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トンブリー

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1688ねん

トンブリーธนบุรี、「きむみやこ」の)は、タイトンブリー王朝おうちょう時代じだいおう現在げんざいバンコクにあるトンブリーバーンコークヤイバーンコークノイプラナコーンがそれにあたる。チャオプラヤーがわはさんでおう形成けいせいし、西岸せいがんバーンコークノイ付近ふきん王宮おうきゅうがあった。

アユタヤちょう時代じだい

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トンブリーがいつ成立せいりつしたかはっきりしていない。しかし16世紀せいき中頃なかごろにチャオプラヤーがわ改修かいしゅうされた形跡けいせきのこされており、そのころ形成けいせいされたとかんがえられる。

チャオプラヤーがわはバンコクノイ付近ふきんおおきく西側にしがわ蛇行だこうし、現在げんざいのトンブリーおおきくかこむようにながれながらバンコクヤイ付近ふきんもとながれにもどっていくながれだった。それをバンコクヤイとバンコクノイをショートカットするよう河川かせん掘削くっさくし、現在げんざいながれになったとかんがえられる。 元々もともとのチャオプラヤーがわ現在げんざいバンコクノイ運河うんがチャックプラ運河うんがバンクンシー運河うんがバンコクヤイ運河うんがとしてのこっている。

バンコクヤイ運河うんが入口いりくち付近ふきん対岸たいがんとりできずき、そこから東岸とうがんのバンコクノイまで巨大きょだい鉄鎖てっさかわわたして船舶せんぱく往来おうらい制限せいげんまたはかんする、わばアユタヤ南側みなみがわ防衛ぼうえいするとりでとしてトンブリーが形成けいせいされていった。 やがてとりでほか、アユタヤあさ物資ぶっし輸出入ゆしゅつにゅう集散しゅうさん貿易ぼうえきこうとしても発展はってんしていき、17世紀せいき初頭しょとうにはポルトガルやオランダ、中国ちゅうごく日本にっぽん商会しょうかいしょがチャオプラヤー川西かわにしがんならび、小規模しょうきぼながらもまち形成けいせいされていく。ワット・アルン前身ぜんしんとなるてらつくられたのもそのころである。

シャム革命かくめい前夜ぜんや

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ナーラーイおう時代じだい、トンブリーとりで欧州おうしゅうしき五角形ごかっけい大型おおがた要塞ようさい改修かいしゅうされる。おう側近そっきんのひとりだったコンスタンティン・フォールコン進言しんげんによりフランスぐんがシャム国内こくない駐留ちゅうりゅうすることになり、その基地きちとして大型おおがた改修かいしゅうするためであった。 その一連いちれん行動こうどう原因げんいんシャム革命かくめいこり、トンブリーもバンコク包囲ほういせんひとし激戦げきせんのひとつとなった。 シャム革命かくめいはんフランスペートラーチャー勝利しょうりし、結果けっかフランスはシャムを追放ついほうされ、シャムもまた清国きよくにのぞいた欧州おうしゅう各国かっこく断交だんこう状態じょうたいとなり鎖国さこくしていく。しかし貿易ぼうえき自体じたい中国ちゅうごく商人しょうにんかいしてつづけられることとなりシャムの貿易ぼうえき中国ちゅうごく商人しょうにん独占どくせんすること相成あいなる。 トンブリーもまた、オランダが小規模しょうきぼ商会しょうかいしょのこしたほか商館しょうかんすべ中国人ちゅうごくじんのそれとなり中国人ちゅうごくじん居留きょりゅう様相ようそうていしていく。

タークシンおう遷都せんと

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1767ねんたいはる戦争せんそうによりアユタヤ王朝おうちょう滅亡めつぼうする。そのさいにアユタヤが徹底的てっていてき破壊はかいされる。 その、タイはアユタヤを脱出だっしゅつしてなんのがれたタークシンおうにより再建さいけん(トンブリー王朝おうちょう)されるが、タークシンおうおうをアユタヤではなくトンブリーにさだめる。理由りゆう以下いかになる。

  • アユタヤが再建さいけん不可能ふかのうであったこと
  • おう自身じしん中国ちゅうごくけいタイじん(うしおしゅうじん)でタイ貴族きぞく社会しゃかい基盤きばんがなかったこと
  • トンブリーはうしおしゅうじん商人しょうにん都市としであり、おなうしおしゅうじんであるおう基盤きばんであったこと
  • フランスが建設けんせつした要塞ようさい健在けんざいであり防衛ぼうえい有利ゆうりであったこと
  • トンブリーがアユタヤ破壊はかい、その時点じてんでタイ唯一ゆいいつ貿易ぼうえきこうとして機能きのうしており、ここを本拠ほんきょとすれば中部ちゅうぶ北部ほくぶ反乱はんらん勢力せいりょく経済けいざいてき圧迫あっぱくすること可能かのうであったこと


おうみやこ形成けいせい

トンブリーは1770ねんごろ、ビルマぐんがタイから撤退てったいした直後ちょくごから建設けんせつされていった。王宮おうきゅうはワット・アルーンのとなりにあるワン・ダーン宮殿きゅうでんがそれで、現在げんざいはタイ海軍かいぐん本部ほんぶとなっている。西岸せいがんのバンコクノイ運河うんが~バンコクヤイ運河うんがきゅうトンブリー運河うんがかこまれた地域ちいきがトンブリー王朝おうちょう王宮おうきゅうエリアであったと推定すいていされる。商館しょうかん居住きょじゅう地域ちいきはチャクリー王朝おうちょう王宮おうきゅう地域ちいきであるラッターナコシンとうがそれにたる。

つまり、トンブリーは従来じゅうらいかんがえられていたチャオプラヤーかわ西岸せいがんにだけ形成けいせいされていたではなく、チャクリー王朝おうちょうおうバンコクの前身ぜんしんともえるを、トンブリー王朝おうちょうころからすで形成けいせいしていた。

その15ねん、タークシンが処刑しょけいされるにおよんで、ラーマ1せいがチャオプラヤーがわ対岸たいがん遷都せんとバンコク建設けんせつすると、トンブリーはけんになったが、1972ねんタイふつれき2515ねん)にはバンコクに吸収きゅうしゅうされ、以前いぜんのトンブリーけん一部いちぶ行政ぎょうせいトンブリーぶようになった。

しかし、世間せけん一般いっぱんでは行政ぎょうせいだけでなくチャオプラヤーがわ西岸せいがんを「トンブリー」とぶ。高級こうきゅう住宅じゅうたくがいがあり、ふるくからお金持かねもちのおお地区ちくとされてきた。そのため、きゅうバンコク地区ちくから「こうぎし」とばれたり、かるくあしらって「トン」と省略しょうりゃくされ、ねたまれていたという。