ボロト・ブカ

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ボロト・ブカモンゴル: Bolot Buqa中国ちゅうごく: 孛羅はななま没年ぼつねんしょう)は、モンゴル帝国ていこく皇族こうぞくで、鎮南おうトガンまご。『もと』などの漢文かんぶん史料しりょうでは孛羅はな(bóluōbùhuā)としるされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

テムル・ブカのちちのトガンにあたえられた「鎮南おうはじ長男ちょうなんラオジャンうけたまわかさねし、その死後しご次男じなんのトク・ブカがうけたまわかさねしていた。しかしそのトク・ブカもまた早世そうせいし、そののボロト・ブカはまだおさなかったため、たいじょう3ねん1326ねん)にテムル・ブカが鎮南王位おういうけたまわかさねすることとなった[1]てんれき2ねん1329ねん)、てんれき内乱ないらん即位そくいしたジャヤガトゥ・カアン(ぶんむねトク・テムル)にたいし、テムル・ブカはすでおいのボロト・ブカが成長せいちょうしたため、自身じしんの鎮南王位おういゆずりたいともう[2][3]。ジャヤガトゥ・カアンはテムル・ブカのもうれてボロト・ブカをあらたに鎮南おうふう[4]、ボロト・ブカはテムル・ブカにわってあげしゅう鎮守ちんじゅすることになった[5]

ジャヤガトゥ・カアンの死後しごリンチンバルみじか即位そくいてウカアト・カアン(じゅんみかどトゴン・テムル)が即位そくいすると、げんみつる2ねん1334ねん)にボロト・ブカは朝廷ちょうていおとずれた[6]。このころ大元おおもとウルスではべにはばらんひろまりつつあり、ボロト・ブカは叔父おじのテムル・ブカやコンチェク・ブカらとともに叛乱はんらん鎮圧ちんあつにかりされることになった。いたりただし7ねん1347ねん)にはしゅうけい盗賊とうぞく討伐とうばつおこな[7]、その2カ月かげつには叔父おじのコンチェク・ブカとともにみずうみ広行ひろゆきしょうこう西行さいぎょうしょう叛乱はんらんぐん鎮圧ちんあつした[8]いたりせい12ねん1352ねん)には、これら叛乱はんらん鎮圧ちんあつ功績こうせきにより鈔1まんじょうあたえられた[9]

いたりせい15ねん1355ねん)、うえちゅう蹕するウカアト・カアンのしたから宣命せんみょうしるししんぱいめんがもたらされた[10]いたりせい16ねん1356ねん)、それまでの叛乱はんらんぐんとのたたかいの功績こうせき評価ひょうかされて鈔1まんじょうあたえられた[11]。これ以後いごボロト・ブカが史料しりょうじょうあらわれることはなく、その晩年ばんねんについては不明ふめいである。

のダイシンヌ[編集へんしゅう]

ボロト・ブカにはダイシンヌという息子むすこがおり、信州しんしゅう駐屯ちゅうとんして大元おおもとウルスにたいして叛乱はんらんこしたちんともりょうたたかいをひろげていた。いたりせい18ねん1358ねん)2がつおうたてまつこくひきいる大軍たいぐん派遣はけんして信州しんしゅう攻撃こうげきし、ダイシンヌらは危機ききおちいった。いたりせい19ねん1359ねん正月しょうがつ、ウイグルじん将軍しょうぐんバヤン・ブカ・テギンおうたてまつくにらの軍勢ぐんぜいやぶって敗走はいそうさせ、ダイシンヌらはいそもんひらいてバヤン・ブカ・テギンを出迎でむかえた。

しかし、わず数カ月すうかげつちんともりょうふたた大軍たいぐんし、ダイシンヌとバヤン・ブカ・テギンらは抗戦こうせんしたものの、士卒しそつ籠城ろうじょうせんつかってしまった。そのまんにん隊長たいちょうまん)の顧馬叛乱はんらんこしたことをけにしろ陥落かんらくし、ダイシンヌは戦死せんしした[12]

鎮南王家おうけ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき30やすしていみかど本紀ほんぎ2,「[やすしていさんねんじゅういちがつ]つちのえうま……ふう諸王しょおうてつはなため鎮南おう、鎮揚しゅう
  2. ^ もとまき33ぶんそう本紀ほんぎ2,「[てんれきねんふゆじゅうがつ]乙未おとみあらためふうぜん鎮南おうじょうはなためせんゆずるおうはつ、鎮南おうだつはな薨、孛羅はなよういのちじょうはなかさね其爵。孛羅はなすんでちょうじょうはな請以おう爵帰、乃特ふうせんゆずるおう、以示褒寵」
  3. ^ もとまき117列伝れつでん4じょうはなでん,「だつ歓薨、ろうあきらかさねふう鎮南おうろうあきら薨、おとうとだつはなかさねふう鎮南おうだつはな薨、孛羅はなようじょうはな乃嗣ため鎮南おう。……[てんれき]ねん、孛羅はなやめちょうじょうはな請以其位ふくかえ孛羅はな
  4. ^ もとまき33ぶんそう本紀ほんぎ2,「[てんれきねんなつよんがつ]丙午ひのえうまふう孛羅はなため鎮南おう
  5. ^ もとまき33ぶんそう本紀ほんぎ2,「[てんれきねんふゆじゅうがつ]へいいぬ……鎮南おう孛羅はなかえ鎮揚しゅう
  6. ^ もとまき38じゅんみかど本紀ほんぎ1,「[もとすべねんじゅういちがつ]これがつ鎮南おう孛羅はな来朝らいちょう
  7. ^ もとまき41じゅんみかど本紀ほんぎ4,「[いたりせいななねんきゅうがつ]甲子きのえねしゅうけいぬすめおこり鎮南おう孛羅はな討平
  8. ^ もとまき41じゅんみかど本紀ほんぎ4,「[いたりせいななねんじゅういちがつ]きのえとら、徭賊くれ天保てんぽうおちいやすししゅういのちじゅんおうひろしとおるはな鎮南おう孛羅はな及湖ひろ江西えにし二省以兵討之」
  9. ^ もとまき42じゅんみかど本紀ほんぎ5,「[いたりせいじゅうねんがつ]みずのといのち諸王しょおう禿かぶろけんりょうしたがえかんひゃくにんはせえきもりあげしゅう賜金しきんいちじょう、鈔一せんじょういのち西にしやすしおうきばやすすなよんがわたまもの鎮南おう孛羅はな鈔一まんじょう
  10. ^ もとまき44じゅんみかど本紀ほんぎ7,「[いたりせいじゅうねんなつよんがつ]これがつくるまじゅんじょうみことのり翰林かんりんまちせいがらすあつまりけんまちせいまごそう招安だか郵張まこと、仍齎宣命せんみょうしるししんぱいめんあずか鎮南おう孛羅はな淮南ワイナンゆきしょうれんおとずれとうかん商議しょうぎ給付きゅうふ
  11. ^ もとまき44じゅんみかど本紀ほんぎ7,「[いたりせいじゅうろくねんがつ]へいたつ、以鎮南おう孛羅はなへいきょう以来いらいりつおびえ薛丹討賊、るいりつ戦功せんこうたまもの鈔一まんじょう
  12. ^ もとまき195列伝れつでん82はくがおはなてききんでん,「はくがおはなてききん……[いたりせい]じゅうはちねんがつ江西えにしひねともりょう賊党ぞくとうおうたてまつくにとうごうじゅうまん、寇信州しんしゅう明年みょうねん正月しょうがつはくがおはなてききん衢引へい援焉。及至、ぐうたてまつこく城東じょうとう力戦りきせんやぶはしこれとき鎮南王子おうじ大聖たいせいやつ枢密院すうみついん判官ほうがんせきうるうとうたむろへい城中じょうちゅう、聞伯がおはなてききんいたりそう開門かいもん出迎でむかえはいまえ。……六月ろくがつ、……やめ而士そつりょくつかれ不能ふのうたたかえ万戸顧馬児以城叛、しろとげおちいせきうるう大聖たいせいやつうみ魯丁みなはくがおはなてききん力戦りきせんかちとげ自刎じふん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 野口のぐち周一しゅういちもとだい半期はんきおうごう授与じゅよについて」『史学しがく』56ごう、1986ねん
  • もとまき117列伝れつでん4
  • 新元しんもとまき114列伝れつでん11
  • こうむ兀児史記しきまき105列伝れつでん87