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ピート・ハムを記念 きねん するブルー・プラーク (2013年 ねん 、スウォンジー )
ピート・ハム (Pete Ham、本名 ほんみょう :ピーター・ウィリアム・ハム (Peter William Ham)、1947年 ねん 4月 がつ 27日 にち - 1975年 ねん 4月 がつ 24日 にち )は、ウェールズ人 じん の歌手 かしゅ 、ソングライター 、ギタリスト 、キーボーディスト 。悲運 ひうん のロック ・グループ「バッドフィンガー 」の元 もと リーダーとして知 し られる。
生 お い立 た ちからデビューまで[ 編集 へんしゅう ]
ウェールズ 南部 なんぶ のスウォンジー に生 う まれる。1961年 ねん ごろに地元 じもと でロック・グループ「パンサーズ(The Panthers)」を結成 けっせい するが、度重 たびかさ なる改名 かいめい とメンバーチェンジの末 すえ に、1965年 ねん に「アイヴィーズ(The Iveys)」として再 さい 出発 しゅっぱつ した。ザ・モジョズのマネージャー、ビル・コリンズのマネジメントを得 え て、アイヴィーズは1966年 ねん にロンドン に上京 じょうきょう し、3年間 ねんかん イギリス国内 こくない で巡業 じゅんぎょう を続 つづ けた。この頃 ころ 、ピート・ハムが作詞 さくし 作曲 さっきょく に特 とく に取 と り組 く むようになったのは、コリンズのお蔭 かげ でレヴォックス(Revox)の録音 ろくおん 機材 きざい が使 つか えるようになって刺激 しげき を受 う けたからである。ザ・キンクス のレイ・デイヴィス がアイヴィーズをプロデュースすることに最初 さいしょ の興味 きょうみ を示 しめ している。アイヴィーズは、1968年 ねん にマル・エヴァンズ の注目 ちゅうもく を惹 ひ き、多数 たすう の自宅 じたく でのデモテープによってビートルズ の4人 にん からとりわけ創作 そうさく 力 りょく を買 か われるところとなり、ついにアップル・レコード と契約 けいやく を結 むす んだ[1] 。
シングル 「マジック・クリスチャンのテーマ 」(ポール・マッカートニー 作曲 さっきょく )の発売 はつばい に合 あ わせて、バンドはアイヴィーズからバッドフィンガー に改名 かいめい した。このシングルは世界中 せかいじゅう でトップテン入 い りするヒット曲 きょく になったが、当初 とうしょ ハムは、アイヴィーズ時代 じだい の楽曲 がっきょく に自信 じしん を持 も っていたため、オリジナル曲 きょく 以外 いがい で売 う り出 だ されることに抵抗 ていこう している。だが、ヒットしそうなシングル曲 きょく による飛躍 ひやく のための効果 こうか というものを間 ま もなく認識 にんしき した。ハム本人 ほんにん の創作 そうさく の苦労 くろう は結局 けっきょく のところ報 むく いられ、「嵐 あらし の恋 こい 」が1970年 ねん 後半 こうはん にリリースされると、世界中 せかいじゅう でトップテン入 い りの快 かい 作 さく となった。さらに「デイ・アフター・デイ」や「ベイビー・ブルー」を書 か き上 あ げ、世界中 せかいじゅう でヒットを連発 れんぱつ した。しかしながらハムの創作 そうさく 力 りょく は、「ウィズアウト・ユー 」の合作 がっさく において頂点 ちょうてん を極 きわ めた。「ウィズアウト・ユー」は、ニルソン のカバーが世界中 せかいじゅう のチャートで1位 い を獲得 かくとく してからは、史上 しじょう 最高 さいこう のバラード の定番 ていばん の一 ひと つとして、ジャンルを問 と わずに多数 たすう の歌手 かしゅ によってカバーされている。1973年 ねん には、グラミー賞 しょう にノミネートされるとともに、アイヴァー・ノヴェロ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。
1972年 ねん 、片 かた やアップル・レコード が崩壊 ほうかい の危機 きき にあり、片 かた やピート・ハムのバンドが破竹 はちく の勢 いきお いに見 み えたことから、バッドフィンガーはワーナー・ブラザース・レコード に引 ひ き抜 ぬ かれた[1] 。
バッドフィンガーがアップルと契約 けいやく 期間 きかん 中 ちゅう は、元 もと ビートルズのジョージ・ハリスン のアルバム『オール・シングス・マスト・パス 』やリンゴ・スター のシングル「明日 あした への願 ねが い 」のセッションでハムも演奏 えんそう に加 くわ わっているが、その他 た のセッションでもハムの名前 なまえ は記載 きさい されなかった。
ハムの人間 にんげん 性 せい はおおむね、物腰 ものごし が柔 やわ らかくて気 き だてが優 やさ しく、人前 ひとまえ では少 すこ しおどけたところもあったが極 きわ めて温厚 おんこう で謙虚 けんきょ だったと評 ひょう されている。また、勤勉 きんべん さにも言及 げんきゅう されている[1] 。
ワーナー・ブラザース に移籍 いせき 後 ご の1973年 ねん から1975年 ねん にかけて、バッドフィンガーは、バンド内部 ないぶ や経理 けいり 上 じょう 、マネジメント上 じょう の多 おお くの難題 なんだい に巻 ま き込 こ まれ、音楽 おんがく 活動 かつどう がぱっとしなくなった。1975年 ねん までに、ハムはびた一文 いちもん も所得 しょとく が入 はい らず、新 しん マネージャー のスタン・ポリー からは音信 いんしん 不通 ふつう というありさまで、失意 しつい の果 は てにサリー の自宅 じたく ガレージ で首吊 くびつ り自殺 じさつ を遂 と げ、翌朝 よくあさ 、妻 つま のアンによって変 か わり果 は てた姿 すがた となって発見 はっけん された。前日 ぜんじつ にトム・エヴァンズ と共 とも にウィスキー をあおっていたこともあり、血 ち 中 ちゅう アルコール 濃度 のうど は0.27パーセントだったという。28歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を間近 まぢか に控 ひか えての出来事 できごと だった。死 し の前日 ぜんじつ 、自宅 じたく に戻 もど る際 さい にトムに残 のこ した最後 さいご の言葉 ことば は、「気 き にするな、逃 に げ出 だ す方法 ほうほう はわかってるから(Don’t worry, I know a way out.)」だった[2] 。身重 みおも のアンは、恋人 こいびと の死 し から1ヵ月 かげつ 後 ご に娘 むすめ のペトラ・ハム(Petera Ham)を出産 しゅっさん した(ペトラには腹違 はらちが いの兄 あに ブレアがいる)。ハムは故郷 こきょう スウォンジーのモリソン墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。
ハムの死 し は葬 ほうむ り去 さ られた。元 もと ビートルズのメンバーは誰 だれ 一人 ひとり として公式 こうしき に発言 はつげん せず、アップル・コア もワーナー・ブラザース・レコードもハムの死 し について公式 こうしき な声明 せいめい を出 だ さなかった[1] 。
書 か き置 お き はマネージャーのポリーを非難 ひなん しており、「アン、君 きみ を愛 あい してるよ。ブレア、君 きみ が好 す きだよ。僕 ぼく は人 ひと を愛 あい したり、信頼 しんらい したりしちゃいけない人間 にんげん なんだろう。これがより良 よ い選択 せんたく なんだ。ピート。追伸 ついしん 。スタン・ポリーは人 ひと でなしの畜生 ちくしょう だ。あの野郎 やろう を道連 みちづ れにしてやるさ」とある。ポリーのクライアントだったアーティストの多 おお くが、長年 ながねん にわたってポリーの不正 ふせい を非難 ひなん してきた。ハムの死 し から10年 ねん 以上 いじょう が過 す ぎてから、ポリーは横領 おうりょう やマネー・ロンダリングの告発 こくはつ に対 たい して、不 ふ 抗争 こうそう の答弁 とうべん を申 もう し立 た てたが、損害 そんがい 賠償 ばいしょう は1件 けん も行 おこ なわなかった。
ピート・ハムは、パワー・ポップ の最初 さいしょ 期 き の作家 さっか の一人 ひとり にしばしば数 かぞ えられているが、ハムの最 もっと も広 ひろ く普及 ふきゅう した楽曲 がっきょく は、バンド仲間 なかま のトム・エヴァンズ (後 のち に自殺 じさつ )と合作 がっさく したバラード「ウィズアウト・ユー 」である。
自宅 じたく の遺作 いさく のデモ録音 ろくおん は、死後 しご にCD化 か されて発売 はつばい された。即 すなわ ち、1997年 ねん の『セヴン・パーク・アヴェニュー』と1999年 ねん の『ゴルダーズ・グリーン』の2枚 まい である[1] 。
66回 かい 目 め の誕生 たんじょう 日 び に当 あ たる2013年 ねん 4月 がつ 27日 にち 、故郷 こきょう のスウォンジーにピートを記念 きねん するブルー・プラーク が設置 せっち され、娘 むすめ のペトラが除幕 じょまく 式 しき を行 おこな った[3] 。
『セヴン・パーク・アヴェニュー』 - 7 Park Avenue (1997年 ねん )
『ゴルダーズ・グリーン』 - Golders Green (1999年 ねん )
The Keyhole Street Demos 1966–67 (2013年 ねん )
ハムがゲスト参加 さんか した作品 さくひん 等 とう
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