フョードル・ラスコルニコフ

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1916ねんのラスコルニコフ

フョードル・フョードロヴィチ・ラスコルニコフФёдор Фёдорович Раскольников1892ねん1がつ28にち - 1939ねん9月12にち[1])、本名ほんみょうフョードル・イリンФёдор Ильин)は、ボリシェヴィキ党員とういんソビエト連邦れんぽう政治せいじじゅうがつ革命かくめい参加さんかしゃ作家さっか、ジャーナリスト、ロシア内戦ないせんなかカスピ海かすぴかいバルト海ばるとかい赤色あかいろ艦隊かんたい英語えいごばん指揮しきかんソ連それん外交がいこうかん[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ラスコルニコフとおとうとアレクサンドル英語えいごばん

ロシア帝国ていこくのサンクトペテルブルクで、ぐん将軍しょうぐんむすめのA・V・イリイナと、正教会せいきょうかい司祭しさいF・A・ペトロフ[2]一説いっせつによると、大司教だいしきょうセルグシェンコフ[1] とも)のあいだまれた。あるいは、「...かれ父親ちちおやは、進歩しんぽてきなサンクトペテルブルクの聖職せいしょくしゃであり、合法ごうほうてき再婚さいこんすることができず、したがって息子むすこ技術ぎじゅつてき嫡出ちゃくしゅつであったおとこやもめのフョードル・イリンだった。イリン生活せいかつはごく普通ふつうだった。」 [3]。オルデンブルグスキー孤児こじいん[2]サンクトペテルブルク工科こうか大学だいがくまなんだのち、サンクトペテルブルクの士官しかん学校がっこうまなんだ[1]

1910ねん12月、ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうボリシェヴィキくわわり、新聞しんぶんプラウダはたらつづけた。逮捕たいほされ、移住いじゅう許可きょかされたが、ドイツ警察けいさつとのごとまれたのち不法ふほうにロシアにもどり、ふたた逮捕たいほされ、アルハンゲリスク追放ついほうされたが、1913ねんロマノフあさの300周年しゅうねん記念きねんして召集しょうしゅうされた恩赦おんしゃ釈放しゃくほうされた[4]開戦かいせんとともに海軍かいぐん入隊にゅうたいし、1917ねん海軍かいぐん士官しかん候補こうほせい階級かいきゅうけたが、だいいち世界せかい大戦たいせんには参加さんかしなかった[1]

クロンシュタット[編集へんしゅう]

1917ねん3がつクロンシュタットうみ要塞ようさいおくられ、そこで新聞しんぶん「Golos Pravdy(真実しんじつこえ)」(当時とうじ発禁はっきんされていたプラウダかみ復活ふっかつさせたもの)を編集へんしゅうした[1]。1917ねん7がつクロンシュタット反乱はんらん首謀しゅぼうしゃ1人ひとりとして、ロシア臨時りんじ政府せいふ忠実ちゅうじつ軍隊ぐんたいによって逮捕たいほされたが、じゅうがつ革命かくめいすう週間しゅうかんまえの1917ねん10がつ11にち釈放しゃくほうされた[1]

革命かくめい[編集へんしゅう]

1917ねん11月、ラスコルニコフはクロンシュタットの船員せんいんグループとともに、モスクワはんボルシェビキ反乱はんらんぐんたたかうために派遣はけんされた。ここでラスコルニコフはロシア制憲せいけん議会ぎかい選出せんしゅつされた。1918ねん1がつ29にち、「海軍かいぐん問題もんだい」のふくナルコムになった[1]。1918ねんなつラリサ・レイスネル英語えいごばん結婚けっこん[5]、1918ねん7がつ東部とうぶ戦線せんせんコミッサール共和きょうわこく革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎのメンバー)としてカザン派遣はけんされた。東部とうぶ戦線せんせんでは、(1918ねん8がつ以降いこうカザン作戦さくせん参加さんかした赤色あかいろヴォルガしょう艦隊かんたいロシアばん指揮しきした[6]

ラスコルニコフは、1918ねん9がつ2にちロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく共和きょうわこく革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎのメンバーに昇進しょうしんした。1918ねんまつに、だい7ぐんふく司令しれいかんおよびバルチック艦隊かんたい政治せいじ将校しょうこうになった[1]

メジェンせんのラスコルニコフ、1920ねん

イギリス艦隊かんたい対抗たいこうするはずだった戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかん2せきからなる艦隊かんたい指揮しきしていたが、1918ねん12月にエストニアおき駆逐くちくかんスパルタクがイギリス海軍かいぐん拿捕だほされ捕虜ほりょとなった[1] 1919ねん5がつ27にちまでブリクストン刑務所けいむしょ収容しゅうようされ、17にんのイギリスじん捕虜ほりょ交換こうかんされた。カスピ海かすぴかい艦隊かんたい[1]指揮しきかん任命にんめいされ、1920ねん5がつ18にち[7]エンツェリ英国えいこく基地きちへの攻撃こうげき指揮しきし、はくロシア海軍かいぐんのこりを破壊はかいし、北部ほくぶ短命たんめいイラン社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこく設立せつりつした。

赤軍せきぐん[編集へんしゅう]

労働ろうどう組合くみあい討論とうろん(1920ねん)では、レフ・トロツキー支持しじした。1920ねん6がつから1921ねん1がつまで、ラスコルニコフはバルチック艦隊かんたい指揮しきした。在任ざいにんちゅう指揮しきかん船員せんいんあいだ関係かんけい悪化あっかし、クロンシュタットの反乱はんらんわった。1かげつ、ラスコルニコフは指揮しきかんからはずされた[1]

1921ねんから1923ねんあいだ、ラスコルニコフはアフガニスタン大使たいしつとめ、イギリスとの外交がいこうてき亀裂きれつこし、イギリス政府せいふかれ解任かいにん主張しゅちょうした。結局けっきょく、ラスコルニコフは帰国きこくさせられた[1]

1930ねんから、エストニアデンマークブルガリア全権ぜんけん代表だいひょうつとめた。

1938ねん3がつソ連それんもどされたが、4がつ1にち帰国きこく拒否きょひし、家族かぞくともにフランスに亡命ぼうめいした。 1939ねん有名ゆうめいな『スターリンへの公開こうかい書簡しょかん[8]発表はっぴょうし、そのなかで、だい粛清しゅくせいあらたなどく同盟どうめいむすんだスターリン批判ひはんした。

リッベントロップ・モロトフ協定きょうてい調印ちょういんからあいだもなく、ラスコルニコフは協定きょうていかれにとっておおきな衝撃しょうげきだったため、精神せいしん病院びょういん入院にゅういんした。ラスコルニコフは入院にゅういんちゅうに「まどからちた」ために即死そくしした。歴史れきしロイ・メドヴェージェフによると、NKVDのエージェントによって暗殺あんさつされた可能かのうせいがある[1]暗殺あんさつしゃは、詩人しじんマリーナ・ツヴェターエワおっとであるセルゲイ・エフロンではないかというせつがある[2]

ラスコルニコフは死後しご、1963ねん名誉めいよ回復かいふくがなされた[1]

文学ぶんがくてき経歴けいれき[編集へんしゅう]

1924ねんから1930ねんあいだ、ラスコルニコフは、コムソモール機関きかんであった文芸ぶんげいモロダヤ・グヴァルディヤ英語えいごばんわか親衛隊しんえいたい)の編集へんしゅうちょうつとめた。また、1927ねんから1930ねんまでは編集へんしゅう委員いいんかい一員いちいん、その編集へんしゅうちょうとして文芸ぶんげいクラスナヤ・ノヴ英語えいごばん刊行かんこうたずさわった。1928ねん事実じじつ上演じょうえんげき映画えいがおも検閲けんえつ機関きかんであった上演じょうえん目録もくろく委員いいんかい議長ぎちょうつとめた。また、自作じさく戯曲ぎきょくロベスピエール』をいたが、ラスコルニコフを信奉しんぽうする批評ひひょうでさえ「味気あじけなく退屈たいくつ」とひょうした[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Zalessky K.A. Stalin Imperia Moscow, Veche, 2002 citing by Раскольников Федор Федорович” (ロシア). 2007ねん6がつ26にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c Online biography Archived 2007-06-26 at the Wayback Machine. based on Zaytsev V.S. Voprosy Istorii KPSS N12 1963, etc. (ロシア)
  3. ^ Norman F. Saul, "Fedor Rashkolnikov, a 'Seconday Bpolshevik'", Russian Review v.32 no. 2, April 1973, p. 131.
  4. ^ Haupt and Jean-Jacques Marie, George (1974). Makers of the Russian Revolution. London: George Allen & Unwin Ltd 
  5. ^ Porter, Cathy (1988). Larissa Reisner. London: Virago. pp. 53. ISBN 0-86068-857-7 
  6. ^ Brian Pearce, Introduction to Fyodor Raskolnikov s "Tales of Sub-lieutenant Ilyin."
  7. ^ The Taking of Enzeli, by F.F. Raskolnikov
  8. ^ Raskolnikov's Open Letter to Stalin

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]