トロペツ

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トロペツの紋章もんしょう

トロペツロシア: Торо́пец; Toropets)は、ロシアトヴェリしゅうにあるまち人口じんこうは1まん1441にん(2021ねん[1]州都しゅうとトヴェリから西にしへ330kmのヴァルダイ丘陵きゅうりょう西部せいぶ位置いちし、西にしドヴィナがわみぎ支流しりゅうトロパがわがソロメノ流入りゅうにゅうする地点ちてんにある。

1907ねん開通かいつうしたボロゴエ-オスタシコフ-アンドレアポリ-トロペツ-ヴェリーキエ・ルーキあいだ鉄道てつどう沿線えんせんにある。またモスクワからヴェリーキエ・ルーキをラトビア国境こっきょう(そのさきリガつうじる)にいたロシア連邦れんぽう道路どうろM9は20kmみなみのスタラヤ・トロパをとおる。まちはトロパがわ由来ゆらいする。トロパはロシアかわはやながれをあらわし、とくにこのかわ西にしドヴィナがわ合流ごうりゅうする地点ちてんでのはやさに由来ゆらいする。

まちふるいレンガづくりの聖堂せいどうには、ひじりニコライ聖堂せいどう(1666ねんから1669ねんにかけ建設けんせつ)カザンの生神うるかみおんな聖堂せいどう(1698ねんから1765ねん建設けんせつ)、前駆ぜんく授洗イオアン聖堂せいどう(1704ねん)などがある。

歴史れきし[編集へんしゅう]

原初げんしょ年代ねんだいイパチー写本しゃほんでは、1074ねんじょうでトロペツの言及げんきゅうされる。これが記録きろくにおけるトロペツの初出しょしゅつである。トロペツは当時とうじスモレンスク公国こうこくぞくしていた。1167ねんまでにはトロペツもおおきくなり、独自どくじ公国こうこくトロペツ公国こうこく)の首都しゅととなった。歴代れきだいトロペツこうなかでも有名ゆうめい人物じんぶつはモンゴル襲来しゅうらい以前いぜんのロシアでも有力ゆうりょく武将ぶしょうであったムスティスラフ・ムスティスラヴィチで、そのまごアレクサンドル・ネフスキーはポロツクのアレクサンドラとの結婚式けっこんしき(1239ねん)をトロペツでげた。

15世紀せいきなかば、トロペツは西方せいほう大国たいこくリトアニア大公たいこうこく支配しはいかれたが、リトアニアはカルーガ西方せいほうで1503ねんこったヴェドロシャがわたたかいで大敗たいはいし、イヴァン3せいモスクワ大公たいこうこくたいしてトロペツもふく広大こうだい領土りょうど割譲かつじょうした。トロペツはロシア西方せいほう国境こっきょう交易こうえき防衛ぼうえい拠点きょてん、かつ手工しゅこうげい中心ちゅうしんとなっている。17世紀せいき初頭しょとうだい動乱どうらんにはポーランドとのたたかでポーランドぐんによる略奪りゃくだつけた。1708ねんにはトロペツはインメルマンランドけん南部なんぶ都市としであったが、1777ねんにはプスコフけん一部いちぶになった。

1907ねん鉄道てつどう開通かいつうで、トロペツは周囲しゅうい森林しんりんから木材もくざい取引とりひき中心ちゅうしんとなった。1917ねん10がつ30にち(ユリウスれき)にはトロペツにソビエト確立かくりつされた。1935ねんにはカリーニンしゅう現在げんざいのトヴェリしゅう)の一部いちぶとなった。1941ねん8がつ29にちにはモスクワ進撃しんげきするドイツ国防こくぼうぐん占領せんりょうされたが、ソ連それんぐんのトロペツ=ホルム攻勢こうせいにより1942ねん1がつ21にち解放かいほうされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ CITY POPULATION”. 2023ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい5630ふん0びょう 東経とうけい3137ふん47びょう / 北緯ほくい56.50000 東経とうけい31.62972 / 56.50000; 31.62972