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トーマス・R・マーシャル

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トーマス・R・マーシャル
Thomas Riley Marshall
生年月日せいねんがっぴ 1854ねん3月14にち
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく インディアナしゅうノース・マンチェスター
ぼつ年月日ねんがっぴ 1925ねん6月1にち(71さいぼつ
死没しぼつ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ワシントンD.C.
所属しょぞく政党せいとう 民主党みんしゅとう
配偶はいぐうしゃ ロイス・キムジー
子女しじょ 里子さとご1にん
サイン

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
だい28だいふく大統領だいとうりょう
在任ざいにん期間きかん 1913ねん3月4にち - 1921ねん3月4にち
大統領だいとうりょう ウッドロウ・ウィルソン

在任ざいにん期間きかん 1909ねん1がつ11にち - 1913ねん1がつ13にち
ふく知事ちじ フランク・ホール
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トーマス・ライリー・マーシャル英語えいごThomas Riley Marshall1854ねん3月14にち - 1925ねん6月1にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじウッドロウ・ウィルソン政権せいけんだい28だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくふく大統領だいとうりょうつとめた。

ちと初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

1854ねん3がつ14にちインディアナしゅうノース・マンチェスターで誕生たんじょうした。ウォバシュ大学だいがく法律ほうりつまなび、1875ねん法曹界ほうそうかいりしてインディアナしゅうコロンビア弁護士べんごしとして経歴けいれきはじめ、1909ねんから1913ねんまでインディアナしゅう知事ちじつとめた。かれ人気にんきのある演説えんぜつで、そして地方ちほう精力せいりょくてき民主党みんしゅとう活動かつどうであった。しかしかれ妥協だきょうによるダークホース候補こうほとして指名しめいがなされたときかれたんなるしょう都市とし有能ゆうのう弁護士べんごしとしかられなかった。その任期にんきちゅう児童じどう労働ろうどうほうおよはん汚職おしょくほう成立せいりつしたが、かれ進歩しんぽてき綱領こうりょう大半たいはん州法しゅうほう改訂かいていしゅう議会ぎかい通過つうかすることは出来できなかった。

ふく大統領だいとうりょうしょく[編集へんしゅう]

メリーランドしゅうボルチモアの1912ねん民主党みんしゅとう大会たいかいでは、インディアナしゅう選択せんたくした大統領だいとうりょう候補こうほはマーシャルであった。当時とうじマーシャルが現実げんじつ大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいされるかにおもわれたが、結局けっきょくウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、ウッドロウ・ウィルソンを支持しじすることに合意ごういした。インディアナしゅう代表だいひょうはマーシャルがふく大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいされるようロビー活動かつどうおこない、かれ1912ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでウィルソンの伴走ばんそう候補者こうほしゃ指名しめいされた。どう選挙せんきょかれふく大統領だいとうりょう当選とうせんし、1916ねん再選さいせんされて1921ねん3がつ4にちまでつとめた。マーシャルは当初とうしょふく大統領だいとうりょうしょく退屈たいくつなものとかんがえ、最初さいしょ指名しめい拒絶きょぜつしたとわれている。

マーシャルはウィルソンにたいして好意こういっていなかった。また、ウィルソンはマーシャルを内閣ないかくまねいたが、マーシャルのかんがえをほとんど考慮こうりょしなかった。1913ねんにはウィルソンが前例ぜんれいい、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい議事堂ぎじどういて上院じょういんのメンバーに個人こじんてきうことをおこなった。これ以前いぜん大統領だいとうりょう通例つうれいとして上院じょういんとの仲介ちゅうかいを、上院じょういん議長ぎちょうつとめるふく大統領だいとうりょうまかせていた。この出来事できごとでウィルソンは繊細せんさい事務じむかんしてマーシャルを信頼しんらいしていないという意図いとしめした。そのとき以来いらい大統領だいとうりょう上院じょういんきするさいふく大統領だいとうりょうたよることはまれになった。

マーシャルはワシントンにいて滑稽こっけいやくられ、おおくの民主みんしゅ党員とういんは1916ねん再選さいせんかれ指名しめいからはずされることをのぞんだ。ウィルソンは審議しんぎのち、マーシャルを再選さいせん指名しめいすればとう方針ほうしん一貫いっかんせいしめされるだろうとかんがえ、結局けっきょくかれ伴走ばんそう候補者こうほしゃ指名しめいした。したがって、1916ねんのウィルソンとマーシャルは1820ねんモンロートムキンス再選さいせんされて以来いらい大統領だいとうりょうふく大統領だいとうりょうわせとなった。

マーシャルの2ときアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした。ウィルソンはマーシャルを遊説ゆうぜい派遣はけんし、国民こくみんはげまし戦争せんそう国債こくさい購入こうにゅう戦争せんそうたいする協力きょうりょくへの演説えんぜつおこなわせた。これはマーシャルにとっててきつとむであった。かれふく大統領だいとうりょう任期にんきちゅう演説えんぜつとしての報酬ほうしゅうた。さらにかれはその2内閣ないかく閣議かくぎ指揮しきするはつふく大統領だいとうりょうとなった。ウィルソンはヴェルサイユ条約じょうやく調印ちょういんし、国際こくさい連盟れんめい設立せつりつかんがえをしめすためにヨーロッパを訪問ほうもんするあいだに、この任務にんむをマーシャルにたくした。

ウッドロウ・ウィルソン大統領だいとうりょうすうヶ月かげつらいおだやかな発作ほっさのち、1919ねん10がつ2にちきびしい発作ほっさにより身体しんたい麻痺まひし、執務しつむ執行しっこう不能ふのうとなった。大統領だいとうりょう病状びょうじょう報告ほうこくけ、多数たすうからの要請ようせいがあったにもかかわらず、マーシャルはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはつ大統領だいとうりょう代行だいこうになることをのぞまなかった。大統領だいとうりょう執務しつむ不能ふのうになったことを宣言せんげんする過程かてい不明瞭ふめいりょうであり、マーシャルはこれが先例せんれいとなることをおそれていた。マーシャルはウィルソンののこりの任期にんきちゅう儀礼ぎれいてき執務しつむ代行だいこうした一方いっぽう、ウィルソンの任期にんき終了しゅうりょうまでその容体ようだい確認かくにんする機会きかいとうとしなかった。このため国政こくせいはウィルソンのファーストレディだったイーディスがおっと使つかって代行だいこうしていた。

ふく大統領だいとうりょう退任たいにん[編集へんしゅう]

マーシャルはふく大統領だいとうりょうつとめたのちにインディアナしゅうインディアナポリスへもどり、弁護士べんごしぎょう再開さいかいした。さらにかれおおくの法律ほうりつかんする著書ちょしょ回想かいそうろく出版しゅっぱんした。かれは1922ねんから1923ねんまで連邦れんぽう石炭せきたん委員いいんかい議長ぎちょうつとめた。1925ねんワシントンD.C.への訪問ほうもんちゅう死去しきょし、インディアナしゅうインディアナポリスのクラウン・ヒル墓地ぼち埋葬まいそうされた。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • United States Congress. "トーマス・R・マーシャル (id: M000164)". Biographical Directory of the United States Congress (英語えいご).
公職こうしょく
先代せんだい
ジェイムズ・フランクリン・ハンリー
インディアナ州の旗 インディアナしゅう知事ちじ
だい27だい1909ねん1がつ11にち - 1911ねん1がつ13にち
次代じだい
サミュエル・モフェット・ラルストン
先代せんだい
ジェームズ・S・シャーマン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくふく大統領だいとうりょう
だい28だい1913ねん3月4にち - 1921ねん3月4にち
次代じだい
カルビン・クーリッジ