ヒシアゲ古墳こふん

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ヒシアゲ古墳こふん
ヒシアゲ古墳こふんはいしょ
所属しょぞく 佐紀さきたてれつ古墳こふんぐん
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら佐紀さきまちヒシゲ
位置いち 北緯ほくい3442ふん4.73びょう 東経とうけい13548ふん9.68びょう / 北緯ほくい34.7013139 東経とうけい135.8026889 / 34.7013139; 135.8026889座標ざひょう: 北緯ほくい3442ふん4.73びょう 東経とうけい13548ふん9.68びょう / 北緯ほくい34.7013139 東経とうけい135.8026889 / 34.7013139; 135.8026889
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
規模きぼ 墳丘ふんきゅうちょう219m
たかさ16.2m
築造ちくぞう時期じき 5世紀せいき中葉ちゅうよう-後半こうはん
被葬ひそうしゃ宮内庁くないちょう治定じじょういわひめいのち
陵墓りょうぼ 宮内庁くないちょう治定じじょう平城ひらじろ坂上さかがみりょう
特記とっき事項じこう 全国ぜんこくだい24規模きぼ[1]
地図ちず
ヒシアゲ 古墳の位置(奈良市内)
ヒシアゲ 古墳
ヒシアゲ
古墳こふん
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ヒシアゲ古墳こふん空中くうちゅう写真しゃしん(1979ねん
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
ヒシアゲ古墳こふん左上ひだりうえ)・コナベ古墳こふん下中しもなか)・ウワナベ古墳こふんみぎ)(国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
いわひめいのち平城ひらじろ坂上さかがみりょう はいしょぜん天球てんきゅう画像がぞう
360°インタラクティブパノラマで

ヒシアゲ古墳こふんは、奈良ならけん奈良なら佐紀さきまちにある古墳こふん形状けいじょう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん佐紀さきたてれつ古墳こふんぐん構成こうせいする古墳こふんの1つ。

実際じっさい被葬ひそうしゃあきらかでないが、宮内庁くないちょうにより「平城ひらじろ坂上さかがみりょう(ならさかのえのみささぎ)」としてだい16だい仁徳天皇にんとくてんのう皇后こうごういわひめいのちりょう治定じじょうされている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

奈良なら佐紀さきまちヒシゲにある、全長ぜんちょう219m、こうえんみち124m、こうえんたかさ16.2m、前方ぜんぽうはば145m、前方ぜんぽうたかさ13.6mの前方後円墳ぜんぽうこうえんふん現在げんざい宮内庁くないちょう管理かんりされていて、自由じゆうりできない。りょうめい平城ひらじろ坂上さかがみりょう(ならのさかのうえのみささぎ)。佐紀さきたてれつ古墳こふんぐんぞくする。 築造ちくぞう時期じきは5世紀せいき中葉ちゅうよう後半こうはんおもわれる。いわひめいのちはかとされている。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

一部いちぶ復元ふくげんされた外堤そとつつみ

前方ぜんぽうじゅうほりがあり、めずらしい。

1993ねん奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょおこなった調査ちょうさでは、こうえん東側ひがしがわくびれ相当そうとううちつつみ外法そとのりかた部分ぶぶん円筒えんとう埴輪はにわれつつかった。現在げんざい奈良ならけん風致ふうち保全ほぜん整備せいび事業じぎょう公園こうえんとなって一部いちぶ遺構いこう復元ふくげんがなされ、複製ふくせい埴輪はにわつ。また外濠そとぼり横断おうだんするわたりつつみ存在そんざい確認かくにんされた[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 古墳こふんおおきさランキング(日本にっぽん全国ぜんこくばんさかいホームページ、2018ねん5がつ13にち更新こうしんばん)。
  2. ^ 今尾いまお文昭ふみあき「ヤマト政権せいけん一大いちだい勢力せいりょく-佐紀さき古墳こふんぐん」74-75ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]