1972年 ねん ニカラグア地震 じしん (1972ねんニカラグアじしん)は、1972年 ねん 12月29日 にち 12時 じ 29分 ふん 44秒 びょう (CST )、ニカラグア の首都 しゅと であるマナグア 周辺 しゅうへん で発生 はっせい した地震 じしん 。震源 しんげん 地 ち は市 し の中心 ちゅうしん から北東 ほくとう に28km、震源 しんげん の深 ふか さはおよそ10kmであった。また、モーメントマグニチュード は6.3、最大 さいだい MSK 強度 きょうど はⅨ(建物 たてもの 一般 いっぱん に被害 ひがい )であった。この地震 じしん によってマナグアの広範囲 こうはんい で死傷 ししょう 者 しゃ が発生 はっせい し、4,000人 にん から11,000人 にん が死亡 しぼう したほか、20,000人 にん が負傷 ふしょう し、300,000人 にん 以上 いじょう が家 いえ を失 うしな った。
火事場 かじば 泥棒 どろぼう を取 と り締 し まるために巡回 じゅんかい している兵士 へいし
マナグアはニカラグアの西海岸 にしかいがん に近 ちか いゾロトラン湖 こ 南岸 なんがん にあり、中央 ちゅうおう アメリカの火山 かざん 列 れつ として知 し られる活火山 かっかざん 帯 たい の中 なか にある。そして、この都市 とし には火山 かざん 活動 かつどう と地震 じしん 活動 かつどう の長 なが い歴史 れきし がある。これは、中央 ちゅうおう アメリカの南西 なんせい 境界 きょうかい の近 ちか くで交差 こうさ する2つの地殻 ちかく プレートの相対 そうたい 的 てき な動 うご きから生 しょう じる。 東 ひがし 太平洋 たいへいよう 海嶺 かいれい の東 ひがし に位置 いち するココスプレート は北東 ほくとう 方向 ほうこう に移動 いどう しており、 カリブプレート の下 した にゆっくりと沈 しず む。 浸漬 しんせき 帯 たい は、 メキシコ からコスタリカ まで太平洋 たいへいよう 岸 がん に沿 そ って4〜5キロの深 ふか さで伸 の びる中央 ちゅうおう アメリカ海溝 かいこう の表面 ひょうめん から始 はじ まった 。 [4] しかし、地震 じしん は2つのプレート間 あいだ の単純 たんじゅん な地殻 ちかく 変動 へんどう ではなく、カリブプレートの南西 なんせい 端 はし での地 ち 圧 あつ の浅 あさ い調整 ちょうせい によって引 ひ き起 お こされたと考 かんが えられていた。
地震 じしん で破壊 はかい されたマナグア中心 ちゅうしん 部 ぶ のホテル
今回 こんかい の地震 じしん では、市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ の27km2 が甚大 じんだい な被害 ひがい を受 う け、13km2 の建物 たてもの が破壊 はかい された。中心 ちゅうしん 部 ぶ のオフィス街 がい では、19階 かい 建 だ ての建物 たてもの 1棟 むね 、15階 かい 建 だ ての建物 たてもの 1棟 むね 、7階 かい 建 だ てから9階 かい 建 だ ての建物 たてもの 約 やく 5棟 むね 、3階 かい 建 だ てから6階 かい 建 だ ての建物 たてもの 25棟 むね 以上 いじょう を含 ふく む建物 たてもの の大 だい 部分 ぶぶん が大 おお きな被害 ひがい を受 う けた。被害 ひがい の多 おお くは主要 しゅよう 動 どう から10~15秒 びょう 以内 いない に発生 はっせい した地震動 じしんどう によるものであり、大 だい 部分 ぶぶん の工場 こうじょう や小 ちい さな建物 たてもの が大 おお きな被害 ひがい を受 う けた。多 おお くの家 いえ や小 ちい さな店 みせ は40年 ねん 以上 いじょう 前 まえ のもので、タケサル(またはタルケサル)と呼 よ ばれる工法 こうほう で建 た てられており、地震 じしん の被害 ひがい を受 う けやすい設計 せっけい となっていた。市内 しない の推定 すいてい 53,000戸 こ が被害 ひがい を受 う けた。水道 すいどう および電力 でんりょく 網 もう は著 いちじる しく損 そこ なわれ、発 はつ 災 わざわい 後 ご の1週間 しゅうかん 以上 いじょう はマナグアの10%のみしか水道 すいどう サービスが機能 きのう していなかった。
表面 ひょうめん 断層 だんそう [ 編集 へんしゅう ]
1972年 ねん のニカラグア地震 じしん による地震 じしん の最 もっと も重要 じゅうよう な地質 ちしつ 学 がく 的 てき 影響 えいきょう の1つは、地表 ちひょう 断層 だんそう だった。 断層 だんそう 線 せん を調 しら べると、北東 ほくとう 方向 ほうこう に移動 いどう する横 よこ 方向 ほうこう の動 うご きが確認 かくにん されており、余震 よしん データにより少 すく なくとも1つの断層 だんそう が地表 ちひょう からマナグア市 し の地下 ちか 8〜10 kmまで広 ひろ がっていたことが明 あき らかになった。
本震 ほんしん から1時間 じかん 以内 いない に、マグニチュード5.0と5.2の2つの余震 よしん が午前 ごぜん 1時 じ 18分 ふん と午前 ごぜん 1時 じ 20分 ふん に発生 はっせい した。 [5]
破損 はそん したオフィス街 がい
マナグアでは100万 まん 人 にん の住民 じゅうみん のうち60%が避難 ひなん し、食糧 しょくりょう 不足 ふそく と病気 びょうき に直面 ちょくめん した。また、乾季 かんき に吹 ふ く風 かぜ が地震 じしん によって引 ひ き起 お こされた火災 かさい を悪化 あっか させた。 [4] 地震 じしん の被害 ひがい が大 おお きかったため、市内 しない の緊急 きんきゅう サービスのほとんどは通常 つうじょう よりも著 いちじる しく低 ひく いレベルで運営 うんえい される事態 じたい に陥 おちい った。さらに、地震 じしん によって利用 りよう できる全 すべ ての消火 しょうか 設備 せつび が破壊 はかい され、火災 かさい はいくつかの地域 ちいき で数 すう 日間 にちかん に渡 わた って続 つづ いたほか、震災 しんさい 前 まえ は1,650床 しょう を有 ゆう していた4つの主要 しゅよう 病院 びょういん はすべて使用 しよう 不能 ふのう に陥 おちい っていた。
ニカラグア政府 せいふ は援助 えんじょ を訴 うった え、アメリカ やメキシコ 、その他 た 25カ国 かこく から数 すう 百 ひゃく 万 まん ドル相当 そうとう の援助 えんじょ を受 う け入 い れた。それにもかかわらず、援助 えんじょ は十分 じゅうぶん に分配 ぶんぱい されなかったため、アナスタシオ・ソモサ・デバイレ 大統領 だいとうりょう 率 ひき いる与党 よとう の国家 こっか 主義 しゅぎ 自由党 じゆうとう は批判 ひはん の的 まと となった。とくに、外国 がいこく からの援助 えんじょ を備蓄 びちく しており被災 ひさい 者 しゃ の手元 てもと に届 とど いていないと非難 ひなん された。このような報道 ほうどう を受 う けて、プエルトリコの野球 やきゅう スターであるロベルト・クレメンテ は、彼 かれ が計画 けいかく した救援 きゅうえん 便 びん のうち4便 びん 目 め に自 みずか ら同行 どうこう することを選 えら んだ。しかし、その便 びん は1972年 ねん 12月31日 にち に墜落 ついらく しクレメンテをはじめとする多 おお くの人 ひと が死亡 しぼう した。
瓦礫 がれき を移動 いどう させるブルドーザー
また、マナグアは熱帯 ねったい 気候 きこう であるにもかかわらず冬 ふゆ 服 ふく が届 とど いたり、電子 でんし レンジが必要 ひつよう な冷凍 れいとう 食品 しょくひん であるTVディナー が届 とど いたりするなど、被災 ひさい したニカラグアの人々 ひとびと のニーズに合 あ わない救援 きゅうえん 物資 ぶっし が多 おお かったことも難点 なんてん であった。 [6]
のちにソモサと彼 かれ の仲間 なかま は、彼 かれ ら自身 じしん の利益 りえき のために外国 がいこく の援助 えんじょ を使用 しよう したと主張 しゅちょう された。 [要 よう 出典 しゅってん ] 地震 じしん の前 まえ に表面 ひょうめん 化 か しはじめていた政権 せいけん への反対 はんたい は、下層 かそう 階級 かいきゅう の間 あいだ のみならずソモサ政権 せいけん の腐敗 ふはい にうんざりした上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう と中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう の間 あいだ でさえ急速 きゅうそく に高 たか まった。 これはニカラグア革命 かくめい と呼 よ ばれることになる革命 かくめい 運動 うんどう に発展 はってん し、ソモサ政権 せいけん は1979年 ねん に打倒 うちたお された。
被害 ひがい の大 おお きさ、不完全 ふかんぜん な地下 ちか 地形 ちけい 、援助 えんじょ 物資 ぶっし の横領 おうりょう 、それに続 つづ く革命 かくめい と11年 ねん にわたる内戦 ないせん のために、市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ のほとんどが20年 ねん 近 ちか くもの間 あいだ 、荒廃 こうはい したままでした。 1990年代 ねんだい になってようやく本格 ほんかく 的 てき な復興 ふっこう が始 はじ まったのであった。
地震 じしん はその数 すう 十 じゅう 年 ねん の復興 ふっこう の間 あいだ にマナグアの様相 ようそう を変 か えた。建物 たてもの は市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ から離 はな れて建設 けんせつ されているため、市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ はもはや明確 めいかく に定義 ていぎ されていない。 大 だい 規模 きぼ な避難 ひなん の際 さい 、避難 ひなん 民 みん は水 みず 資源 しげん に近 ちか く、ほとんど地震 じしん の影響 えいきょう を受 う けない地域 ちいき にキャンプを設置 せっち した。マナグアは依然 いぜん として中央 ちゅうおう アメリカで2番目 ばんめ の規模 きぼ を誇 ほこ る首都 しゅと であり、大都市 だいとし 圏 けん を有 ゆう しているが、その住民 じゅうみん の大 だい 部分 ぶぶん は市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ からかなり離 はな れたバリオスまたは近隣 きんりん に住 す んでいます。 コンニチでは、中央 ちゅうおう にあった建物 たてもの の代 か わりに、政府 せいふ は教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ二世 よはねぱうろにせい に敬意 けいい を表 あらわ して「プラザ・デ・ラ・フェ」(信仰 しんこう 広場 ひろば )を設置 せっち した。
^ a b c ISC (2017), ISC-GEM Global Instrumental Earthquake Catalogue (1900–2013) , Version 4.0, International Seismological Centre , http://www.isc.ac.uk/iscgem/index.php
^ Ambraseys, N. N. ; Adams, R. D. (2000), The Seismicity of Central America – A Descriptive Catalogue 1898–1995 , Imperial College Press , p. 271, doi :10.1142/9781848160118_0001 , ISBN 978-1860942440
^ a b Earthquake Information Bulletin, September–October 1973, Volume 5, Number 5., Retrieved on June 2, 2008
^ Earthquake Hazards Program Archived 2008-06-02 at the Wayback Machine . USGS , Retrieved on June 2, 2008
^ Cornell, James C. (1982), The Great International Disaster Book (3rd ed.), Charles Scribner's Sons.
Brown, Robert David; Ward, Peter L.; Plafker, George (1973), Geologic and seismologic aspects of the Managua, Nicaragua, earthquakes of December 23, 1972 , Professional Paper, doi :10.3133/pp838
Espinosa, A.F, ed. (1976), The Guatemalan earthquake of February 4, 1976, a preliminary report , Professional Paper, doi :10.3133/pp1002
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