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ニコラ=ジョゼフ・リューセック

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニコラ=ジョゼフ・リューセック
Nicolas-Joseph Rieussec
生年月日せいねんがっぴ 1779ねん1がつ20日はつか
出生しゅっしょう フランス王国おうこく パリ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1835-07-28) 1835ねん7がつ28にち(56さいぼつ
死没しぼつ フランスの旗 フランス王国おうこく パリ
現職げんしょく フランス国民こくみんぐんだい8ぐん中佐ちゅうさ

ヴィロフレー町長ちょうちょう
在任ざいにん期間きかん 1819ねん - 1831ねん
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ニコラ=ジョゼフ・リューセック(Nicolas-Joseph Rieussec、1779ねん1がつ20日はつか - 1835ねん7がつ28にち)は、フランス・ヴィロフレー町長ちょうちょう在任ざいにん:1819ねん-1831ねん)だった人物じんぶつである。フランスのサラブレッド生産せいさん草創そうそう活躍かつやくした人物じんぶつ[1]としてられている。1835ねん7がつ28にちなながつ革命かくめい記念きねんのパレードで、当時とうじのフランスおうルイ・フィリップねらった暗殺あんさつ事件じけんがあり、えとなって死亡しぼうした。(国王こくおう自身じしん無事ぶじだった。)

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ルイ・フィリップ王の暗殺事件
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ルイ・フィリップおう暗殺あんさつ事件じけん

リューセックはパリの商人しょうにんいえまれた。父親ちちおやはジョゼフ・リューセック(Joseph Rieussec)、母親ははおやはジャンヌ・ミシャトー(Jeanne Michateau)という。ちちはフランス南部なんぶオードけん出身しゅっしんつたわっている。また、あにのニコラ=マシュー(Nicolas Matthieu Rieussec、1781-1852)は「クロノグラフ発明はつめいしゃ」としてもられている。

リューセックは12さいでパリの物資ぶっし補給ほきゅうきょく奉公ほうこうをはじめ、17さいイタリア遠征えんせいなかのフランス陸軍りくぐん騎兵隊きへいたいへの飼料しりょう補給ほきゅう責任せきにんしゃにんじられた[2][1]。フランスぐん司令しれいかんだったナポレオンは、まだわかいリューセックの仕事しごとぶりを評価ひょうかし、フランスぐんへの補給ほきゅうをリューセックにいちまかせるようになった[1]

1799ねんすべりょう政府せいふができると飼料しりょう供給きょうきゅうかんにんじられた[1]。そのフランスではなん政体せいたいわったが、リューセックは1825ねんまでそのしょくにありつづけた[1]。そのあいだ、1812ねんにパリにちかヴィロフレー土地とち所有しょゆうするようになり、1819ねん5がつ31にちに、リューセックは前任ぜんにんしゃドゥニ・ヴォードロン(Denis Vaudron)にかわってヴィロフレーの町長ちょうちょう選出せんしゅつされた[1]

1830ねんなながつ革命かくめいがあり、これをにリューセックは王室おうしつ飼料しりょうおさめる特権とっけん他者たしゃゆずり、材木ざいもく卸売おろしうりをはじめた[1]歴史れきしによれば、リューセックは人道的じんどうてき私利しり私欲しよくはしらない稀有けう商人しょうにんだったと評価ひょうかされている[1]

1831ねんにリューセックはヴィロフレーの町長ちょうちょうしょく退しりぞき、新設しんせつされた国民こくみん衛兵えいへい制度せいどのもとで、1832ねんからフランス国民こくみんぐんだい8ぐん中佐ちゅうさとなり、パリの部隊ぶたいちょうにんじられた[1]

1835ねん7がつ28にちなながつ革命かくめい記念きねん)、イタリアの政府せいふ主義しゅぎしゃジュゼッペ・フィエスキ(Giuseppe Fieschi)[3]によるルイ・フィリップおうへの暗殺あんさつ事件じけんがあった。おうなながつ革命かくめい記念きねんパレードでバスティーユかっていた。リューセックを先頭せんとうにしただい8ぐんおう警護けいごし、パレードが「教会きょうかい大通おおどおり(Boulevard du Temple)」にかったところで、フィエスキが仕掛しかけておいた24ていじゅうから、400はつあまりの銃弾じゅうだん散弾さんだん発射はっしゃされた[4]。この襲撃しゅうげきでリューセックをはじめ18めいころされたが、おう無事ぶじだった。リューセックは犠牲ぎせいしゃとともに、オテル・デ・ザンヴァリッドほうむられ、ヴィロフレーのメインストリートは「リューセックどおり」と名付なづけられた。

フランス競馬けいばのリューセック[編集へんしゅう]

1836年のシャンティイ競馬場
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1836ねんのシャンティイ競馬けいばじょう

リューセックはフランスのサラブレッド生産せいさん先駆せんくしゃ[5]であり、フランス現代げんだい競馬けいば創始そうししゃ1人ひとりである[1]。1960年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけてフランス競馬けいば指揮しきをとったジャン・ロマネ(Jean Romanet)[6][ちゅう 1]は、リューセックを「当時とうじのフランスでもっと真正しんせいなるサラブレッドの信奉しんぽうしゃだった」とひょうしている[1]

リューセックはフランス騎兵きへい部隊ぶたいうま飼料しりょうおさめる事業じぎょうざいした。リューセックははじめヴェルサイユ中心ちゅうしんのビュク(Buc)に牧場ぼくじょうきずき、1812ねんにはパリちかヴィロフレー牧場ぼくじょうれた。リューセックは、様々さまざまウマ生産せいさんしたが、やがて競馬けいば傾倒けいとうするようになった[1]

フランスでは18世紀せいきから王侯おうこう貴族きぞくがイギリスからサラブレッドをせて競馬けいば真似事まねごとをしていたが、これは散発さんぱつてきなものだった。フランスの競馬けいば体系たいけいてきなものとしてそうめたのは19世紀せいき初頭しょとうのナポレオンである。ナポレオンは、イギリスよりもいちじるしくおとっているとされるフランス軍馬ぐんば改良かいりょう目的もくてきとして、パリを中心ちゅうしんにした全国ぜんこくてき競馬けいば体系たいけいつくった。しかしそれはひどく官僚かんりょうてきなもので、不人気ふにんきでまったく流行はやらなかった[ちゅう 2][7]。リューセックはフランス王室おうしつのもとでこの競馬けいばつかさどるようになった。1819ねんにはリューセック監督かんとくのもとで、パリ中心ちゅうしんシャン・ド・マルス競馬けいばじょう[ちゅう 3]競馬けいばおこなった記録きろくがある[8]

この結果けっか、リューセックは1820年代ねんだいからはサラブレッド競走きょうそう生産せいさんとくするようになった[1]。リューセックの競馬けいばへの情熱じょうねつのため、あにのニコラ=マシューは1822ねん競走きょうそう走破そうはタイム測定そくてい目的もくてきで10ぶんの1びょう測定そくていできるクロノグラフ発明はつめいした[9][ちゅう 4]

この競馬けいば制度せいどはナポレオン失脚しっきゃくもしばらくつづけられていたが、より貴族きぞく趣味しゅみてき性格せいかくをもつルイ・フィリップおう時代じだいになると、競馬けいば趣味しゅみしゃあつまって、もっとイギリスふう競馬けいばおこなうようになった。かれらは1833ねんにパリ競馬けいばかい(Jockey Club de Paris)とフランスしゅ改良かいりょう奨励しょうれい協会きょうかい (Société d'encouragement pour l'amélioration des races de chevaux en France) を創設そうせつした[ちゅう 5][10]。リューセックはその創立そうりつメンバー[ちゅう 6]12にんのうちの1人ひとりで、1835ねんころされるまでりょうかいふく会長かいちょうつとめていた[1]

1834ねん5がつ15にち、フランスしゅ改良かいりょう奨励しょうれい協会きょうかいによってシャンティイ競馬けいばじょう開設かいせつされ、その最初さいしょのレースの優勝ゆうしょうはリューセック所有しょゆうのエレナ(Héléna)といううまだった[11]。また、同年どうねんにシャン・ド・マルスでおこなわれた「王室おうしつ大賞たいしょう(Grand Prix Royal)」(グラディアトゥールしょう前身ぜんしん)では、自家じか生産せいさんのフェリクス(Felix)で優勝ゆうしょうしている[12]。フェリクスのちちレインボウ(Rainbow,1808ねんまれ)はイギリスさんサラブレッドで、リューセックがたね牡馬ぼばとして輸入ゆにゅうしてヴィロフレー牧場ぼくじょうつなぎやしなえしたものだった[13]。レインボウのさんこまにはだい1かいフランスダービー(1836ねん)優勝ゆうしょうのフランク(Franck)、だい2かいフランスダービー優勝ゆうしょうリディア(Lydia)などがおり、レインボウはフランスのサラブレッド史上しじょう最初さいしょめいたね牡馬ぼばとしてられている[13]

1835ねんにリューセックがんだのち、ヴィロフレー牧場ぼくじょうド・モルニ伯爵はくしゃく[ちゅう 7]った。ここではモルニの時代じだいにイギリスのさんかんウェストオーストラリアンつなぎようされたことでられている。また、リューセックのおかか調教ちょうきょうだったパーマ調教ちょうきょう独立どくりつし、シャンティイ競馬けいばじょう一般いっぱん馬主ばしゅから幅広はばひろ競走きょうそうあずかる「一般いっぱん調教ちょうきょう」として最初さいしょ人物じんぶつとなった[13]。リューセックがのこした競馬けいばよう施設しせつはオーギュスト・リュパン(Auguste Lupin)[ちゅう 8]使つかうようになり、フランスダービー8しょう成績せいせきのこした[13]。リュパンがここで生産せいさんつなぎやしなえしたドラール(Dollar)は1860年代ねんだいから1870年代ねんだいにかけてのフランスめいしゅ牡馬ぼば[ちゅう 9]である[13]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ジャンロマネしょう名前なまえ由来ゆらいになった人物じんぶつ
  2. ^ たとえば、地方ちほうのレースでったうまはパリでおこなわれる「大賞たいしょう」に出走しゅっそうする義務ぎむがあった。そのためにわざわざパリに必要ひつようがあり、ほとんどの馬主ばしゅはこれをいやがって、いろいろ口実こうじつをつけて出走しゅっそうしなかった。
  3. ^ 当時とうじのシャン・ド・マルスは陸軍りくぐん練兵れんぺいじょうで、軍馬ぐんば調練ちょうれんにつながる競馬けいばもここでおこなっていた。1850年代ねんだい競馬けいばロンシャン競馬けいばじょう移転いてんし、のちにエッフェル塔えっふぇるとう建設けんせつされた。
  4. ^ 2013ねんに、これよりふるい1816ねんせいのものが発見はっけんされ、「最初さいしょ発明はつめい」はニコラ=マシューではなかった、ということになった。詳細しょうさいクロノグラフ参照さんしょう
  5. ^ りょう団体だんたいまったおなじメンバーで構成こうせいされていた[1]
  6. ^ 名誉めいよ会員かいいんとしてオルレアンこうだい1王子おうじ)フェルナンドヌムールこうだい2王子おうじ)ルイ・シャルル参加さんかしている。[1]
  7. ^ モルニしょう名前なまえ由来ゆらいになった人物じんぶつ
  8. ^ リュパンしょう名前なまえ由来ゆらいになった人物じんぶつ
  9. ^ ドラールしょう名前なまえ由来ゆらいになったうま

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 凱旋がいせんもんしょう歴史れきしだい1かん(1920-1951),p5-18「序文じょぶん(フランスしゅ改良かいりょう奨励しょうれい協会きょうかい事務じむ局長きょくちょう・ジャン・ロマネ)」
  2. ^ Anne Martin-Fugier, op. cit., p. 333.
  3. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん』,日立ひたちソリューションズ・クリエイト,2015,(コトバンクばんによる)
  4. ^ 『An Historical and Biographical Sketch of Fieschi』,A.Bouveiron,London,1835,(Google Booksばん)p67-68
  5. ^ 『Du cheval en France』,Charle de Boigne,1843,Paris,Google Booksばんフランス語ふらんすご,p115,「On ne saurait rendre trop de grâces à M. Rieussec ; bien avant que l’Administration consacrât en quelque façon le principe régénérateur du pur sang(リューセック業績ぎょうせきおおきすぎて、いくら感謝かんしゃをしてもりないぐらいだ。かれはフランスのサラブレッド生産せいさん根幹こんかんをきずきあげることに、ありとあらゆる貢献こうけんをした。)」
  6. ^ Blood Horse 2003ねん11月12にちづけ Jean Romanet Dies in France 2016ねん4がつ29にち閲覧えつらん
  7. ^ 競馬けいば世界せかい』p100-103、p175
  8. ^ 競馬けいば世界せかい』p175
  9. ^ 『Eternel éphémère, numéro 16』,Fayard(へん),2003,ISBN 978-2213616773,Google Booksばんフランス語ふらんすご,p106,「Le brevet du premier chronographe, au 10 de seconde, a été déposé en 1822 par Nicolas-Matthieu Rieussec : il servait à mesurer les courses de chevaux.(ニコラ=マシュー・リューセックは1822ねんに1/10びょう正確せいかくはかることが可能かのうなクロノグラフを発明はつめいした。これは競走きょうそうのタイム計測けいそくようのものだった。)」
  10. ^ Joseph Antoine Roy, Histoire du Jockey Club de Paris, Paris, Marcel Rivière, 1958.
  11. ^ 『Guide de l'amateur de courses hippiques』,Petit Futé,2013,ISBN 978-2746961838,p238,Google Booksばんフランス語ふらんすご,「ou se tient la reunion inaugurale le 15 mai 1834.Devant 3000 personnes la premiere course est remportee par Helena appartenant a Nicolas-Joseph Rieussec.」
  12. ^ 競馬けいば世界せかい』p176
  13. ^ a b c d e 競馬けいば世界せかい』p178

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 凱旋がいせんもんしょう歴史れきしだい1かん(1920-1951)アーサー・フィッツジェラルド・ちょ草野くさのじゅんわけ財団ざいだん法人ほうじん競馬けいば国際こくさい交流こうりゅう協会きょうかいかん、1995
  • 競馬けいば世界せかい』ロジャー・ロングリグ・ちょ原田はらだ俊治しゅんじわけ日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい弘済会こうさいかいかん、1976
  • Henri Lacoste, Viroflay : son histoire, ses vieilles demeures, ses personnages célèbres, ses forêts domaniales, son haras et ses courses de chevaux, ses chasses royales, sa vie économique, La Publicité artistique, 1970, p. 69 et suiv.
  • Anne Martin-Fugier, La vie élégante ou la formation du Tout-Paris : 1815-1848, Paris, Fayard, 1993, p. 333.