ブルガイ

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ブルガイモンゴル: Bulγがんまai、? - 1264ねん8がつ21にち[1])は、モンゴル帝国ていこくつかえたビチクチ書記しょき官僚かんりょう)の一人ひとり

もと』などの漢文かんぶん史料しりょうでは孛魯あい(bólŭhé)、『世界せかい征服せいふくしゃ』などのペルシア史料しりょうではبلغای اقا(bulghāī āqā)としるされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

チンギス・カンつかえたビチクチちょうシラ・オグル息子むすことしてまれた。おさなころからチンギス・カンの末子まっしトルイつかえ、そのケシク親衛隊しんえいたい)に所属しょぞくしていたという。

トルイの長男ちょうなんモンケだい4だい皇帝こうてい(カアン)に即位そくいすると、ジャライル出身しゅっしんでジャルグチをつとめるモンケセルとともにモンケのさい側近そっきんとして国政こくせい仕切しきった。モンケの即位そくいさい、『もと』では「中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょう」、『世界せかい征服せいふくしゃ』では「ワジールちょう」ににんぜられたとしるされているが、これはブルガイが「ウルグ・ビチクチ(だいビチクチ)」の地位ちいにあったことをかく征服せいふく地域ちいき文脈ぶんみゃく意訳いやくしたものである。なお、『もと』によるとこのときトルイ投下とうかりょうであるじょうたば鹿しかしょく邑をあたえられたという[2][3][4]

1256ねん、モンケがみなみそうおやせい出発しゅっぱつすると、ブルガイはアラムダールとともにカラコルム統治とうちゆだねられたモンケの末弟ばっていアリクブケ補佐ほさにんぜられた。1259ねん、モンケが遠征えんせいさき急死きゅうしするとブルガイはアラムダールとともにカラコルムでアリクブケを推戴すいたいし、開平かいへいでカアンを自称じしょうしたクビライ勢力せいりょくとのあいだ内戦ないせんこすこととなった。最終さいしゅうてきにアリクブケやぶれ、ブルガイはアリクブケ首魁しゅかいとして1264ねん処刑しょけいされた[5]

ケレイトシラ・オグル[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 柯劭忞 (中国ちゅうごく). 新元しんもとまきはち本紀ほんぎだいはち. 中華民國ちゅうかみんこく. "かのえおもねさと哥與だまりゅうこたえしつおもねはやたいむかしさときゅうらいくだみことのりみなゆう,誅其部將ぶしょう魯花とうにん。" 
  2. ^ もとまき134列伝れつでん21也先はなでん,「也先はなこうむおびえれつ……むかし剌斡ゆるがせ早世そうせい、其子孛魯あいようごと睿宗、にゅう宿衛しゅくえいけんむね即位そくいあずかこうむ哥撒みつさん謀議ぼうぎはい中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうとげせん国政こくせいたまもの定之さだゆきたば鹿しかため其食邑」
  3. ^ もとまき3けんそう本紀ほんぎ,「元年がんねんからし……とげあらためさら庶政しょせい……以孛魯合掌がっしょうせんはつ号令ごうれいあさ覲・みつぎけん及内外聞がいぶんそう諸事しょじ
  4. ^ もとまき3けんそう本紀ほんぎ,「[元年がんねん]じゅうがつ……以只斡帯てのひらでんえきしょ需、孛魯合掌がっしょう必闍あかうつしはつせんみことのり及諸色目いろめ官職かんしょく
  5. ^ もとまき134列伝れつでん21也先はなでん,「いたりもと元年がんねん、以党おもねさと哥論ざいふく誅。よんにんちょう曰也さきはなつぎ曰木はち剌、はつだてだいためちゅうすすむつぎ曰答しつ蛮、るいかんいたりぎんあおさかえろく大夫たいふつぎ曰不はなじょうはいさかえろく大夫たいふ四川しせんしょうたいらあきら政事せいじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 坂本さかもとつとむ「モンゴル帝国ていこくにおける必闍あか=bitikci:けんそうメングの時代じだいまでを中心ちゅうしんとして」『史学しがく』42かん、1970ねん
  • 志茂しもせきさとし『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう 正篇せいへん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  • みや紀子のりこ『モンゴル時代じだいの「」の東西とうざい名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2018ねん
  • 村上むらかみ正二しょうじ訳注やくちゅう『モンゴル秘史ひし 2かん平凡社へいぼんしゃ、1972ねん