(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ベルナール・トゥブラン=ミシェル - Wikipedia コンテンツにスキップ

ベルナール・トゥブラン=ミシェル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルナール・トゥブラン=ミシェル
Bernard Toublanc-Michel
生年月日せいねんがっぴ (1927-12-06) 1927ねん12月6にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2023-09-22) 2023ねん9月22にち(95さいぼつ
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス ロワール=アトランティックけんアンスニ
国籍こくせき フランスの旗 フランス
テンプレートを表示ひょうじ

ベルナール・トゥブラン=ミシェルBernard Toublanc-Michelベルナール・T・ミシェル Bernard T. Michelとも、1927ねん12月6にち - 2023ねん9月22にち[1])は、フランス映画えいが監督かんとくである。女優じょゆうイザベル・アジャーニ発見はっけんしゃとしてられる。

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

1927ねん12月6にち、フランス・ロワール=アトランティックけんアンスニにまれる。

1955ねん、27さいのときに短篇たんぺん映画えいがÂmes d'argile』をはつ監督かんとくする。よく1956ねんから、ヴェテラン監督かんとくアンドレ・ユヌベルの『Mannequins de Paris』や、ジョルジュ・ルーキエ監督かんとくの『S.O.S. Noronha』(主演しゅえんジャン・マレー1957ねん)の助監督じょかんとくとしてはたらはじめる。とくにルーキエ監督かんとくどうさくでは、4さいでおなじように習作しゅうさく短篇たんぺんりはじめていたジャック・ドゥミもおなじじょ監督かんとくチームだった。同年どうねん、かつて短篇たんぺん音楽おんがくたのんだジョルジュ・ドルリュー参加さんかしている、おなじくジャン・マレー主演しゅえんピエール・カスト監督かんとくの『ポケットのなかあい』の助監督じょかんとくにつき、アレクサンドル・アストリュックら『カイエ・デュ・シネマけい人脈じんみゃくふかまる。

1961ねん、ジャック・ドゥミは長篇ちょうへんデビューさくローラ』をり、かれつまアニエス・ヴァルダも『5から7までのクレオ』をり、そのどちらにも助監督じょかんとくとして参加さんかし、現場げんばささえる。よく1962ねん、『クレオ』にカメオ出演しゅつえんしていたジャン=リュック・ゴダールアンナ・カリーナ夫妻ふさい当時とうじ)の映画えいがおんなおとこのいる舗道ほどう』の助監督じょかんとくにつく。また同年どうねんには習作しゅうさく短篇たんぺんLe Champ du possible』をる。

ゴダールを『勝手かってにしやがれ』でしたヴェテラン映画えいがプロデューサージョルジュ・ド・ボールガールが、1964ねん新人しんじんによるオムニバス映画えいが製作せいさくすることになり、ドゥミとヴァルダ作品さくひんささえたえんにとまり、気鋭きえい若手わかて5にんのひとりにえらばれた。『キス! キス! キッス!』(きゅうだい接吻せっぷん! 接吻せっぷん! 接吻せっぷん!』)がその作品さくひんだが、の4にん監督かんとくベルトラン・タヴェルニエジャン=フランソワ・オーデュロイシャルル・L・ビッチクロード・ベリであった。なかでもシャルル・L・ビッチはゴダールの『おんなおとこのいる舗道ほどう』でともに仕事しごとをした撮影さつえい助手じょしゅであった。こうしてトゥブラン=ミシェルは商業しょうぎょう監督かんとくデビューをたす。

つづいて同年どうねん、『おんなおとこのいる舗道ほどう』をプロデュースしたピエール・ブロンベルジェ製作せいさくLa Difficulté d'être infidèle』(日本にっぽん公開こうかい)で長編ちょうへん映画えいがデビューをたす。どうさくは、ベルリン国際こくさい映画えいがさい出品しゅっぴんされ、しょうのがしたものの、きむ獅子しししょうにノミネートされるにいたった。よく1965ねんジャック・バラティエ共同きょうどう監督かんとくで『L'Or du duc公爵こうしゃく黄金おうごん)』を発表はっぴょう、そしてそのとしれに、ゴダールが、はつアナトール・ドーマン製作せいさくのもとに撮影さつえいはいるというシネマ・ヴェリテてき新作しんさく男性だんせい女性じょせい』に、バラティエとともにふたりでいっしょに助監督じょかんとくにつくことにした。ヴァルダの『クレオ』の相手あいてやくアントワーヌ・ブルセイエをカメオ出演しゅつえんさせるなど、ゴダールのしん境地きょうちたいして、ヌーヴェルヴァーグらしさをくわえることに貢献こうけんした。

その順調じゅんちょう劇場げきじょうよう長編ちょうへん映画えいがり、1970ねん、『ちいさな木炭もくたんしょう Le Petit Bougnat』(日本にっぽん公開こうかい)の主演しゅえんきゅう当時とうじ15さいのまったくの新人しんじん女優じょゆうイザベル・アジャーニを抜擢ばってき。その彼女かのじょニナ・コンパネーズ監督かんとくのデビューさくなつのフォスティーヌ』(1971ねん)や、クロード・ピノトー作品さくひんやテレビ映画えいが出演しゅつえん1975ねんフランソワ・トリュフォー監督かんとくの『アデルのこい物語ものがたり』で花開はなひらく。

ロングランしたのはかれのスリラー映画えいがLe malin plaisir』(日本にっぽん公開こうかい1975ねん)で、どう作中さくちゅうで、わか作家さっかジャック・ヴェベール)がらわれ、犯人はんにん女性じょせい4人組にんぐみクロード・ジャドアニー・デュプレーマリー・マルケら)は自由じゆうである、というはなし[2]

1970年代ねんだい後半こうはんから1990年代ねんだい初頭しょとうまではテレビ映画えいが活動かつどうつづけていた。現在げんざい高齢こうれいのためか新作しんさくることがなくなった。日本にっぽん商業しょうぎょう公開こうかいされた作品さくひん初期しょきオムニバスのみだが、シャルル・L・ビッチ同様どうようられざるヌーヴェルヴァーグの証人しょうにんのひとりである。

2023ねん9がつ22にち死去しきょ、96さいぼつ[1]

フィルモグラフィー

[編集へんしゅう]

監督かんとく

[編集へんしゅう]

助監督じょかんとく

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b Monsieur Bernard Toublanc-Michel”. www.ouest-france.fr (2023ねん9がつ26にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ 独語どくごばんWikipedia「Bernard Toublanc-Michel」のこう記述きじゅつによる。

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]