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プルタルコ・エリアス・カリェス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
プルタルコ・エリアス・カジェス
Plutarco Elías Calles


任期にんき 1924ねん12月1にち1928ねん11月30にち

出生しゅっしょう (1877-09-25) 1877ねん9月25にち
メキシコソノラしゅうグアイマス
死去しきょ (1945-10-19) 1945ねん10月19にち(68さいぼつ
メキシコの旗 メキシコメキシコシティ
政党せいとう 国民こくみん革命かくめいとう(PNR)
配偶はいぐうしゃ Natalia Chacón (1879~1927)

プルタルコ・エリアス・カリェススペイン: Plutarco Elías Calles, 1877ねん9月25にち - 1945ねん10月19にち)はメキシコの政治せいじ軍人ぐんじん大統領だいとうりょう退任たいにん革命かくめい最高さいこう指導しどうしゃ(Jefe Máximo)として1936ねんまで傀儡かいらい大統領だいとうりょうててメキシコを支配しはいした。

生涯しょうがい

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エリアス・カリェスは1877ねんソノラしゅうグアイマスまれ、エルモシージョそだった[1]。ソノラしゅう北部ほくぶ歴史れきしある農業のうぎょう畜産ちくさんぎょういえだし[1]ちちのプルタルコ・エリアス・ルセロは法律ほうりつ母親ははおやはマリア・ヘスス・カンプサノといった[2]本来ほんらい名前なまえはフランシスコ・プルタルコ・エリアス・カンプサノであった。はははやぼっし、ちち育児いくじ放棄ほうきしたため、叔母おば夫妻ふさいそだてられた[1][2]。「カリェス」のせいそだてのちちであるフアン・バウティスタ・カリェスからられた[1][2]

エリアス・カリェスは教育きょういく農業のうぎょう実業じつぎょうにたずさわっていたが、メキシコ革命かくめい発生はっせいするとソノラしゅうおおくの人々ひとびと同様どうようフランシスコ・マデロ支持しじにまわった[1]ビクトリアーノ・ウエルタのクーデターによってマデロ政権せいけんたおされると、エリアス・カリェスはソノラしゅう北部ほくぶはんウエルタの抵抗ていこう運動うんどうひきい、その内戦ないせんではベヌスティアーノ・カランサがわにつき、パンチョ・ビリャたたかった[1]

1915ねんにソノラしゅう臨時りんじ知事ちじ(1917ねん正式せいしき知事ちじ)に任命にんめいされた[2]。このとき最低さいてい賃金ちんぎんさだめ、教育きょういく改革かいかくし、カトリック聖職せいしょくしゃをソノラしゅうから追放ついほうし、アルコール飲料いんりょう生産せいさんしゃ処罰しょばつするなどの改革かいかくおこなったが、その政策せいさく議論ぎろんかれるものだった[1]軍事ぐんじてきにはヤキぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつした[2]

カランサ大統領だいとうりょうしたで1919ねん産業さんぎょう貿易ぼうえき労働ろうどう大臣だいじんしょくをつとめたが、短期間たんきかん辞職じしょくし、おなじソノラしゅうアルバロ・オブレゴン支持しじするようになった[1][3]。1920ねん4がつにアグア・プリエタ綱領こうりょう (Plan of Agua Prieta発表はっぴょうし、カランサ政権せいけん打倒だとうびかけた[1]

1920ねん5がつにカランサが殺害さつがいされ、ソノラしゅうアドルフォ・デ・ラ・ウエルタ臨時りんじ大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると、エリアス・カリェスは国防こくぼうしょう任命にんめいされた[1][2]同年どうねんオブレゴンが大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると、その内務相ないむしょう就任しゅうにんした[1][3][2]。1923ねんにデ・ラ・ウエルタがオブレゴン政権せいけんたいして反乱はんらんこすと、エリアス・カリェスは反乱はんらん鎮圧ちんあつするためにたたかった[1][2]

大統領だいとうりょう

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1924ねん7がつ大統領だいとうりょう選挙せんきょ (1924 Mexican general electionにエリアス・カリェスは立候補りっこうほして勝利しょうりし、12月にオブレゴンのつぎ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。エリアス・カリェスはメキシコ史上しじょうはじめてラジオで選挙せんきょ運動うんどうおこなった人物じんぶつだった[2]

1925ねん12月には憲法けんぽう27じょうにもとづいて外国がいこくじんがメキシコの土地とち所有しょゆうすることに制約せいやくもうけ、石油せきゆ産業さんぎょう制約せいやくもうけた[3][2]。このためアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからは共産きょうさん主義しゅぎものボリシェヴィキだと批判ひはんされ、両国りょうこく対立たいりつまねいた[1]内政ないせいではおおやけ教育きょういく整備せいび中央ちゅうおう銀行ぎんこう創立そうりつ[1]軍隊ぐんたい職業しょくぎょう専門せんもんなどおおくの改革かいかくをこころみた。かれ民法みんぽう改正かいせいして男女だんじょ法的ほうてきおな権利けんりつようにした[2]

エヒードについては、オブレゴン政権せいけんばい以上いじょうにあたる3,088,071ヘクタールを302,432世帯せたい分配ぶんぱいしたが、土地とち分配ぶんぱいだけでは不足ふそくであり、農業のうぎょう機械きかい灌漑かんがい施設しせつ農薬のうやく技術ぎじゅつ教育きょういくなどの支援しえん必要ひつようかんがえていた[2]

かれはんカトリックてきであり、メキシコ憲法けんぽうはんカトリック主義しゅぎてき条文じょうぶん(3じょう、5じょう、27じょう、130じょう)を実現じつげんするため、ソノラしゅう知事ちじ時代じだい同様どうようにカトリック聖職せいしょくしゃをメキシコ社会しゃかいから放逐ほうちくしようとした[1][3]。これによって1926ねんから1929ねんにかけてメキシコ西部せいぶおよび中央ちゅうおうメキシコでクリステロ戦争せんそうこされた[1]のちにカトリック教会きょうかい犠牲ぎせいしゃ25にん列聖れっせいした)。

ユルゲン・ブーヘナウ (de:Jürgen Buchenauによると、エリアス・カリェス自身じしんスピリティズム信奉しんぽうしゃだった[4]。またマシュー・バトラーによると、エリアス・カリェス政権せいけん閣僚かくりょうにはフリーメイソンおおく、メキシコにおいてフリーメイソンははん聖職せいしょくしゃ運動うんどうにおいて主要しゅよう役割やくわりたしたという[5]

エリアス・カリェスは連続れんぞくでなければ大統領だいとうりょう再選さいせんみとめるように憲法けんぽう13じょうと82じょう改正かいせいした。これはオブレゴンの再選さいせんみとめさせるためだったが、1928ねん再選さいせんされたオブレゴンは就任しゅうにんまえ暗殺あんさつされてしまった[1]権力けんりょく空白くうはくからふたたびメキシコが内戦ないせんおちいることをふせぐため、エリアス・カリェスは1929ねん政権せいけんとうである国民こくみん革命かくめいとう(PNR, 制度せいどてき革命かくめいとう前身ぜんしん)を創設そうせつした[1][3][2]

かげ権力けんりょくしゃ

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1929ねんから1935ねんまでのあいだ、エリアス・カリェスは後継こうけい傀儡かいらい大統領だいとうりょう次々つぎつぎえ、政界せいかい黒幕くろまくとしてメキシコを支配しはいつづけた。エリアス・カリェスは革命かくめいの「ヘフェ・マクシモ」(Jefe Máximo, 最高さいこう司令しれいかん)とばれるようになり[1]、この時代じだいはマクシマート (Maximatoばれる[2]

1928ねん7がつにオブレゴンがころされたのちエミリオ・ポルテス・ヒル英語えいごばん臨時りんじ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。1929ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ国民こくみん革命かくめいとうパスクアル・オルティス・ルビオ英語えいごばん選出せんしゅつされて1930ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、エリアス・カリェスが実権じっけんつづけることににかれ批判ひはんてきになると辞任じにんされられて1932ねんアベラルド・ロドリゲス英語えいごばん大統領だいとうりょうにつけられた。1934ねん選挙せんきょ (1934 Mexican general electionでふたたびエリアス・カリェスの支持しじする国民こくみん革命かくめいとうラサロ・カルデナス当選とうせんした。

カルデナスはエリアス・カリェスがソノラしゅうパンチョ・ビリャたたかっていたころからの配下はいかだったが、よく1935ねん6がつにエリアス・カリェスがカルデナスの左派さはてき政治せいじ批判ひはんすると、カルデナスを擁護ようごする労働ろうどう団体だんたいなどのだい規模きぼ運動うんどうきた。エリアス・カリェスは1936ねん4がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめいし、サンディエゴんでカルデナス政権せいけん敵対てきたいした[1]

1944ねん[1][ちゅう 1]マヌエル・アビラ・カマチョまねきにおうじてメキシコに帰国きこくした[1]。1945ねんメキシコシティ死去しきょし、ドロレスのパンテオン (Panteón de Dolores埋葬まいそうされた[2]。1969ねん11月に革命かくめい記念きねんとう遺体いたいうつされた[2]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1941ねんとする文献ぶんけん[3]、1942ねんとする文献ぶんけん[2]がある

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Carlos Macías Richard (2015). “Calles, Plutarco Elías”. In Michael Werner. Concise Encyclopedia of Mexico. Routledge. pp. 58-59. ISBN 9781579583378 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Doralicia Carmona Dávila (2021), “Elías Calles Campuzano Plutarco”, Memoria Política de México, ISBN 970951931X, https://www.memoriapoliticademexico.org/Biografias/ECP77.html 
  3. ^ a b c d e f “Plutarco Elías Calles”, Encyclopaedia Britannica, https://www.britannica.com/biography/Plutarco-Elias-Calles 
  4. ^ Jürgen Buchenau (2007). Plutarco Elías Calles and the Mexican Revolution. Rowman & Littlefield. pp. 196-197. ISBN 074253748X 
  5. ^ Matthew Butler (2007). “A Revolution in Spirit? Mexico, 1910-1940”. Faith and Impiety in Revolutionary Mexico. Palgrave Macmillan. p. 7. doi:10.1057/9780230608801. ISBN 9781349539260 

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
アルバロ・オブレゴン
メキシコの旗 メキシコ合衆国がっしゅうこく大統領だいとうりょう
だい40だい:1924 - 1928
次代じだい
エミリオ・ポルテス・ヒル英語えいごばん