バスティーユ牢獄ろうごく

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バスティーユから転送てんそう
バスティーユ牢獄ろうごく
バスティーユ外観がいかん

バスティーユ牢獄ろうごく(バスティーユろうごく、ふつ: Bastille, Bastille Saint-Antoineバスティーユ・サンタントワーヌ)は、17世紀せいきから19世紀せいきにかけて存在そんざいしたフランス パリ牢獄ろうごく

もとは1357ねんから建築けんちく開始かいしされた要塞ようさいだが、1659ねん以降いこうおもしゅう刑務所けいむしょとして使用しようされ、1789ねんまでに5,279にん囚人しゅうじんがそのもん通過つうかした。収容しゅうようしゃなかには政治せいじはん精神病せいしんびょうしゃなどもふくまれたため、きゅう体制たいせいアンシャン・レジーム支配しはい象徴しょうちょうとされた。

1789ねんフランス革命かくめい勃発ぼっぱつ民衆みんしゅうにより襲撃しゅうげきされ(バスティーユ襲撃しゅうげき)、フランス共和きょうわ主義しゅぎ重要じゅうようなシンボルとなった。革命かくめい1806ねんまで解体かいたいされ、現在げんざいバスティーユ広場ひろばとなっている。

用語ようご[編集へんしゅう]

フランス語ふらんすごの「bastille」は「要塞ようさい」を意味いみするが、定冠詞ていかんし大文字おおもじでLa Bastilleといた場合ばあいは“パリのバスティーユ”をす。要塞ようさいという意味いみ限定げんていされず現在げんざいはこの広場ひろば付近ふきん地区ちくかたりでもあるため、要塞ようさいであることを強調きょうちょうしたい場合ばあいla forteresse de la Bastille(ラ・フォルトレス・ド・ラ・バスティーユ)という表記ひょうきをすることもある。

日本にっぽんではバスチーユの牢獄ろうごく[1]やバスティーユ監獄かんごくともう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

バスティーユの見取みと

フランス国内こくないに3箇所かしょあった国立こくりつ刑務所けいむしょひとつで、パリ東側ひがしがわまも要塞ようさいとして1370ねん建設けんせつされた。サンタントワーヌ地区ちくにあるので、バスティーユ・サンタントワーヌ(Bastille Saint-Antoine)ともう。

中世ちゅうせいのパリぜんしゅう城壁じょうへきかこまれた城郭じょうかく都市としであり、バスティーユはその内郭ないかくひとつにあたる。やく30mの垂直すいちょく城壁じょうへきと8とうゆうし、周囲しゅういほりかこまれ、入口いりくちは2箇所かしょばしだけであった。その、パリは人口じんこう増加ぞうかして城壁じょうへきそとにも市街地しがいちひろがったことと、中世ちゅうせい構造こうぞうぶつのためにバスティーユそのものが大砲たいほう時代じだいには軍事ぐんじてき価値かちたなくなったが、この侵入しんにゅう困難こんなん出入口でいりぐち制限せいげんされる構造こうぞう刑務所けいむしょいていると判断はんだんされた。

ここを国事犯こくじはん収容しゅうようしょとしたのはルイ13せい宰相さいしょうリシュリューであり、これ以降いこうバスティーユには国王こくおう自由じゆう発行はっこうできる「勅命ちょくめい逮捕たいほじょう」によってらえられたものおも謀反むほんこそうとした高官こうかんたち)が収容しゅうようされるようになった。

ルイ14せい時代じだいに、王政おうせい批判ひはんした学者がくしゃなども収容しゅうようされるようになり、またこのころから収容しゅうようしゃ名前なまえ公表こうひょうしなくなったため、市民しみんたちにいろいろと邪推じゃすいされるようになった。

囚人しゅうじんがバスティーユに連行れんこうされるさい馬車ばしゃまどにはカーテンがかけられがいからのぞくことは不可能ふかのうであり、さらに出所しゅっしょするさいには監獄かんごくないでのことは一切いっさいしゃべらないと宣誓せんせいさせられた。また牢獄ろうごくないでは名乗なのることはきんじられ「○○ごうしつ囚人しゅうじん」とばれていた。

バスティーユは人間にんげんだけを収容しゅうようするわけではなく、危険きけんされたもの勅命ちょくめい逮捕たいほじょうによっていかなるものでも収容しゅうようされた。有名ゆうめいれいとしては「百科全書ひゃっかぜんしょ」が押収おうしゅう保管ほかんされたことがある。

1776ねんから最後さいご要塞ようさい司令しれいかんベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー侯爵こうしゃく (Bernard-René de Launayであった。バスティーユ襲撃しゅうげき要塞ようさい解体かいたい処分しょぶんされた。

実態じったい[編集へんしゅう]

アンリ・ガリ公園こうえんにあるバスティーユ要塞ようさい基盤きばん遺構いこう

一般いっぱんに、バスティーユは残虐ざんぎゃく非道ひどう監獄かんごくであると誤解ごかいされているが、実情じつじょうはかなりことなる。部屋へやは5m四方しほうであり、天井てんじょうまでは8mある。まどは7mのたかさにあり、鉄格子てつごうしがはまっているものの、そとひかり十分じゅうぶんはいむ。また囚人しゅうじんは、愛用あいよう家具かぐむこともでき、専属せんぞくのコックや使用人しようにんやとうことすら可能かのうだった。食事しょくじ豪勢ごうせいなものであり、昼食ちゅうしょくに3さら夕食ゆうしょくには5さらされ、きらいなものがあればべつのものを注文ちゅうもんすることができた。牢獄ろうごくないではどのような服装ふくそうをしようが自由じゆうであり、きな生地きじきなデザインでふくをオーダーできた。また図書館としょかん遊戯ゆうぎしつなども完備かんびされており、監獄かんごくない囚人しゅうじん病気びょうきなどになった場合ばあい国王こくおう侍医じい診察しんさつした。このため、監獄かんごく病人びょうにんたとき、病院びょういんではなくバスティーユに搬送はんそうすることがあった。このように環境かんきょうととのっているため、出所しゅっしょ期限きげんおとずれても出所しゅっしょしなかったり、なんつみおかしたわけでもないもの債権さいけんしゃからのがれるために入所にゅうしょしたこともある。

1774ねんルイ16せい即位そくいからバスティーユ襲撃しゅうげき1789ねんまで、収容しゅうようされた人数にんずう合計ごうけい288にんであるが、このうち12にんみずかのぞんで入所にゅうしょしている。

要塞ようさい革命かくめい解体かいたい決定けっていされた。解体かいたい作業さぎょうちゅうはその石材せきざいつくったバスティーユ牢獄ろうごくのミニチュアを土産物みやげものとして業者ぎょうしゃ横行おうこうし、カロン・ド・ボーマルシェオノーレ・ミラボーがその様子ようす記録きろくした。1806ねん解体かいたい完了かんりょうした。

現在げんざいバスティーユ広場ひろばとなっており、広場ひろば中央ちゅうおうには1830ねん7がつ革命かくめい記念きねんばしらっている。広場ひろばめんしては、かつて郊外こうがいせんバスティーユえきがあったが、廃止はいし解体かいたいされ(1859ねん開業かいぎょう、1969ねん廃止はいし、1984ねん解体かいたい)、1989ねんよりオペラ・バスティーユてられている。

現在げんざいメトロバスティーユえきの5号線ごうせんBobignyきホームに、この要塞ようさいかべ遺構いこう一部いちぶることが出来できる。またバスティーユ広場ひろばよりすこはなれたセーヌがわ沿いのスクウェア・アンリ=ガリ (fr:Square Henri-Galli[注釈ちゅうしゃく 1]に、まるがた基盤きばん遺構いこう一部いちぶうつされ保存ほぞんされている。

ギャラリー[編集へんしゅう]

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脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ アンリ4せいどおりとセルスタンどおり、プティ・ミュスクどおりの三叉路さんさろにあるしょう公園こうえん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 中学ちゅうがく社会しゃかい 歴史れきし』(教育きょういく出版しゅっぱん中学校ちゅうがっこう 社会しゃかいもちい 平成へいせい8ねん2がつ29にち 文部省もんぶしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ番号ばんごう:17きょう 歴史れきし762)p 156, 157に「国王こくおうがこのうごきを武力ぶりょくでおさえようとすると, 国民こくみん議会ぎかい支持しじするパリの民衆みんしゅうは, 専制せんせい象徴しょうちょうであったバスチーユの牢獄ろうごくをおそった。」と記載きさいされている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]