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バン・ジョンソン

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1921ねん。バン・ジョンソン

バン・ジョンソン(Byron Bancroft “Ban” Johnson、1865ねん1がつ5にち - 1931ねん3月28にち)はアメリカンリーグ (AL) 設立せつりつ中心ちゅうしんてき存在そんざいであり、またその初代しょだい会長かいちょうつとめた米国べいこくプロ野球やきゅう役員やくいん

ジョンソンはそれまでマイナーリーグであったウェスタンリーグを、当時とうじのトップリーグであるメジャーリーグ名乗なのっていたが粗野そや粗暴そぼう印象いんしょうたれていたナショナルリーグわり、「クリーン」な雰囲気ふんいきつプロ野球やきゅうリーグとしてんだ。規律きりつある環境かんきょうつくるため、しんリーグでは審判しんぱんいん野球やきゅう殿堂でんどうりしたビリー・エバンズふくまれる)の立場たちば強化きょうかするためのサポートをおこなった。

チャールズ・コミスキーチャールズ・ソマーズ、それにジミー・マクアリアといったチームオーナーや監督かんとく助力じょりょくて、ジョンソンはアメリカンリーグへのトップタレントのさそみをおこない、たちまちナショナルリーグに拮抗きっこうする勢力せいりょくになった。1920年代ねんだい中頃なかごろ当時とうじ米国べいこく野球やきゅうコミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスとの政争せいそうにより強制きょうせいてき辞任じにんさせられるまで、ジョンソンはアメリカンリーグを支配しはいつづけた。

1922ねん。バン・ジョンソンとベーブ・ルースみぎ

ウェスタンリーグ

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オハイオしゅうノーウォークまれ、学位がくい取得しゅとくしていないが、マリエッタ・カレッジ法律ほうりつまなんだ。そのシンシナティ地元じもと新聞しんぶんのスポーツ編集へんしゅうしゃとなった。この時期じきに、当時とうじシンシナティ・レッズ監督かんとくだったチャールズ・コミスキーとしたしくなった。そして、そのコミスキーと、レッズのオーナーであるジョン・T・ブラッシュ二人ふたり口添くちぞえもあり、1893ねん当時とうじはさほど有名ゆうめいでもないいちマイナーリーグにすぎなかったウェスタンリーグ再編さいへん会議かいぎにおいて会長かいちょう選出せんしゅつされた。

ジョンソンは当時とうじのナショナルリーグについて、その粗野そや雰囲気ふんいき野球やきゅうじょうから子供こども女性じょせいとおざけているのだと非難ひなんし、もっと野球やきゅうみなにフレンドリーなものとしなくてはならないと主張しゅちょうした。当時とうじならわしに逆行ぎゃっこうして審判しんぱんいんつよ権限けんげんあたえ、審判しんぱんいんたいして尊敬そんけいたない選手せんしゅ監督かんとくにはきびしい処置しょちあたえることをゆるした。また、フィールドないきたな言葉ことば使つかった選手せんしゅには罰金ばっきんしたり出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんおこなった。これにより、たちまちにしてウェスタンリーグはマイナーリーグで最強さいきょうであるだけでなく、野球やきゅうかいもっと効果こうかてき運営うんえいされているリーグであると認識にんしきされるようになった。

アメリカンリーグ設立せつりつ

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しかし、ジョンソンはメジャーリーグをもうひとつくるという、もっとおおきな野望やぼうっていた。コミスキーは1894ねんにレッズをったのち、スーシティのチーム(コーンハスカーズ)を買取かいとったうえでセントポール本拠ほんきょうつしていたが、このコミスキーのたすけをりてウェスタンリーグの拡大かくだい計画けいかくをスタートした。1899ねんシーズン終了しゅうりょう、ナショナルリーグ所属しょぞくのボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンDCのかくチームが解散かいさんしたが、ジョンソンはグランド・ラピッズ[よう曖昧あいまい回避かいひ](そののインディアンズ)のフランチャイズをクリーブランドにうつした。また、セントポールにあったコミスキーのチームをシカゴにうつした(これがそのシカゴ・ホワイトソックス)。後者こうしゃ移動いどうは、アメリカン・アソシエーション復活ふっかつこころみを抑制よくせいするうごきであるとかんがえたナショナルリーグからも支持しじされた。1900ねんシーズンにはリーグめいアメリカンリーグ改称かいしょうしたが、依然いぜんマイナーリーグのままだった。

1900ねんシーズンはだい成功せいこうし、ジョンソンはリーグ会長かいちょう契約けいやくの10ねん延長えんちょうた。10月にナショナルアグリーメント(ナショナルリーグを唯一ゆいいつのメジャーとし、のリーグをマイナーとするめ)から脱退だったいした。1901ねんの1がつ28にちにはアメリカンリーグがメジャーリーグとして運営うんえいされることを宣言せんげんした。そしてチームをボルチモア、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンにもいた。

バッファロー・バイソンズは新生しんせいアメリカンリーグの一員いちいんになるハズだった。フランクリン監督かんとくはジョンソンから「心配しんぱいない、バッファローはしんリーグにはいっている」とわれていた。だが、1901ねんの1がつ29にちになって見捨みすてられ、わりにボストンにフランチャイズがかれた。ジョンソンは数ヶ月すうかげつあいだこっそりとボストンの人々ひとびと交渉こうしょうしていただけでなく、ボストンに投資とうしまでっていたことがのち判明はんめいした。ジョンソンはワシントンのフランチャイズにも多額たがく投資とうしをしており、利害りがい関係かんけいが1903ねんまでつづいた。

権力けんりょく

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1901ねん、ナショナルリーグは選手せんしゅ年俸ねんぽう上限じょうげん当時とうじとしてもかなりやすい2,400ドルとする基準きじゅんつくるという失敗しっぱいをした。ジョンソンやコミスキー、およびそののアメリカンリーグチームのオーナーは、年俸ねんぽう不満ふまんつナショナルリーグの選手せんしゅによりたか金額きんがく約束やくそくしていた。セントルイス・ブラウンズジェシー・バーケットボビー・ウォレスという二人ふたり殿堂でんどうりクラスの選手せんしゅ獲得かくとくした。最終さいしゅうてきには100にんほどがアメリカンリーグに移籍いせきした。2ねんにわたるこの NL – AL 戦争せんそうでは AL が勝利しょうりし、NL は講和こうわもとめた。そしてナショナルアグリーメントでアメリカンリーグはだい2のメジャーリーグとして正式せいしきみとめられた。りょうリーグの会長かいちょうおよびレッズのオーナーであるギャリー・ハーマンさんしゃによるナショナルコミッションがつくられた。ハーマンが名目めいもくじょう委員いいんちょうだったが、すぐにジョンソンがこれを支配しはいするようになった。

ジョンソンは他者たしゃによる自分じぶんへの批判ひはんゆるさず、また、自分じぶんきらいな人物じんぶつがオーナーになると厄介やっかいになるのでリーグ所属しょぞくチームの買収ばいしゅう邪魔じゃまをした。たとえば、ハリー・フレージーがボストンレッドソックスを買収ばいしゅうした1917ねん、ジョンソンはフレージーのことがらないという理由りゆう当初とうしょより妨害ぼうがいをした。一時いちじはクリーブランドとワシントンのチームを自分じぶん所有しょゆうすることも検討けんとうしていたという。

凋落ちょうらく

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フレージーの事件じけんはジョンソンの凋落ちょうらく発端ほったんとなった。リーグはふたつの派閥はばつかれてった。レッドソックス、ホワイトソックス、ニューヨークヤンキースによるひとつの派閥はばつ反乱はんらん)と、のこりの5チーム(インディアンズ、フィラデルフィアアスレティックス、セントルイスブラウンズ、デトロイトタイガース、ワシントンセネターズの忠実ちゅうじつ)だ。このときまでに、コミスキーはジョンソンのてきになっており、二人ふたり友情ゆうじょう深刻しんこくなほどに悪化あっかしていた。レッドソックスがカール・メイズをヤンキースにトレードしようとしたさいにはジョンソンがめをめいじ、それでもトレードを強行きょうこうするとジョンソンはメイズを出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんとした。ヤンキースはメイズの出場しゅつじょうもとめて裁判所さいばんしょ提訴ていそし、最終さいしゅうてきにはプレイすることができたが、その審理しんり過程かていでジョンソンはクリーブランド・インディアンズに投資とうしをしていて公平こうへい立場たちばをとる能力のうりょくけるということが暴露ばくろされた。このことでジョンソンの威信いしんはさらに低下ていかした。

ブラックソックス事件じけんがジョンソンの棺桶かんおけ最後さいごくぎつことになった。コミスキーはかれのホワイトソックスがギャンブラーから金銭きんせんているということを通知つうちしたがこれをジョンソンは無視むしした。しかし、1920ねんシーズンになってこのスキャンダルがひろまったとき、ホワイトソックス、レッドソックス、ヤンキースの3チームはALを脱退だったいしてあたらしく12チームに拡大かくだいされたナショナルリーグ (NL) に加盟かめいするとおどした。拡大かくだいされたナショナルリーグには(ジョンソンに忠実ちゅうじつフランク・ナビンがオーナーであった)デトロイト・タイガースとは無関係むかんけいのデトロイトを本拠ほんきょとするチームが加入かにゅうしていた。ナビンはまた戦争せんそうこることをのぞんでいなかったので、の5つのクラブにたいしてナショナルコミッションに野球やきゅうとは関係かんけいのない人物じんぶつ指名しめいすることを説得せっとくしてまわった。連邦れんぽう地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじケネソー・マウンテン・ランディス議長ぎちょう指名しめいされた。ランディスは、制限せいげんのない権限けんげん野球やきゅうコミッショナーでなければ就任しゅうにんしないと主張しゅちょうし、ブラックソックス事件じけん低迷ていめいした野球やきゅう人気にんきあえいでいるオーナーらは、このランディスの要求ようきゅう同意どういした。

ともに意志いしつよいランディスとジョンソンが対立たいりつするのは自明じめいだった。そして1924ねんのワールドシリーズまえ事件じけん勃発ぼっぱつした。ランディスはニューヨークジャイアンツのメンバー2めい一人ひとり選手せんしゅ一人ひとりのコーチ)がシーズン終盤しゅうばんにフィラデルフィアフィリーズ選手せんしゅ八百長やおちょうちかけていたとの理由りゆうでシリーズに出場しゅつじょうさせなかった。一方いっぽうフランキー・フリッシュふくむ3めいのジャイアンツ選手せんしゅはこれに関係かんけいしていたがランディスの裁定さいてい出場しゅつじょう停止ていしにならなかった。このことにかんして、ジョンソンはシリーズ自体じたいをキャンセルすべきだと要求ようきゅうした。ランディスのやりかたかんしてジョンソンは公開こうかい非難ひなんおこなったため、ランディスはアメリカンリーグのオーナーたちがジョンソンをだまらせなければ辞任じにんするとせまった。シリーズ終了しゅうりょう、オーナーらは今後こんごジョンソンがふたた同様どうようなことをしたらめてもらうと約束やくそくした。ジョンソンはその2年間ねんかんはおとなしくごし、1935ねんまでの契約けいやく延長えんちょうたし、年俸ねんぽうも40,000ドル(それ以前いぜんは25,000ドル)になった。

しかし、1926ねんになってタイ・カッブトリス・スピーカーが1919ねんおこなわれたゲームで八百長やおちょう行為こういをしたとの疑惑ぎわくたれた事件じけんで、ランディスがこのにんたいして無罪むざい放免ほうめん措置そちったことをジョンソンがふたた批判ひはんした。ランディスは、アメリカンリーグはジョンソンか自分じぶんかのどちらかをるかここでめよ、とせまった。もともと、AL のオーナーたちは1927年頭ねんとう年次ねんじ総会そうかいでジョンソンにはめてもらうつもりだった。実際じっさいには、ジョンソンは当時とうじ体調たいちょうおもわしくなかったので、解任かいにんわりに期限きげん休暇きゅうからせることを決定けっていした。ジョンソンははるになったら復職ふくしょくしようとかんがえ、何事なにごともなかったかのようにった。だが状況じょうきょうかれのぞむようには好転こうてんせず、とうとうそのシーズン終了しゅうりょうには辞任じにんする破目われめになった。フランク・ナビン代理だいりしていたアメリカンリーグ会長かいちょうしょくはオーナーたちによりインディアンズのジェネラルマネージャーだったアーネスト・バーナードがれた。

遺業いぎょう

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ジョンソンはミズーリしゅうセントルイス死亡しぼうした。66さいだった。かれ会長かいちょうしょくいだE.S.バーナードがんだわずすうあいだだった。1937ねんには野球やきゅう殿堂でんどう初期しょき選出せんしゅつしゃ一人ひとりとなった。マリエッタ・カレッジの選手せんしゅようフィールドハウスにはかれけられている。はかインディアナしゅうスペンサー英語えいごばんのリバーサイド墓地ぼち (Riverside Cemetery) にある。

1931ねんウィル・ハリッジがアメリカンリーグ会長かいちょう就任しゅうにんしたさい同年どうねんんだジョンソンについてこうめくくった:「かれ野球やきゅうかいもっとかがやいた人物じんぶつだった。スポーツのなかで、野球やきゅう国技こくぎとするのにだれよりも貢献こうけんした」

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