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ピエロ・デラ・フランチェスカ

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ピエロ・デラ・フランチェスカ
Piero della Francesca
ジョルジョ・ヴァザーリちょ画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』19世紀せいきばん肖像しょうぞう
誕生たんじょう 1412ねん
出生しゅっしょう サンセポルクロ
死没しぼつねん 1492ねん10月12にち
死没しぼつ サンセポルクロ
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キリストの洗礼せんれい』、1450ごろ、 ロンドン、ナショナル・ギャラリー

ピエロ・デラ・フランチェスカまたはピエロ・デッラ・フランチェスカPiero della Francesca, 1412ねん - 1492ねん10月12にち)は、ボッティチェッリなら初期しょきイタリア初期しょきルネサンス代表だいひょうする画家がか

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

イタリア中部ちゅうぶトスカーナしゅうアレッツォ近郊きんこう山間さんかんまちボルゴ・サンセポルクロくつ職人しょくにんとしてまれる。サンセポルクロの地方ちほう画家がかアントーニオ・ダンギアーリのもとで1430年代ねんだいまでに徒弟とてい修業しゅうぎょうえ、そのしばらくダンギアーリの助手じょしゅないし協力きょうりょくしゃとしてサンセポルクロとその近在きんざい仕事しごとをした [1] 。1439ねんごろフィレンツェにき、フィレンツェ巨匠きょしょうドメニコ・ヴェネツィアーノ師事しじあるいは、その協力きょうりょくしゃとして仕事しごとをした [2] 。イタリア各地かくち制作せいさくしているが、生涯しょうがいのかなりの部分ぶぶん郷里きょうりとその周辺しゅうへんごしている。

ルネサンスのイタリア絵画かいがでは、数学すうがく幾何きかがくんだ最初さいしょ画家がか一人ひとりであり、美術びじゅつ史上しじょうもっと徹底てっていしてその研究けんきゅうんだ人物じんぶつである[3]晩年ばんねんには、『算術さんじゅつろん』『遠近えんきん法論ほうろん』『せい多面体ためんたいろん』の3さつ著作ちょさくのこしている。これらの著作ちょさくすべラテン語らてんごではなく俗語ぞくごかれており、高度こうど数学すうがく幾何きかがくてき内容ないようにもかかわらず問題もんだいしゅうといった性格せいかく終始しゅうしし、人文じんぶん主義しゅぎてき関心かんしんひくく、職人しょくにんてき実用じつようせいによってかれている [4]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ピエロ・デラ・フランチェスカが巨匠きょしょうとしてさい評価ひょうかされるようになるのは20世紀せいきになってからとわれる。代表だいひょうさく『キリストの洗礼せんれい』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)にられる明瞭めいりょう簡潔かんけつ画面がめん構成こうせい人物じんぶつ樹木じゅもく単純たんじゅん明快めいかい形態けいたい把握はあくあかるい色彩しきさい感覚かんかくなどには現代げんだい美術びじゅつ一脈いちみゃくつうじるものがある。この作品さくひんではサン・セポルクロの周囲しゅうい風景ふうけいがリアリティをってえがかれており、「イタリアのパネルはじめて、もの戸外こがいにいるという感覚かんかくいだかせる」ともひょうされる[5]

キリストの鞭打むちう』では、主題しゅだいであるはずのむちうたれるキリストの姿すがた画面がめんかってひだりおくしやられ、むしろ画面がめんみぎ手前てまえにたたずむ3にん人物じんぶつほうがずっとおおきく表現ひょうげんされている。これらの服装ふくそう年齢ねんれいもまちまちな3にん人物じんぶつなにあらわしているかについては諸説しょせつがある。ウルビーノこうえがいた、真横まよこきの肖像しょうぞうもよくられている。

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

日本語にほんご文献ぶんけん[編集へんしゅう]

石鍋いしなべ真澄ますみ石鍋いしなべ真理子まりこやく西村書店にしむらしょてん名画めいが秘密ひみつ」、2016ねん
森尾もりおそうおっとやくみすず書房しょぼう 1998ねん新版しんぱん2006ねん
  • マリリン・アロンバーグ・レーヴィン『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』
諸川もろかわ春樹はるきわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ世界せかい美術びじゅつ〉、2004ねん
池上いけがみ公平こうへいやく遠山とおやま公一こういちわけ 中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、2008ねん 大著たいちょ
  • 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ《キリストの鞭打むちうち》のなぞく 最後さいごのビザンティンじん近代きんだいはじまり』
シルヴィア・ロンケイ、池上いけがみ公平こうへい監訳かんやく長沢ながさわ朝代あさよはやし克彦かつひこやく白水しろみずしゃ、2019ねん 大著たいちょ
はら章二しょうじわけ 白水しろみずしゃ、1997ねん新版しんぱん2009ねん
  • 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ アレッツォ壁画へきが
さい発見はっけんシリーズ、もとめりゅうどう、1998ねん しょうちょ
  • アレッサンドロ・アンジェリーニ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ 独自どくじ芸術げいじゅつ探求たんきゅうしゃ
池上いけがみ公平こうへいやく、〈イタリア・ルネサンスの巨匠きょしょうたち16〉東京書籍とうきょうしょせき、1993ねん しょうちょ
  • 『ピエロ・デルラ・フランチェスカ カンヴァス世界せかいだい画家がか3』 
高階たかしな秀爾ひでじほかへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ初版しょはん1985ねん解説かいせつ若山わかやま映子えいこ
  • M.A.ラヴィン『ピエロ・デラ・フランチェスカ むちち』長谷川はせがわ三郎さぶろうやく、「アート・イン・コンテクスト」みすず書房しょぼう、1979ねん絵画かいが解説かいせつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 石鍋いしなべ真澄ますみ、p.30~36(平凡社へいぼんしゃ以下いかりゃく
  2. ^ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 石鍋いしなべ真澄ますみ、p.63~64
  3. ^ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 石鍋いしなべ真澄ますみ、p.28
  4. ^ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 石鍋いしなべ真澄ますみ、p.29。また著者ちょしゃは、ピエロが初等しょとう教育きょういくけたサンセポルクロでは、フィレンツェなどとはちがい、人文じんぶん主義しゅぎてき教育きょういくカリキュラムに関心かんしんがもたれるのは15世紀せいきなか以降いこうであることを指摘してきし、ピエロのラテン語らてんごりょく教養きょうようかぎられたものだったであろうとべている。
  5. ^ 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 石鍋いしなべ真澄ますみ、p.52、および『ピエロ・デッラ・フランチェスカ Piero della Francesca』、ロナルド・ライトボーン(Ronald Lightbown)、p.103(1st edition, Leonardo, 1992)、日本語にほんごやく未刊みかん