(Translated by https://www.hiragana.jp/)
フランス軍事顧問団 (1872-1880) - Wikipedia コンテンツにスキップ

フランス軍事ぐんじ顧問こもんだん (1872-1880)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だいフランス軍事ぐんじ顧問こもんだん

だいフランス軍事ぐんじ顧問こもんだん(1872–1880ねん)は、幕末ばくまつ派遣はけんされだいいち顧問こもんだんつづき、日本にっぽん派遣はけんされた軍事ぐんじ顧問こもんだんである。

前史ぜんし

[編集へんしゅう]

明治めいじ政府せいふがフランスに軍事ぐんじ顧問こもんだん派遣はけん要請ようせいしたことはやや意外いがいであった。フランスは1867ねんには幕府ばくふ陸軍りくぐん明治めいじしん政府せいふにとってはてきがわにあたる)の訓練くんれんのために軍事ぐんじ顧問こもんだん派遣はけんしており、さらに1871ねんひろしふつ戦争せんそう敗北はいぼくによりその名声めいせいにややかげりがでていたためである。

とはうものの、フランスからの指導しどうけることは、日本にっぽんにとって依然いぜんとして魅力みりょくがあった。1873ねんにフランスをおとずれた岩倉いわくら使節しせつだんちょうである岩倉いわくら具視ともみつぎのようにべている:

「われわれは戦争せんそうがフランスにした不幸ふこうぞんじておりますが、このことはフランス陸軍りくぐん長所ちょうしょにかんするわれわれの見解けんかいをなんら変更へんこうするものではありません。ふつ陸軍りくぐんかずまさてきぐんにたいしてあれほどの勇気ゆうきをしめされたのですから。」[1][2]

使節しせつだん

[編集へんしゅう]
明治天皇めいじてんのうによる顧問こもんだん歓迎かんげいしき、1872ねん

顧問こもんだんは1872ねん5がつ日本にっぽん到着とうちゃくした。団長だんちょうシャルル・アントワーヌ・マルクリー中佐ちゅうさ(Charles Antoine Marquerie、1824ねん – 1894ねん)であり、のちにシャルル・クロード・ムニエール大佐たいさ (Charles Claude Munier) に交代こうたいした。

顧問こもんだん士官しかん9にん下士官かしかん14にん軍楽隊ぐんがくたい責任せきにんしゃ(ギュスターブ・シャルル・ダグロン、Gustave Charles Desire Dagron)、しし医師いし1めい、および職人しょくにん2めい構成こうせいされていた。著名ちょめい団員だんいん一人ひとりに、工兵こうへい大尉たいいであったルイ・クレットマン(Louis Kreitmann、1851ねん – 1914ねん)がいた。クレットマンはのちエコール・ポリテクニーク学長がくちょうになるが、日本にっぽんやく500まい写真しゃしん撮影さつえいしており、パリコレージュ・ド・フランス日本にっぽんがく高等こうとう研究所けんきゅうじょ」 (Institut des Hautes Études Japonaises) に保管ほかんされている[3]

団員だんいんは3ねん契約けいやくで、月俸げっぽう150えんから400えん雇用こようされた(なお、当時とうじ太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ月俸げっぽうが800えん新卒しんそつ教員きょういん月俸げっぽうは5えんであった)。

活動かつどう

[編集へんしゅう]

顧問こもんだん目的もくてきは、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん再編さいへんと、1873ねん1がつ徴兵ちょうへいれい施行しこう支援しえんすることであった。徴兵ちょうへいれいでは、まん20さい男子だんしから抽選ちゅうせんで3ねん兵役へいえき常備じょうびぐん)とすることをさだめ、常備じょうびぐん終了しゅうりょうは4ねん後備こうびぐんとするものであった。

顧問こもんだんは、しゅとして下士官かしかん養成ようせいする陸軍りくぐん教導きょうどう学校がっこう活動かつどうした。1872ねんから1880ねんにかけて、顧問こもんだん指導しどうのもとに、各種かくしゅ学校がっこうとう設立せつりつされた:

顧問こもんだん設立せつりつした市ヶ谷いちがや陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(1874ねん撮影さつえい

1874ねんからのこりの期間きかんにかけては、沿岸えんがん防御ぼうぎょ充実じゅうじつ重点じゅうてんがおかれた。

顧問こもんだん滞在たいざい当時とうじ日本にっぽん国内こくないでははん政府せいふ機運きうんたかまっており、1877ねんには西郷さいごう隆盛たかもりによる西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつした。顧問こもんだん陸軍りくぐん近代きんだい多大ただい貢献こうけんをし、徴兵ちょうへいせいもとづく陸軍りくぐんがこれら士族しぞく反乱はんらん対応たいおうできるまでになった。


おも顧問こもんだんメンバー

[編集へんしゅう]
途中とちゅうから顧問こもんだん団長だんちょうつとめた、ムニール大佐たいさ。1874ねん撮影さつえい
  • アルマン・ピエール・アンドレ・エシュマン歩兵ほへい大尉たいい(Armand Pierre André Echeman、1872ねん4がつ11にち – 1875ねん1がつ18にち)。軍事ぐんじ訓練くんれん射撃しゃげき体力たいりょくトレーニングおよび理論りろん
  • ジョセフ・アウグスト・クロ歩兵ほへい少尉しょうい(Joseph Auguste Cros、1872ねん4がつ11にち – 1876ねん2がつ29にち)。軍事ぐんじ訓練くんれん射撃しゃげき体力たいりょくトレーニングおよび理論りろん
  • フロンソア・ジョセフ・デュクロ歩兵ほへい軍曹ぐんそう(François Joseph Ducros、1872ねん5がつ26にち – 1877ねん4がつ10日とおか)。体力たいりょくトレーニング指導しどう
  • アレクサンドル・エチエン・ボーギン歩兵ほへい中尉ちゅうい(Alexandre Étienne Bouguin、1875ねん10がつ29にち – 1879ねん12月31にち)。射撃しゃげき理論りろん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ "岩倉いわくら使節しせつだんとフランス―明治めいじ日本人にっぽんじんえなかったもの" (市川いちかわ慎一しんいち)
  2. ^ La Revue des Deux Mondes 1873 : “Le Japon depuis l’Abolition du Taïcounat. See also Source
  3. ^ 訳書やくしょに『ルイ・クレットマン日記にっき』(松崎まつざき碩子ひろこやく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ、2019ねん12がつ)、写真しゃしんおお収録しゅうろく

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう資料しりょう

[編集へんしゅう]
  • "Deux ans au Japon, 1876–1878", Louis Kreitmann
  • コレージュ・ド・フランス日本にっぽんがく高等こうとう研究所けんきゅうじょ, フランス国立こくりつ科学かがく研究けんきゅうセンター日本にっぽん文明ぶんめい研究所けんきゅうじょ, ニコラ・フィエヴェ, 松崎まつざき 碩子ひろこ共著きょうちょ『フランス士官しかん近代きんだい日本にっぽんのあけぼの―ルイ・クレットマン・コレクション』アイアールディー企画きかく (2005ねんISBN 978-4901061100
  • クリスチャン・ポラックきぬひかりられざるにちふつ交流こうりゅういち〇〇ねん歴史れきし』 アシェット婦人画報社ふじんがほうしゃ(2002ねんISBN 9784573062108
  • Chronologie des Relations Cultures Entre la France et le Japon, 1549–1949, Nishibori Akira, 1984
  • "Étienne de Villaret" in VU! magazine, Christian Polack
  • Japan's Intercourse with France in the Early Stage, Nishibori Akira, 1984
  • 陸軍りくぐん教育きょういく』、1913ねん
  • 木下きのした秀明ひであきちょ陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこう体育たいいく1』オリンピック,21: 6–9
  • 木下きのした秀明ひであきちょ経歴けいれきからみた戸山とやま学校がっこう教官きょうかん構成こうせい』Japanese Society of Physical Education (30), 106, 1979-10
  • 木下きのした秀明ひであきちょ質問しつもん史料しりょう価値かちについての検討けんとう日本にっぽん大学だいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きよう:25,1981ねん,16
  • 木下きのした秀明ひであきちょ戸山とやま学校がっこう学生がくせいすうかんする研究けんきゅうさくらもん体育たいいくがく研究けんきゅうだい13 しゅう(1978)
  • "L'ingénieur général du génie maritime Louis, Emile Bertin 1840–1924 créateur de la marine militaire du Japon à l'époque de Meiji Tenno", Hervé Bernard, 2007
  • "Ambassadeur au pays du Soleil Levant dans l'ancien Empire du Japon", Hervé Bernard, 2007