっしんもとプロバスケットボール選手せんしゅ1990年代ねんだいに6優勝ゆうしょうしたシカゴ・ブルズ中心ちゅうしん選手せんしゅであり、1990年代ねんだいNBA世界中せかいじゅう普及ふきゅう貢献こうけんした1人ひとりである[4]。1980年代ねんだい後半こうはんから、2000年代ねんだい前半ぜんはんにかけて活躍かつやくしていた。

攻守こうしゅにわたりバランスのれたオールラウンダーであり、史上しじょう最高さいこうスモールフォワード1人ひとりかんがえられており、1996ねんのNBA50周年しゅうねん記念きねんしたNBA50周年しゅうねん記念きねんオールタイムチーム選出せんしゅつされ、ブルズ時代じだい着用ちゃくようしていた背番号せばんごう33は永久えいきゅう欠番けつばんとなっている。

ち、プロりまで[編集へんしゅう]

アーカンソーしゅうハンブルクという中西部ちゅうせいぶ田舎町いなかまちで12にん兄弟きょうだいすえとしてまれる。あにたちとともに幼少ようしょうからバスケットボールをプレイした。父親ちちおや製紙せいし工場こうじょう従業じゅうぎょういんだったが、まずしい黒人こくじん家庭かていだい家族かぞくうえ高校こうこう進学しんがくころ父親ちちおや脳出血のうしゅっけつたおれて全身ぜんしん麻痺まひし、兄弟きょうだい2人ふたり病気びょうきくなるなど、生活せいかつ不幸ふこう困窮こんきゅうきわめていた。はたらけなくなった父親ちちおやわって家族かぞく全員ぜんいんはたらき、アルバイトをしていつなぐ生活せいかつだったが、スコッティはすえだったためかろうじて高校こうこう入学にゅうがくすることはできた。しかし様々さまざまなアルバイトをつづける一方いっぽうでほとんどまともな食事しょくじをとったことはなく、当時とうじのスコッテイは体格たいかくちいさくてやせほそった少年しょうねんだったという。高校こうこうではバスケットボールとフットボールをやっていたが、どちらも当初とうしょはレギュラーにはしてもらえず、マネージャーやタオルボーイをやっていた時期じきながかった。バスケットボールではじめてレギュラーになったのは高校こうこう4年生ねんせいのときだったが、当時とうじ身長しんちょうは175cm、体重たいじゅうは70kgくらいしかなく、ガリガリにせており、高校こうこうのコーチが「なにであんなにせた少年しょうねんをレギュラーにするんだ」と質問しつもんされるほどだった。しかし、当時とうじポイント・ガードとしてプレイしていたことが、のち試合しあいちゅう視野しやひろさやパスのセンス、たくみなボールハンドリングの技術ぎじゅつみがくことになる。

やっと高校こうこう無事ぶじ卒業そつぎょうできたスコッテイだが、スポーツ選手せんしゅとしてはNCAA所属しょぞく大学だいがくからはどこも勧誘かんゆうけなかった。それでも、スコッティの境遇きょうぐう恩師おんしらの努力どりょくによりNAIA(全国ぜんこく大学だいがく体育たいいく協会きょうかい所属しょぞくアーカンソー中央大学ちゅうおうだいがく進学しんがくすることができた。当初とうしょはチームのマネージャーとして入学にゅうがくしたが、奨学しょうがくきんける選手せんしゅ欠員けついんたためスコッティが奨学しょうがくきんることとなった。ただし奨学しょうがくきんがくだけで生活せいかつするのはむずかしく、実家じっかからの仕送しおくりを期待きたいすることもできなかったので、スコッティは椅子いすてなどでふく収入しゅうにゅうていた。

奨学しょうがくきんてやっとまともな食事しょくじもとれるようになり、大学だいがく2年生ねんせいになるころには高校こうこう時代じだいよりも身長しんちょうも15センチほどび、体重たいじゅうは30kgもえて200cm、100kgちか体格たいかくとなり、められていた才能さいのう開花かいかはじめた。奨学しょうがくきん全額ぜんがく支給しきゅうされるようになった。スコッティは対外たいがい試合しあい平均へいきん20得点とくてん、10リバウンド以上いじょう活躍かつやくをするようになったが、大学だいがく所属しょぞくリーグがマイナーだったためプロから注目ちゅうもくされることはなかった。かれ自身じしん大学だいがく卒業そつぎょうできたら体育たいいく教師きょうしになって実家じっか仕送しおくりしようとかんがえていた。しかしながら大学だいがく監督かんとくやプロのスカウトらのはたらきかけもあって、ついにシカゴ・ブルズジェネラルマネージャージェリー・クラウスにとまるようになる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

80年代ねんだい[編集へんしゅう]

1987ねんのNBAドラフトで、シカゴ・ブルズゼネラル・マネージャージェリー・クラウス地道じみち調査ちょうさによってスコッティ・ピッペンという「かくれた逸材いつざい」を「発見はっけん」し、注目ちゅうもくされないままに2じゅん後半こうはんくらいで指名しめいしてしまおうとかんがえていた。しかし、おおくの新人しんじんたちが参加さんかする最後さいごのトレーニング・キャンプでスコッティ・ピッペンは活躍かつやくせ、それに注目ちゅうもくしたサクラメント・キングスが1じゅん上位じょういでピッペンを指名しめいするかもしれないという情報じょうほうがブルズ首脳しゅのうじんにもたらされる。シカゴ・ブルズはこのとしは1じゅんは8と10指名しめいけんしかっていなかったため、1じゅん5指名しめいけんっていたシアトル・スーパーソニックスにドラフトの前日ぜんじつ深夜しんやまでかかって交渉こうしょうちかけ、成立せいりつさせる。それはスーパーソニックスがスコッティ・ピッペンを全体ぜんたいで5番目ばんめ指名しめいし、ブルズはオルデン・ポリニス指名しめいしてその直後ちょくごりょうチームで将来しょうらいのブルズの指名しめいけんけてトレードし、交換こうかん入団にゅうだんさせるというものであった。かくして1じゅんの5という本人ほんにんしんじられなかったというたか順位じゅんい指名しめいされたピッペンだが、会場かいじょう観客かんきゃくはもちろん、関係かんけいしゃやアナウンサーもピッペンのことをほとんどるものがなく、あちこちから「Who?(だれ?)」というこえがり、アナウンサーも「おそらくはじめて名前なまえでしょう」と紹介しょうかいしていた。

新人しんじんころ言葉ことばなまりがつよ寡黙かもくであったため、キャリア初期しょきにはインタビューに苦労くろうしたという逸話いつわのこしている。また、粗野そや田舎いなかしゃそのままの言動げんどうで、チームのコーチたちは基本きほんてき礼儀れいぎ作法さほうからしつけけなければならなかったという。

最初さいしょとしブラッド・セラーズチャールズ・オークリー交代こうたい要員よういんであったが、毎日まいにち練習れんしゅうではマイケル・ジョーダン直接ちょくせつきたえられた。ジョーダンはピッペンと出会であって、「やっと自分じぶんおなじくらい才能さいのうのある選手せんしゅはいってきた」とかんじたという。また、のち仇敵きゅうてきとなるデトロイト・ピストンズデニス・ロッドマン当時とうじからすでに、「あいつはいずれ史上しじょう最高さいこうのフォワードの一人ひとりになるだろう」とその才能さいのう見抜みぬいていた。1988ねんにはスターターの地位ちいうばホーレス・グラントともにブルズのフォワードをつとめることになる。このとしマイケル・ジョーダンひきいられたチームはイースタン・カンファレンスのプレイオフの準決勝じゅんけっしょうまで進出しんしゅつ。スコッティは選手せんしゅとして成長せいちょうつづ翌年よくねん決勝けっしょうまで進出しんしゅつする原動力げんどうりょくとなり、はじめてオールスター・チームの一員いちいんえらばれている。

この時期じきのシカゴ・ブルズは毎年まいとしのプレイオフでデトロイト・ピストンズ対戦たいせんし、そしてやぶれていた。ピストンズは「バッドボーイズ」の異名いみょうあらいチームで、試合しあいでは相手あいて恐怖きょうふしんあたえるほどラフなファウルもいとわないはげしいディフェンスをしかけてきた。あるとしのプレイオフではスコッティはデニス・ロッドマン観客かんきゃくせきまでばされ、かお負傷ふしょうった。ピストンズの「ジョーダン・ルール」とばれた戦術せんじゅつでは、ジョーダンを2人ふたり、3にんがかりでおさえる一方いっぽう、セカンド・スコアラーとなっていたピッペンを集中しゅうちゅうてき攻撃こうげきし、ジョーダンを孤立こりつさせてたすけてもらえなくするという方針ほうしん徹底てっていされていた。また、ブルズのチーム事情じじょうからも、ピッペンはオフェンスではデニス・ロッドマンにマークされ、ディフェンスではビル・レインビアをガードしなくてはいけなくなり、もっともラフプレーのひどかった選手せんしゅ2にんたたかわなければならず、「かれがいつも一番いちばんひどい暴行ぼうこうけていた」とヘッドコーチのフィル・ジャクソンかたったほどだった。1990ねんのプレイオフ、イースタン・カンファレンスのファイナルでブルズはピストンズと対戦たいせんしスコッティはだい7せんまでもつれたシリーズの大事だいじ場面ばめん原因げんいん不明ふめい偏頭痛へんずつうおそわれ、ほとんどまともにプレーすることができなくなり、チームはまたしてもNBAファイナル進出しんしゅつのがした。以前いぜんにもピッペンはプレイオフでビル・レインビア暴行ぼうこうけて恐怖きょうふられたのかその試合しあい欠場けつじょうしたことがあり、ジョーダンをはじめとする一部いちぶ人々ひとびとは、スコッティが土壇場どたんばよわいと批判ひはんするようになった。

しかし、この敗戦はいせん自分じぶんのひどいプレーに心底しんそこくやしいおもいをしたピッペンとホーレス・グラント敗戦はいせん翌日よくじつからブルズの練習れんしゅうじょうあらわれ、らいシーズンのためにトレーニングをはじめていた。

最初さいしょのスリーピート[編集へんしゅう]

それでもピストンズを7せんまでめたブルズの成長せいちょうあきらかで、スコッティもチームの躍進やくしんささえた選手せんしゅ1人ひとりだった。毎年まいとし平均へいきん20てん前後ぜんこう記録きろくし、ジョーダンにぐチームのセカンド・スコアラーとなっただけでなく1991ねんにピッペンはオールディフェンシブセカンドチームに選出せんしゅつされ、リーグ有数ゆうすうこうディフェンダーであることを証明しょうめいした。リバウンドやアシストも1試合しあい平均へいきん6~7記録きろくし、NBA有数ゆうすうのオールラウンダーであることはあきらかだった。そして、このとしのプレイオフ、精神せいしんてきにも成長せいちょうしたピッペンの活躍かつやくもあってシカゴ・ブルズはカンファレンス・ファイナルではピストンズを4しょう0はいやぶり、ブルズは悲願ひがんのNBAファイナル進出しんしゅつたす。かつての王者おうじゃロサンゼルス・レイカーズ対戦たいせんしたファイナルのシリーズでは当初とうしょ、ジョーダンがマジック・ジョンソンをガードしたが、攻守こうしゅわたっての負担ふたんもあってブルズはだい1せんやぶれてしまう。だい2せんからはコーチのフィル・ジャクソンわかいスコッティ・ピッペンにマジック・ジョンソンのガードをたく大胆だいたん作戦さくせんった。ピッペンはマジックをながうでかしてガードしてくるしめ、おもうようにアシストパスができないようにすぐれたディフェンスをせる。その一方いっぽう最終さいしゅうせんとなっただい5せんではトリプル・ダブル達成たっせいするなど攻撃こうげきめんでもだい活躍かつやくし、だい2せんからはブルズは4連勝れんしょうして一気いっきはつ優勝ゆうしょうめた。このときからピッペンはジョーダンのたんなるチームメイトの一人ひとりではなく、リーグでも有数ゆうすう実力じつりょくしゃであることが確固かっこたるものとなった。

おなじ1991ねん、スコッティは以後いごチームをるまでつづ長期ちょうき契約けいやくをブルズとわした。このことが後年こうねんチームのフロントとのあいだ確執かくしつ遠因えんいんになる。やっと優勝ゆうしょう達成たっせいし、実力じつりょく証明しょうめいはしたが、背中せなか故障こしょうがピッペンに不安ふあんをもたらしていた。自分じぶん選手せんしゅ生命せいめいはもうすぐわってしまうのではないかというかんなやまされていたピッペンは一時いちじ大金たいきんよりも長期ちょうき保証ほしょうもとめて最長さいちょう7年間ねんかん当時とうじとしてはさい高額こうがくちか契約けいやく(年額ねんがく200まんドル程度ていどわれている)をむすんだが、当時とうじのNBAは世界せかいてき人気にんき爆発ばくはつ時期じきにあり、選手せんしゅ年俸ねんぽう年々ねんねん倍増ばいぞうちか金額きんがくつづけていた。ブルズの首脳しゅのうじんからもこのような契約けいやくむすぶと後悔こうかいすることになると注意ちゅういされたがピッペンはききいれなかった。まもなく、ブルズ首脳しゅのうじん言葉ことばどおり、NBAの一流いちりゅう選手せんしゅ年俸ねんぽう1000まんドルちか契約けいやくむす選手せんしゅ続出ぞくしゅつし、ピッペンの年俸ねんぽうは7ねんにはリーグの平均へいきん以下いかにまでなってしまう。その本人ほんにんなん契約けいやく撤回てっかいもとめたがチームはおうじようとしなかった。また、ブルズでも年俸ねんぽうがピッペンよりたかいのに成績せいせきひく選手せんしゅまであらわれ、ピッペンがそれをあからさまに非難ひなんするなど本人ほんにんにも周囲しゅういにもおおくの確執かくしつをもたらした原因げんいんとなった。

1992ねん、スコッティはオールNBAセカンドチームとオールNBAディフェンシブファーストチームりをたし名実めいじつともにリーグのトップクラスの選手せんしゅみとめられた。このシーズン、シカゴ・ブルズは67しょう15はいというリーグ最高さいこう成績せいせきでシーズンをえる。プレイオフで一時いちじニューヨーク・ニックスのラフプレーになやまされるシーンもあったが最終さいしゅうせん撃破げきはしてNBAファイナルに進出しんしゅつポートランド・トレイルブレイザーズを4しょう2はいくだして2連覇れんぱたす。よく1992-93シーズンはフェニックス・サンズにホームコートアドバンテージをうばわれたもののてきで6せん勝利しょうりし、「スリーピート(3連覇れんぱ)」をげた。これはNBAでも1960年代ねんだい以来いらいとなる歴史れきしてき快挙かいきょだった。

ジョーダン引退いんたい[編集へんしゅう]

マイケル・ジョーダンというNBA史上しじょう最高さいこうといえる選手せんしゅおなじチームにいたこともあり、スコッティは過小かしょう評価ひょうかされるきがあった。1993ねんにジョーダンが野球やきゅう選手せんしゅへの転向てんこう発表はっぴょうし、引退いんたいしたときよくシーズンのブルズは相当そうとう成績せいせきとすだろう、プレイオフにも出場しゅつじょうできないだろうという予想よそうがよくかれた。しかし、よく1993-94シーズンにはぜんシーズンより2しょうすくないのみの55しょうげる原動力げんどうりょくになり、スコッティはチームリーダーであることを証明しょうめいした。また個人こじん成績せいせきでもシーズン平均へいきん22.0得点とくてん、8.7リバウンド、5.6アシストというぜんキャリアをつうじても最高さいこう水準すいじゅん結果けっかのこしており、オールスターせんではMVPにえらばれた。

このシーズンのプレイオフ、ニューヨーク・ニックスやぶれたカンファレンス・セミファイナルだい3せんで、試合しあい時間じかんのこり1.8びょう最後さいご逆転ぎゃくてんねら場面ばめん監督かんとくフィル・ジャクソントニー・クーコッチにシュートをたせるプレイを指示しじした。納得なっとくできなかったスコッティは出場しゅつじょう拒否きょひした。クーコッチはシュートをめてブルズは逆転ぎゃくてん成功せいこうしたものの、スコッティの行動こうどうはチームない議論ぎろんこしファンやマスコミには批判ひはんされた。このニックスとのシリーズではブルズは20てん以上いじょうリードした試合しあいでもタフなディフェンスにくるしめられたか逆転ぎゃくてんけをきっすることがあった。「マイケル・ジョーダンのいないブルズ」は大方おおかた予想よそうくつがえ好成績こうせいせきのこし、プレイオフでも善戦ぜんせんはしたものの、ニックスとのシリーズでは最終さいしゅうだい7せんやぶれてしまう。

よく1994-95シーズン、スコッティはぜんシーズンとほとんどわらないオールラウンドな数字すうじのこす。またこのシーズンもつづきオールNBAファーストチーム、オールNBAディフェンシブファーストチームりしリーグの第一人者だいいちにんしゃであることをしめす。また、このシーズン、ピッペンはキャリアで唯一ゆいいつとなる投票とうひょうによる選出せんしゅつ以外いがいのタイトル、スティールおう獲得かくとくしている。フォワードがこのタイトルを獲得かくとくするのはきわめてめずらしく、かれ能力のうりょくたかさをしめすものであった。しかし、このシーズンの開幕かいまくまえにピッペンのだい親友しんゆうであり、ブルズのゴールささつづけたパワー・フォワードホーレス・グラントオーランド・マジック移籍いせきしてしまっていた。かれもやはりブルズのチームない自分じぶんがあまりに評価ひょうかひくいことに不満ふまんっており、フリーエージェント高額こうがく契約けいやくにするための移籍いせきであった。ピッペンは「ホーレスをうしなったチームではプレイしたくない」などと首脳しゅのうじん批判ひはんしたりトレードを要求ようきゅうしては撤回てっかいしたりと周囲しゅういとの確執かくしつ徐々じょじょえていった。シカゴ・ブルズの成績せいせきは47しょう35はいまえのシーズンよりちてしまうが、このシーズンのすえにはジョーダンの復帰ふっきというおおきな出来事できごとがあった。復帰ふっきしたジョーダンは「このチームのリーダーはピッペン」とかたったが、スコッティが2シーズンにおよんだチームリーダーの重責じゅうせきから部分ぶぶんてきにも解放かいほうされたのは事実じじつであった。このシーズンのブルズは、復帰ふっきしたばかりのジョーダンが本来ほんらい安定あんていかんいていたこと、インサイドのリバウンドやディフェンスが弱体じゃくたいしていたこともあってプレイオフのカンファレンス・セミファイナルでオーランド・マジックに2しょう4はいやぶれている。

ジョーダン不在ふざいの2年間ねんかん1994ねんのプレイオフでの出場しゅつじょう拒否きょひ事件じけんもあったもののスコッティにとってはチームをひきいる立場たちば実力じつりょくしめした時期じきでもあり、リーグを代表だいひょうする選手せんしゅとしてみとめられた時期じきでもあった。

後期こうきスリーピート[編集へんしゅう]

失意しついのうちにわったぜんシーズンのあと、1995-96シーズンのシカゴ・ブルズは歴史れきしのこ躍進やくしんげる。

復帰ふっき当初とうしょ精彩せいさいいたジョーダンは、このシーズンふたたびリーグ最高さいこう選手せんしゅとして活躍かつやく開始かいしした。そして、前年ぜんねん屈辱くつじょくてき敗戦はいせんとくにブルズをオーランド・マジックうつったホーレス・グラントにプレイオフの大事だいじ場面ばめん活躍かつやくされたことはブルズの首脳しゅのうじんにインサイドでたよりになる選手せんしゅがいかに大切たいせつかをらしめた。タイトルを奪還だっかんするために補強ほきょうする選手せんしゅ候補こうほとして名前なまえがったのが当時とうじサンアントニオ・スパーズでチームメイトとの確執かくしつによりチームが放出ほうしゅつしたがっていたデニス・ロッドマンであった。デニス・ロッドマン当時とうじすでに4ねん連続れんぞくでリバウンドおう獲得かくとくし、最優秀さいゆうしゅうディフェンスしょうも2獲得かくとくするなど実力じつりょく文句もんくなしだったが、そのつよすぎる個性こせい性格せいかくのため周囲しゅういとのトラブルがえず、さらにかつてブルズをくるしめつづけたデトロイト・ピストンズ一員いちいんだった。ピッペンはかつてプレイオフでロッドマンにばされてあご裂傷れっしょうい、「毎朝まいあさひげるたびにロッドマンのことをおもす」とうくらいきらっていた。しかし、かれはまた優勝ゆうしょうするためにはロッドマンのちから必要ひつようだと理解りかいし、ジョーダンととも過去かこうらみをててチームにむかれることに同意どういする。ブルズに移籍いせきしたロッドマンはそのとしもリバウンドおう獲得かくとくし、ディフェンスやポストプレーなどでもチームに確実かくじつ貢献こうけんしていた。ピッペンは相変あいかわらずオールラウンドな選手せんしゅだった。ジョーダン、ロッドマン、ピッペンの3にんはリーグでも最高さいこうのトリオとなされ、シカゴ・ブルズはリーグを席捲せっけんした。72しょう10はいというNBA歴代れきだい最高さいこうすうでプレイオフにすすんだブルズは昨年さくねんやぶれたオーランド・マジックひがし地区ちく決勝けっしょうで4連勝れんしょう撃破げきは。ファイナルではシアトル・スーパーソニックス対戦たいせん、4しょう2はいで4度目どめ優勝ゆうしょうかざった。

よく1996-97シーズンもブルズは好調こうちょうで、69しょう13はいでレギュラーシーズンをえる。シーズンちゅうにロッドマンがカメラマンへの暴行ぼうこう出場しゅつじょう停止ていしだった時期じきもあり、終盤しゅうばん故障こしょうしゃるなど昨年さくねんほどのぼしではなかったが、それでもNBA歴代れきだい2タイの成績せいせきだった。プレイオフではふたた相手あいてチームをほとんどけないつよさをみせ、ひがし地区ちく決勝けっしょうマイアミ・ヒートせんではピッペンが相手あいてのラフプレーになやまされたり、足首あしくびいためるシーンもあったが4しょう1はい撃破げきは。NBAファイナルへすすユタ・ジャズ対戦たいせんだい5せんでジョーダンの体調たいちょう不良ふりょう危機ききてき状況じょうきょうおちいった場面ばめんもあったが、ピッペンがしっかりとジョーダンをサポートし、ブルズは逆転ぎゃくてんち。ジャズを4しょう2はいくだし、5度目どめ優勝ゆうしょうたす。

チームは歴史れきしてきにも最高さいこうのレベルへたっしていたが、この時期じきよりピッペンとチームフロントとの確執かくしつおおやけかたられるようになる。

1990年代ねんだいはNBA選手せんしゅ年俸ねんぽう高騰こうとうした時期じきだった。スターきゅう選手せんしゅすうひゃくまんドルからすうせんまんドルの年俸ねんぽうるようになると、ピッペンの1991ねんむすんだ契約けいやく時代遅じだいおくれにえてきた。個人こじん成績せいせき受賞じゅしょうれき、チームへの貢献こうけんからってもピッペンはリーグでもトップクラスの選手せんしゅだったが、年俸ねんぽうはリーグの100以下いかでありチームのひか選手せんしゅだったトニー・クーコッチよりひくかった。

くわえて、チームのジェネラルマネージャージェリー・クラウス個人こじんとの確執かくしつ事態じたいをさらに悪化あっかさせた。クラウスは年俸ねんぽうかんしてはつねしぶく、交渉こうしょうではしばしば選手せんしゅきずつける発言はつげんをした。またクラウスはこのんでチームの遠征えんせい同行どうこうし、それが選手せんしゅとの関係かんけいをさらに複雑ふくざつにした。ある遠征えんせいとき、スコッティは選手せんしゅたちのいるまえ公然こうぜんとクラウスをののしったことがあり、それがマスコミにほうじられる事態じたいきた。スコッティはこのシーズンの最中さいちゅうおおやけにトレードを要求ようきゅうしたこともあった。

よく1997-98シーズンはフィル・ジャクソン監督かんとく引退いんたい可能かのうせいかたられ、またピッペンの去就きょしゅうもしばしば話題わだいにされた。ジョーダンは「ジャクソンとピッペンがのこれば自分じぶんのこる」とかたり、強豪きょうごうブルズ最後さいごのシーズンになるかどうかがファンやマスコミの関心事かんしんじだった。このシーズンはブルズ2度目どめの「スリーピート」つまり6かい優勝ゆうしょうがかかっていた。

結局けっきょく開幕かいまくまえにピッペンのトレードはおこなわれず、優勝ゆうしょうメンバーはそのままのチームで6度目どめ優勝ゆうしょうねらうことになったブルズだったが、さくシーズンのプレイオフ、マイアミ・ヒートせんいためていたピッペンの足首あしくび回復かいふくせず、まよつづけたすえ手術しゅじゅつすることを決断けつだんした。開幕かいまく時期じき手術しゅじゅつによりピッペンはやく3ヶ月かげつちか欠場けつじょうしたため長年ながねん自分じぶんたいしてひどいあつかいをつづけていたチーム首脳しゅのうてつけるための行為こういではないかという憶測おくそくもささやかれた。万能ばんのう選手せんしゅだったピッペンをいたブルズは開幕かいまく直後ちょくごだい苦戦くせんし、一時いちじはプレイオフの出場しゅつじょうさえあやぶまれ、ピッペンの存在そんざいおおきさがあらためて証明しょうめいされた。そののこりのメンバーたちは徐々じょじょ連携れんけいもどし、献身けんしんてきなプレーでチームをささオールスターせんころにはついにひがし地区ちく首位しゅいつ。コートサイドでスーツ姿すがた試合しあい観戦かんせんつづけていたピッペンは、次第しだいにチームメイトへ笑顔えがお声援せいえんおくるようになり、周囲しゅういとのわだかまりもすこしずつえていった。そして2がつ試合しあいでついに復活ふっかつしたピッペンへ観客かんきゃくからだい声援せいえんおくられ、ブルズは完全かんぜんいきおいをもどした。このシーズンのブルズは結局けっきょく62しょう20はいでリーグ1タイ。プレイオフでブルズはラリー・バードがヘッドコーチをつとめていたインディアナ・ペイサーズ最終さいしゅうせんまでねばられるなどくるしみながらもNBAファイナルへ進出しんしゅつし、ふたたユタ・ジャズ対戦たいせん昨年さくねんちがってホームコートアドバンテージのないシリーズで、休養きゅうよう十分じゅうぶんなジャズにたいして連戦れんせんつづきのブルズは今度こんどこそてないのでは? と不安ふあんされていた。しかし、初戦しょせんやぶれたものの、そのの3試合しあいでピッペンが見事みごとなディフェンスをみせ、なん相手あいて選手せんしゅからオフェンス・ファウルをさそって攻撃こうげきのリズムをくずし、ブルズは3連勝れんしょう一気いっき優勝ゆうしょう決定けっていかとおもわれただい5せんだったがジョーダンとピッペンがともにシュートが不調ふちょうでブルズはやぶれ、ふたたてきソルトレークシティ舞台ぶたいうつすことになった。だい6せん試合しあい序盤じょばんダンクシュートめたピッペンだったが、そのとき、それまではげしいディフェンスをつづためいためた腰痛ようつう再発さいはつ激痛げきつうでロッカールームへピッペンががってしまうとジャズは猛攻もうこう開始かいしつねにリードされつづけるブルズは、ジョーダンがこの試合しあい45得点とくてん活躍かつやくなにとかはなされずにいていく。そしてピッペンはロッカールームでこし消炎しょうえんざいり、激痛げきつうえながらコートへもどって必死ひっしのプレーをせる。試合しあい終盤しゅうばんのこすうびょうでジョーダンがロッドマンのマークにられた相手あいてエースのカール・マローンからボールをスティール、そしてつぎのプレーでシュートをめ、ブルズはジャズを1てん逆転ぎゃくてんち。てきくるしみつづけて最後さいご優勝ゆうしょうにしたピッペンは感激かんげきなみだながつづけていた。

シーズン、ジャクソンとジョーダンは引退いんたい、ブルズの最強さいきょうチームは解体かいたいされて再建さいけんはいり、ピッペンはついに本人ほんにん希望きぼうしたトレードにより11年間ねんかんごしたチームをった。

ブルズ以後いご[編集へんしゅう]

フィンランドで3ねんぶりにコートに復帰ふっきしたピッペン(2008ねん

1998ねんにピッペンはヒューストン・ロケッツにサイン・アンド・トレードで移籍いせきした。ロケッツは前年ぜんねんに「ビッグ3」の一人ひとりだったクライド・ドレクスラー引退いんたいしており、ピッペンはその後釜あとがまにおさまり、ついに念願ねんがん高額こうがく契約けいやく(年俸ねんぽう1000まんドル程度ていどわれた)もにした。ロケッツはアキーム・オラジュワンチャールズ・バークレーともにNBA史上しじょう有数ゆうすうのトリオになり優勝ゆうしょう候補こうほであったが、オラジュワンとバークレーは年齢ねんれいから故障こしょう欠場けつじょうおおく、ヘッドコーチのルディ・トムジャノビッチもピッペンを上手うま活躍かつやくさせる方法ほうほうつけられずにただ出場しゅつじょう時間じかんだけはやたらとながくさせるような起用きようほうらざるをなかった。ピッペンの成績せいせきもブルズ時代じだいより低下ていかし、チームは安定あんていかんきプレイオフでは1回戦かいせんシャキール・オニールコービー・ブライアントロサンゼルス・レイカーズ敗退はいたいした。シーズン終盤しゅうばんには以前いぜん親友しんゆうだったバークレーとの関係かんけい悪化あっかし、たがいを批判ひはんするようになった。ピッペンはこのチームで自分じぶんおもっていた役割やくわりあたえられなかったことに不満ふまんべていた。

翌年よくねん、ピッペンはポートランド・トレイルブレイザーズ移籍いせきした。そうあついチームで出場しゅつじょう時間じかんり、したがって個人こじん成績せいせきがったがピッペンはチームのキーマンとして活躍かつやくわかくて才能さいのうあふれるチームのなかで、優勝ゆうしょう経験けいけんつピッペンは貴重きちょうなベテランであり、また抜群ばつぐんのチームリーダーの一人ひとりであった。ピッペン自身じしんも、自分じぶんは「ボンド」接着せっちゃくざいのような存在そんざいで、チームをひとつにする役割やくわり自分じぶん仕事しごとだと認識にんしきしていた。試合しあいちゅうに、わか選手せんしゅたちりアドバイスをする姿すがたがしばしばられ、闘志とうしあふれる姿勢しせい先陣せんじんってチームをっていた。ブレイザーズは59しょう23はい好成績こうせいせきでプレイオフに進出しんしゅつした。カンファレンス・ファイナルでこのとしからかつてのブルズのコーチだったフィル・ジャクソン指揮しきロサンゼルス・レイカーズ対戦たいせんした。レイカーズはそのとし、ジャクソンの手腕しゅわんによる改革かいかく成功せいこうし、リーグ1の67しょうげるつよさだったが、ジャクソンの信条しんじょうであるトライアングル・オフェンスにレイカーズの選手せんしゅがまだ馴染なじんでいないのをったピッペンは相手あいて攻撃こうげきパターンをって次々つぎつぎとスティールをうば活躍かつやくをみせる。このシリーズで1試合しあい8スティールを記録きろくしたこともあり、それまでマイケル・ジョーダン保持ほじしていたプレーオフの通算つうさんスティールすう記録きろくをピッペンは更新こうしんしている。(現在げんざい本人ほんにん記録きろく保持ほじ。)かくじょうだったレイカーズをだい7せんまでめたが、大量たいりょうのリードをうばっていたこの試合しあいだい4クオーターでブレイザーズは11ほん連続れんぞくでシュートをはずすという悪夢あくむ見舞みまわれ、レイカーズの猛追もうつい逆転ぎゃくてんゆるし3しょう4はいやぶった。レイカーズのリック・フォックスとははげしい舌戦ぜっせんひろげて、マスコミにも注目ちゅうもくびた。また、わかコービー・ブライアントともはげしい一対一いちたいいち展開てんかいして、ライバル関係かんけいをむきしにしてたたかった。このシリーズはハック・ア・シャックもっと使つかわれたシリーズの1つとしてもられている。

天下分てんかわともいうべき2000ねんのレイカーズとの決戦けっせんやぶれて優勝ゆうしょうのがして以来いらい、ブレイザーズはチームの改革かいかく徐々じょじょ裏目うらめるようになる。トレードやコーチの交代こうたい結果けっかとして失敗しっぱいおおく、よく2000-01シーズンのブレイザーズは50しょう、そのつぎのシーズンは49しょうという結果けっかでピッペンの個人こじん成績せいせき徐々じょじょ低下ていかしていた。プレイオフではこの2シーズンともレイカーズに1回戦かいせんで3連敗れんぱいし、優勝ゆうしょうにはとおおよばない状態じょうたいだった。2002-03シーズンのプレイオフでは1回戦かいせんダラス・マーベリックス相手あいてに3しょう4はい健闘けんとうしたもののここでシーズンをえた。

2003ねんにかつてのチームメートであったジョン・パクソンがゼネラル・マネジャーになったのをに、シカゴ・ブルズに復帰ふっきした。しかし38さいという年齢ねんれい怪我けがのため、あまり試合しあい出場しゅつじょうして姿すがたせることはなく、よくシーズン開始かいしまえ2004ねん10月5にち引退いんたい表明ひょうめいした[5]かれ一貫いっかんしてけていた背番号せばんごう33ばんはブルズの永久えいきゅう欠番けつばんとなった[6]

2008ねん1がつにピッペンは3ねんぶりに現役げんえき復帰ふっきし、フィンランドのTorpan Pojatで2試合しあい、スウェーデンのSundsvall Dragonsで1試合しあい出場しゅつじょうした。

個人こじん成績せいせき[編集へんしゅう]

略称りゃくしょう説明せつめい
  GP 出場しゅつじょう試合しあいすう   GS  先発せんぱつ出場しゅつじょう試合しあいすう  MPG  平均へいきん出場しゅつじょう時間じかん
 FG%  フィールドゴール成功せいこうりつ  3P%  スリーポイント成功せいこうりつ  FT%  フリースロー成功せいこうりつ
 RPG  平均へいきんリバウンドかず  APG  平均へいきんアシストかず  SPG  平均へいきんスティールかず
 BPG  平均へいきんブロックかず  PPG  平均へいきん得点とくてん  太字ふとじ  キャリアハイ

NBAレギュラーシーズン[編集へんしゅう]

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1987–88 CHI 79 0 20.9 .463 .174 .576 3.8 2.1 1.2 0.7 7.9
1988–89 CHI 73 56 33.1 .476 .273 .668 6.1 3.5 1.9 0.8 14.4
1989–90 CHI 82 82 38.4 .489 .250 .675 6.7 5.4 2.6 1.2 16.5
1990-91 CHI 82 82 36.8 .520 .309 .706 7.3 6.2 2.4 1.1 17.8
1991-92 CHI 82 82 38.6 .506 .200 .760 7.7 7.0 1.9 1.1 21.0
1992-93 CHI 81 81 38.6 .473 .237 .663 7.7 6.3 2.1 0.9 18.6
1993–94 CHI 72 72 38.3 .491 .320 .660 8.7 5.6 2.9 0.8 22.0
1994–95 CHI 79 79 38.2 .480 .345 .716 8.1 5.2 2.9 1.1 21.4
1995-96 CHI 77 77 36.7 .463 .374 .679 6.4 5.9 1.7 0.7 19.4
1996-97 CHI 82 82 37.7 .474 .368 .701 6.5 5.7 1.9 0.6 20.2
1997-98 CHI 44 44 37.5 .447 .318 .777 5.2 5.8 1.8 1.0 19.1
1998–99 HOU 50 50 40.2 .432 .340 .721 6.5 5.9 2.0 0.7 14.5
1999–00 POR 82 82 33.5 .451 .327 .717 6.3 5.0 1.4 0.5 12.5
2000–01 POR 64 60 33.3 .451 .344 .739 5.2 4.6 1.5 0.6 11.3
2001–02 POR 62 60 32.2 .411 .305 .774 5.2 5.9 1.6 0.6 10.6
2002–03 POR 64 58 29.9 .444 .286 .818 4.3 4.5 1.6 0.4 10.8
2003–04 CHI 23 6 17.9 .379 .271 .630 3.0 2.2 0.9 0.4 5.9
通算つうさん:17ねん 1,178 1,053 34.9 .473 .326 .704 6.4 5.2 2.0 0.8 16.1
All-Star 7 6 24.7 .442 .318 .625 5.6 2.4 2.4 0.9 12.1

プレイオフ[編集へんしゅう]

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1988 CHI 10 6 29.4 .465 .500 .714 5.2 2.4 0.8 0.8 10.0
1989 CHI 17 17 36.4 .462 .393 .640 7.6 3.9 1.4 0.9 13.1
1990 CHI 15 14 40.8 .495 .323 .710 7.2 5.5 2.1 1.3 19.3
1991 CHI 17 17 41.4 .504 .235 .792 8.9 5.8 2.5 1.1 21.6
1992 CHI 22 22 40.9 .468 .250 .761 8.8 6.7 1.9 1.1 19.5
1993 CHI 19 19 41.5 .465 .176 .638 6.9 5.6 2.2 0.7 20.1
1994 CHI 10 10 38.4 .434 .267 .885 8.3 4.6 2.4 0.7 22.8
1995 CHI 10 10 39.6 .443 .368 .676 8.6 5.8 1.4 1.0 17.8
1996 CHI 18 18 41.2 .390 .286 .638 8.5 5.9 2.6 0.9 16.9
1997 CHI 19 19 39.6 .417 .345 .791 6.8 3.8 1.5 0.9 19.2
1998 CHI 21 21 39.8 .415 .228 .679 7.1 5.2 2.1 1.0 16.8
1999 HOU 4 4 43.0 .329 .273 .808 11.8 5.5 1.8 0.8 18.3
2000 POR 16 16 38.4 .419 .300 .743 7.1 4.3 2.0 0.4 14.9
2001 POR 3 3 39.0 .421 .176 .667 5.7 2.3 2.7 0.7 13.7
2002 POR 3 3 33.0 .409 .545 .875 9.3 5.7 1.3 0.7 16.3
2003 POR 4 1 18.8 .409 .333 1.000 2.8 3.3 0.0 0.0 5.8
Career 208 200 39.0 .444 .303 .724 7.6 5.0 1.9 0.9 17.5

プレイスタイルと業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

スコッティは運動うんどう能力のうりょくたかく、また得点とくてん能力のうりょくやアシスト、リバウンド、スティールしゅういでており、さらに1たい1のディフェンスもチームディフェンスもトップクラスという万能ばんのうがたのフォワードだった。スモールフォワードのポジションでありながら、一流いちりゅうのガードにも匹敵ひってきするほどのボールハンドリング、パスセンスとうわせており、いわゆるポイントフォワード代表だいひょうてき存在そんざいでもある。オールラウンドさとチームプレーはジョーダン以上いじょうともひょうされるほどである。かれのユーティリティーせいはブルズの攻撃こうげきシステムであるトライアングル・オフェンスにおいてはかすことのできない存在そんざいであった。「スコッティがいれば自分じぶんはもっとうまくプレイできる」とかたるチームメートもいたように、味方みかた能力のうりょくをさらにせるチームプレイヤーだった。「後期こうきスリーピートはスコッティがいなければ絶対ぜったい達成たっせいされなかった。」とジョーダンも最大さいだいきゅう評価ひょうかをしている。

かつての仇敵きゅうてきであり、のちにチームメイトとなったデニス・ロッドマンはやくからかれ才能さいのう評価ひょうかしていたが、自著じちょでも「ディフェンダーとしても、リバウンダーとしてもすごい。さらにジョーダンとおなじようにコートのどの場所ばしょからでもどんな体勢たいせいからでもシュートをはなってめることができる。てきだったときよりも味方みかたになってさらにそのすごさがわかる」とかたっていた。

それらの能力のうりょく以上いじょうに、バスケットのセンス、頭脳ずのう抜群ばつぐんだった。あまり学業がくぎょう成績せいせきくなかったが、バスケットのIQでは天才てんさいちかかったとフィル・ジャクソンかたっていた。ジャクソンが使つかっていたトライアングル・オフェンスというシステムの理解りかい運用うんよう非凡ひぼん才能さいのう発揮はっきし、後期こうきの3連覇れんぱころはコートじょうでゲームをてるのはほとんどピッペンがおこなっていた。相手あいてのディフェンスの状況じょうきょうんで適切てきせつ攻撃こうげき選択せんたくし、さらに、相手あいてがトライアングル・オフェンスの攻撃こうげきんでいると判断はんだんしたときは自分じぶんだけ即座そくざにトライアングルからはずれて攻撃こうげき仕掛しかけるといったプレーもやってのけた。

万能ばんのう選手せんしゅとして有名ゆうめいなピッペンだが、弱点じゃくてんとしてげられるのがフリースローである。キャリア通算つうさんでレギュラーシーズンでは68%程度ていど、プレイオフでも70%だいと、その得点とくてんりょくわりにはかくりつわるい。来日らいにちして日本にっぽんのテレビ番組ばんぐみ筋肉きんにく番付ばんづけ出演しゅつえんしたときにも「ナイン・フープス」を2つしかめることができなかった。また、ごく普通ふつうのミドルシュートも比較的ひかくてき苦手にがてとしている。相手あいて能力のうりょくたかいがシュート自体じたい下手へたくそだとルーキーのころ酷評こくひょうされることがおおかった。それをおぎなうためバックボードをつかったバンクシュートを割合わりあいおお使つかっていた。ディフェンスのセンスは抜群ばつぐんだったが、体格たいかくてきにはあまり大柄おおがらとはいえなかったためちからしてくるような選手せんしゅとマッチアップしたときはおさえきれないような場面ばめんもみられた。 全般ぜんぱんてきに、すべてのプレーをこなすことはできる反面はんめん、ジョーダンと比較ひかくしても各々おのおののプレー、シュートなどの成功せいこうりつはややひくく、わかころこう不調ふちょうなみおおきかった。3ポイントシュートなどもあまり成功せいこうりつたかくはなかったが、アウトサイドでボールを保持ほじする場面ばめんおおかったため機会きかいおおく、ここ一番いちばん場面ばめんでの成功せいこうりつたかさゆえにインパクトはつよかった。NBAファイナルで1試合しあいで7ほんの3ポイントシュートをめたこともある。

1992ねんにはオールNBAファーストチームに選出せんしゅつされ、名実めいじつともにリーグを代表だいひょうするフォワードとなった。またディフェンスにかんしてはリーグきっての名手めいしゅされるようになり、1992ねんから1999ねんまで連続れんぞくでオールNBAディフェンシブファーストチームにえらばれている。1996ねんには50周年しゅうねんむかえた「NBAがえらんだ50にん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅ」の1人ひとりにも選出せんしゅつされた。

その[編集へんしゅう]

  • 1992ねんバルセロナオリンピックドリームチーム一員いちいんえらばれ、きんメダルを獲得かくとくしている。また1996ねんアトランタオリンピックのドリームチームにもえらばれており、2つきんメダルを獲得かくとくしている。
  • 入団にゅうだん以来いらい16シーズン連続れんぞくでプレイオフに進出しんしゅつしており、カリーム・アブドゥル=ジャバーロバート・オーリーぎ、プレーオフの試合しあいすうは、歴代れきだい3である。
  • 日本にっぽんとの関係かんけいでは、マツダ・デミオのCMに出演しゅつえんしたことがある。しかしそのCM期間きかんちゅう飲酒いんしゅ運転うんてん免許めんきょしされて放送ほうそうりになったことから賠償ばいしょう問題もんだい発展はってんし、のち本人ほんにんがマツダの当時とうじ親会社おやがいしゃだったフォード・モーター本社ほんしゃ謝罪しゃざいしにったことがある。
  • 最初さいしょのブルズ3連覇れんぱ時期じき最初さいしょ結婚けっこんをし、その離婚りこんしている。ジョーダンが引退いんたいしていた時期じき婚約こんやくしゃ女性じょせい登場とうじょうし、すでにむすめまれていたが、復活ふっかつ優勝ゆうしょうしたシーズンちゅうにピッペンが婚約こんやくしゃたいして暴力ぼうりょくをふるったとうったえられ、そのその婚約こんやくしゃとはわかれている。時期じきおなじくしてべつ女性じょせいからまれた子供こども父親ちちおやDNA鑑定かんてい結果けっかピッペンであることが確実かくじつ判断はんだんされて認知にんちもとめられた。その、5かい優勝ゆうしょうめたのちべつ女性じょせい結婚けっこんをし、現在げんざいいたっている。
  • その頭脳ずのうてきでクレバーなプレイスタイルとは裏腹うらはらに、あまり一般いっぱんてきなマナーはくなく、数々かずかずのトラブルもこしている。拳銃けんじゅう不法ふほう所持しょじ発覚はっかくしたこともあり、試合しあいちゅうにレフェリーにかって椅子いすげつけたりしたこともあった。
  • バスケットシューズは一貫いっかんしてナイキ契約けいやくしていた。しかし、新人しんじんときから自分じぶん専用せんようのモデルをつくってもらっていたジョーダンとはことなり、(実質じっしつてきにはピッペンが着用ちゃくようすることを前提ぜんていにして設計せっけいされたものがおおかったとはいえ)汎用はんようモデルを10ねんちかつづけ、そのやっとピッペンの名前なまえけたシューズが発売はつばいされた。
  • おいbjリーグなどでプレーしていたウィリアム・ピッペンである。また息子むすこスコッティ・ピッペン・ジュニアもバスケットボール選手せんしゅであり、現在げんざいNCAAヴァンダービルト大学だいがくでプレーしている。
  • テレビドラマに本人ほんにんやくでゲスト出演しゅつえんをしている。出演しゅつえんしたのは「ER 緊急きんきゅう救命きゅうめいしつだい2シーズンだい15、「シカゴ・ファイアだい3シーズンだい23、「フアンのアメリカ開拓かいたくだい1シーズンだい11リーサル・ウェポンだい2シーズンだい7である。
  • ピッペンの身長しんちょうは203cmとなっているが、201cmともいわれている。

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

  • NBAチャンピオン:1991-1993, 1996-1998 (6かい
  • オールスター選出せんしゅつ:1990, 1992-1997 (7かい
    • オールスターMVP:1994
  • オールNBAチーム選出せんしゅつけい7かい
    • 1stチーム:1994-1996 (3かい
    • 2ndチーム:1992, 1997 (2かい
    • 3rdチーム:1993, 1998 (2かい
  • オールNBAディフェンシブ選出せんしゅつけい10かい
    • 1stチーム:1992-1999 (8かい
    • 2ndチーム:1991, 2000 (2かい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Top 15 Most Impressive Wingspans In NBA History”. thesportster.com (2014ねん11月5にち). 2017ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ Smith, Sam (1996ねん7がつ30にち). “You Think You Know A Guy But Then ...”. Chicago Tribune. https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-1996-07-30-9607300156-story.html 2018ねん12月22にち閲覧えつらん 
  3. ^ Fussman, Cal (2011ねん12月16にち). “Scottie Pippen: What I've Learned”. Esquire. https://www.esquire.com/entertainment/interviews/a12082/scottie-pippen-biography-0112/ 2018ねん12月22にち閲覧えつらん 
  4. ^ Scottie Pippen Bio”. NBA.com. 2009ねん9がつ4にち閲覧えつらん
  5. ^ “Pippen won six NBA rings with Jordan”. ESPN.com news services. ESPN. (2004ねん10がつ7にち). http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=1895410 2014ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん 
  6. ^ Bulls retire Pippen's No. 33”. ESPN (2005ねん12月10にち). 2014ねん11月28にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]