マイアー・アムシェル・ロートシルト

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイアー・アムシェル・ロートシルト

Mayer Amschel Rothschild
マイアー・ロートシルト
生誕せいたん 1744ねん2がつ23にち
かみきよしマ帝国まていこく帝国ていこく自由じゆう都市としフランクフルト
死没しぼつ (1812-09-19) 1812ねん9月19にち(68さいぼつ
ライン同盟どうめいフランクフルト大公たいこうこく首都しゅとフランクフルト
民族みんぞく ユダヤけいドイツじん
職業しょくぎょう 銀行ぎんこう
配偶はいぐうしゃ グトレドイツばん
子供こども 下記かき参照さんしょう
おや アムシェル・モーゼスちち
テンプレートを表示ひょうじ

マイアー・アムシェル・ロートシルトどく: Mayer Amschel Rothschild1744ねん2がつ23にち - 1812ねん9月19にち)は、ドイツ銀行ぎんこうヨーロッパ財閥ざいばつロートシルト英語えいごみでロスチャイルド)の基礎きそきずいた。

フランクフルト古銭こせん商人しょうにんとしてスタートし、ヘッセン=カッセルかたはくヘッセンせんみかどこう御用ごよう商人しょうにん銀行ぎんこうとなったことで成功せいこうのきっかけをつかみ、ナポレオン戦争せんそうおおきなざいした。かれの5にん息子むすこたちはフランクフルト(長男ちょうなんアムシェル)、ウィーン次男じなんザロモン)、ロンドン三男さんなんネイサン)、ナポリ四男よつおカール)、パリ五男いつおジェームス)の5かしょかれて事業じぎょうおこない、それぞれ5いえのロートシルトとなった。

帝国ていこく郵便ゆうびん代表だいひょうてき債権さいけんしゃであった。郵便ゆうびん事業じぎょうスペイン継承けいしょう戦争せんそうでネーデルラントからわれ、フランクフルトを拠点きょてんにしていた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

1743ねん1744ねん(1744ねんせつほう有力ゆうりょく)の2がつ23にちかみきよしマ帝国まていこく帝国ていこく自由じゆう都市としフランクフルトゲットーユダヤじん商人しょうにんアムシェル・モーゼスだい長男ちょうなん)としてまれた[1][2]当時とうじフランクフルト・ユダヤじん家名かめいはなかったが[注釈ちゅうしゃく 1]自称じしょう呼称こしょう家名かめいはあった。かれいえ家名かめいを「ハーン」もしくは「バウアー」と名乗なのっていたが、一時期いちじき、「あか表札ひょうさつ(ロートシルト)」のいたいえらしたため、「ロートシルト」という家名かめいでもばれた。マイヤーはこれを自分じぶん家名かめいとして使つかっていくことになる[4]

ちち信仰しんこうこころあつユダヤ教徒きょうとで、息子むすこマイアーにはラビになることを期待きたいしていた。そのためおさなくしてフュルトのラビ養成ようせい学校がっこう入学にゅうがくすることになった[5]学校がっこうでは中東ちゅうとうとヨーロッパの古代こだい語学ごがくまなんだ。これがこう古銭こせんへの興味きょうみ博識はくしきにつながったという[6]。しかしちちが1755ねん死去しきょし、ははもその翌年よくねんの1756ねん死去しきょしたため、学校がっこう退学たいがくしてはたらかなければならなくなった[5]

親戚しんせき紹介しょうかいハノーファー王国おうこくのユダヤじん銀行ぎんこうオッペンハイム丁稚でっち奉公ぼうこうした。ここで宮廷きゅうてい御用ごよう商人しょうにん(ほとんどがユダヤじんなので「御用ごようユダヤじん」ともばれた[注釈ちゅうしゃく 2])の業務ぎょうむまなんだ[3]

古銭こせんしょう[編集へんしゅう]

1764ねんにフランクフルトへもどる。古銭こせん研究けんきゅうきだったマイアーは蒐集しゅうしゅうしていた中東ちゅうとうのジナール金貨きんか、ドイツのきゅう銀貨ぎんかターレル、ロシアやバイエルンの鋳造ちゅうぞうかしなど古銭こせん販売はんばいぎょう開業かいぎょうしたが、一般人いっぱんじん相手あいてにはまったれなかった[7]

しかしオッペンハイムはたらいていたころ知遇ちぐうていたハノーファー軍人ぐんじんエメリッヒ・フォン・エストルフドイツばん将軍しょうぐん顧客こきゃくることができた。当時とうじ将軍しょうぐんはフランクフルトにちかハーナウ宮殿きゅうでんおもであるヘッセン=カッセルかたはく世子せいしヴィルヘルムのヘッセン・カッセルかたはくヴィルヘルム9せい、ヘッセンせんみかどこうヴィルヘルム1せい)につかえていた。将軍しょうぐん紹介しょうかい宮廷きゅうていない高官こうかんたちを次々つぎつぎ顧客こきゃく獲得かくとくし、やがてヴィルヘルムからも注文ちゅうもんけるようになった[8]

1769ねんにはハーナウ宮殿きゅうでん御用ごよう商人しょうにんとなる[9]

ヘッセン=カッセルかたはく御用ごよう商人しょうにん[編集へんしゅう]

ヘッセン=カッセルかたはくヴィルヘルム9せい(1803ねんにヘッセンせんみかどこうヴィルヘルム1せいとなる)

ヴィルヘルムは領内りょうないわか男子だんし徴兵ちょうへいして練兵れんぺいじょうきたげ、イギリスにしだすという傭兵ようへいぎょういとなんでおり、そこから莫大ばくだい利益りえきげていた。ハーナウ宮殿きゅうでん財務ざいむかんカール・ビュデルスドイツばんからられていたマイアーは、小規模しょうきぼながら両替りょうがえしょうもやっていたため、ロンドンからされたヴィルヘルムの為替かわせ手形てがた割引わりびき現金げんきん)する仕事しごとたずさわらせてもらえるようになった[10][11]

1770ねんおなじフランクフルト・ゲットーの住民じゅうみんザクセン=マイニンゲンこう宮廷きゅうてい御用ごよう商人しょうにんをしていたザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)のむすめグトレドイツばん結婚けっこんし、彼女かのじょとのあいだ息子むすこ5にんむすめ5にんけい10もうけた[12][13]

1780年代ねんだいなかばにはフランクフルト・ゲットーの住居じゅうきょなかもっと高級こうきゅう住宅じゅうたくである「みどり表札ひょうさつ(グリューネシルト)ドイツばん」のいたいえした(それでもキリスト教徒きりすときょうと住居じゅうきょくらべると貧相ひんそうだったが)[14]

1785ねん主君しゅくんヴィルヘルムがヘッセン=カッセルかたはく継承けいしょうしてヴィルヘルム9せいとなり、フランクフルトからはなれたカッセルヴィルヘルムスヘーエじょうドイツばんうつった。これによりヴィルヘルム9せいとの関係かんけい一時いちじ途絶とだえそうになった。1780年代ねんだいまつまでヴィルヘルム9せいにとってマイアーは数多あまたくいる御用ごよう商人しょうにん一人ひとりでしかなかったため、宮廷きゅうていかおせる機会きかいるだけで、すぐに疎遠そえんになるのである[15]

しかしやがてマイアーの息子むすこたちがちち仕事しごと手伝てつだうようになった。精力せいりょくてきなマイアーの息子むすこたちはかたはくからもられた。とく次男じなんザロモンはほぼ毎日まいにちのようにヴィルヘルムスヘーエじょうめていた。長男ちょうなんアムシェルほうはく抵当ていとうけんかんする仕事しごとたずさわらせてもらうようになった[16]かれらの活動かつどう評価ひょうかされて、1789ねんにはロートシルト銀行ぎんこうだい銀行ぎんこう名前なまえならべるかたちでヘッセン=カッセルかたはく正式せいしき金融きんゆう機関きかんひとつに指名しめいされ、ほうはく貸出かしだし業務ぎょうむ関与かんよできるようになった[17]。また三男さんなんネイサンはフランス革命かくめい影響えいきょう大陸たいりく暴騰ぼうとうしていた綿めん大量たいりょういつけるため、1798ねんにイギリス・マンチェスターへとわたっていった[18]

息子むすこたちの努力どりょくによってロートシルト業績ぎょうせき1790年代ねんだいから急速きゅうそくび、1796ねんにはマイアーはゲットーで一番いちばん資産しさんとなっていた[16]取引とりひき範囲はんいひろがっていき、ドイツかく都市としアムステルダムウィーンパリロンドンなど外国がいこく都市としでも活動かつどうするようになった。このころからロートシルト業務ぎょうむ信用しんよう供与きょうよ貸付かしつけ業務ぎょうむおもとなり、商人しょうにんから銀行ぎんこうへと転身てんしんしたといえる[14]

マイアーはヘッセン=カッセルかたはく御用ごよう商人しょうにんとして長年ながねんやってこれただけあって、穏和おんわ性格せいかくひとしんつかむことが得意とくいだったという[19]。またマイアーの商売しょうばい正直しょうじきであり、取引とりひき相手あいてかならもうけることができた。これがロートシルトたか信用しんようにつながった[20]

ナポレオン戦争せんそう[編集へんしゅう]

フランス皇帝こうていナポレオン・ボナパルト

1806ねん10がつナポレオン・ボナパルトひきいるフランスぐんプロイセン王国おうこく侵攻しんこうのついでにヘッセンせんみかどこうこくにも侵攻しんこうしてきた(マイアーがらすフランクフルトもこの侵攻しんこうさいにフランスぐんによって占領せんりょうされた)。ヘッセンせんみかどこうヴィルヘルム1せい(ヘッセン=カッセルかたはくヴィルヘルム9せい。1803ねんにヘッセンせんみかどこうとなっていた)は11月1にちにもシュレースヴィヒ公国こうこく国外こくがい亡命ぼうめいすることを余儀よぎなくされた。ナポレオンはヘッセンせんみかどこう君主くんしゅからむねと、その財産ざいさんはフランス大蔵省おおくらしょう法的ほうてき継承けいしょうじんになるむね布告ふこくした[21]

せんみかどこうから財産ざいさん管理かんり秘密ひみつ代理人だいりにん指定していされたのはビュデルスだったが、かれ大手おおて銀行ぎんこうまかせるとフランス当局とうきょくつかるおそれがたかいとかんがえ、ロートシルトまかせることをめた。以降いこう、マイアーと息子むすこたちはフランス当局とうきょくぬすんで各地かくちまわり、せんみかどこう諸侯しょこうへの債権さいけん回収かいしゅうし、せんみかどこうおくとどけた[22][注釈ちゅうしゃく 3]。しかしおくとどけるのは一部いちぶだけだった。マイアーがせんみかどこうのもとをおとずれて「フランス当局とうきょく監視かんしくぐけて殿下でんかのもとまでおくとどけるのはますますむずかしくなっている」と説得せっとくし、ロートシルト投資とうし信託しんたくさせたのである[24]

一方いっぽうでロートシルトはフランスがわとのコネクションもふかめていき、フランス当局とうきょくやフランス傀儡かいらい国家こっかライン同盟どうめい盟主めいしゅフランクフルト大公たいこうであるカール・テオドール・フォン・ダールベルク、フランクフルトの郵便ゆうびん制度せいど独占どくせんしているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシスドイツばんほうなどと親密しんみつ関係かんけいきずいた。これによりヨーロッパ大陸たいりく独自どくじ通商つうしょう確保かくほし、また情報じょうほうめん優位ゆういち、おおきな成功せいこうつなげていった[25]

おりしもナポレオンの大陸たいりく封鎖ふうされいのせいで大陸たいりく諸国しょこくではイギリスやその植民しょくみんからの輸入ゆにゅうたよっていた綿めん製品せいひん毛糸けいと煙草たばこ、コーヒー、砂糖さとう染料せんりょうなどがしな不足ふそくになっており、価格かかく高騰こうとうまねいていた。他方たほうイギリスではこれらの商品しょうひん価格かかく市場いちば喪失そうしつにより暴落ぼうらくした。そこでロンドンのネイサンはせんみかどこうからあずかっている巨額きょがく資金しきん元手もとでにこれらのしなやす大量たいりょうって大陸たいりく密輸みつゆし、マイアーと4にん息子むすこ大陸たいりくない確立かくりつしているロートシルト通商つうしょうルートを使つかって各地かくちりさばくようになった。これによってロートシルト莫大ばくだい利益りえきげられたうえ物資ぶっし不足ふそくにあえいでいた現地げんちみんからも大変たいへん感謝かんしゃされた[26][24]

またマイアーはフランクフルト・ユダヤじん市民しみんけん獲得かくとくもとめ、「あらゆる人民じんみんほうまえでの平等びょうどう宗教しゅうきょうてき信仰しんこう自由じゆう実践じっせん」をうたったナポレオン法典ほうてん一般いっぱん市民しみんほうとしてフランクフルトに導入どうにゅうさせるためのダールベルク大公たいこうとの交渉こうしょう尽力じんりょくし、ダールベルク大公たいこうに44まんグルデンを支払しはらって実現じつげんぎつけた[27]。しかし、ナポレオンは1808ねん5がつにユダヤじんどう権化ごんげほう例外れいがいとして時限じげん立法りっぽうをなし、民族みんぞく人権じんけん商業しょうぎょう職業しょくぎょう選択せんたく住居じゅうきょ移転いてんかぎることとした。そして1815ねんにフランクフルトが自由じゆう都市とし地位ちいもどし、ユダヤじん市民しみんけん自体じたいしてしまった[27]

晩年ばんねん死去しきょ[編集へんしゅう]

マイアー・アムシェル・ロートシルト

の2ねんまえ1810ねんには病気びょうきでだいぶ消耗しょうもうしており、事業じぎょうのほとんどを息子むすこたちにゆだねていた。事業じぎょうゆだねるさい息子むすこたちに兄弟きょうだい無視むしして自分勝手じぶんがって単独たんどく事業じぎょうをしてはいけないことや利益りえきぶんおうじて分配ぶんぱいすべきこと、女子じょし事業じぎょうがせてはいけないことをいいきかせ、そのむね誓約せいやくしょまで提出ていしゅつさせている[28]。そして同年どうねん9がつに「マイアー・アムシェル・ロートシルト父子ふし会社かいしゃ(M. A. Rothschild & Söhne)」を創設そうせつした。そののごとく出資しゅっしきんはマイアーと(ロンドンにいるネイサンをのぞく)4にん兄弟きょうだいしていた[29]

ヨム・キプル祭日さいじつだった1812ねん9がつ18にちにマイアーはフランクフルトのシナゴーグはいってまるいちにち断食だんじきおこなったが、その悪影響あくえいきょうか、9月19にち手術しゅじゅつ古傷ふるきず悪化あっかし、危険きけん容態ようだいとなった。さとったマイアーはただちに遺書いしょ口述こうじゅつさせた[30]

その遺書いしょは、会社かいしゃない重要じゅうようポストは一族いちぞくかぎること、事業じぎょうをするのは男子だんし相続そうぞくじんだけにすること、一族いちぞくから過半数かはんすう反対はんたいがないかぎ宗家そうけ分家ぶんけ長男ちょうなん家督かとくぐこと、結婚けっこんはロートシルト親族しんぞくないおこなうこと、事業じぎょう秘密ひみつ厳守げんしゅにして在庫ざいこ財産ざいさん目録もくろく公表こうひょうしないことを5にん息子むすこらにもとめていた。おやおもいをいで末永すえなが事業じぎょうつづくことをねがっての遺書いしょだった[31]

マイアーは、同日どうじつ午後ごご815ふんごろつまグトレにいだかれながらいきった[30]

家族かぞく[編集へんしゅう]

1770ねん8がつ29にち、フランクフルト・ユダヤじん商人しょうにんザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)のむすめグトレドイツばん1753ねん - 1849ねん)と結婚けっこんした。つまグトレはユダヤじんつまらしくひか人柄ひとがらで、しずかにものをしていることがおおかった[32]おっと死後しご、グトレは息子むすこむすめしてもゲットーのグリューネシルトのいえはなれようとせず、生涯しょうがいそこでらした[33]

グトレとのあいだ以下いかの5なん5じょもうけた。

マイアーは家族かぞく事業じぎょう区別くべつがほとんどつかなかった。いいかえると家族かぞく事業じぎょうでもあった。この時代じだい商売しょうばい世界せかい完全かんぜん男性だんせい社会しゃかいだったので、とく男子だんしはマイアーにとって重要じゅうようだった。マイアーは息子むすこたちを対等たいとう事業じぎょうパートナー、また事業じぎょう継承けいしょうするものとしてそだてた。マイアーは息子むすこたちに子供こどもころから金銭きんせんてき報酬ほうしゅうし、それによってかねかせぐことのよろこびをおぼえさせた。ユダヤきょうでは男子だんし成人せいじんは13さいであるが、マイアーの息子むすこたちもそのとしころにはマイアーの商売しょうばいにすっかりなじんでいたという。その結果けっか、マイアーと息子むすこたちは生涯しょうがいとおしてかた信頼しんらいかんむすっていた。むすめたちの結婚けっこんについても可能かのうかぎ親族しんぞくないで、また商売しょうばいじょう戦略せんりゃくもとづいてった。むすめ結婚けっこんするときには持参じさんきんをたくさんたせたが、むすめむすめ婿むこ事業じぎょう参加さんかしてくることはけっしてゆるさなかった[34]

子孫しそん団結だんけつねがうマイアーは遺書いしょなかでも「Concordia(協調きょうちょう)」という言葉ことばのこしており、これはロートシルト家紋かもんにもきざまれることになった[35]。ロスチャイルドのねやばつ世界せかい大戦たいせん今日きょうでも健在けんざいである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ フランクフルト・ユダヤじん公式こうしき家名かめいけることが許可きょかされたのはフランスぐんによってフランクフルトが占領せんりょうされた1807ねんのことである[3]
  2. ^ 宮廷きゅうてい御用ごよう商人しょうにんはユダヤじん以外いがいがほとんどなかった。たしかに宮廷きゅうてい御用ごよう商人しょうにんになれば君主くんしゅ政治せいじ権力けんりょく中枢ちゅうすう人物じんぶつ影響えいきょうりょく行使こうしできるようになるが、わりにかく方面ほうめんてきつくりやすく、宮廷きゅうていない権謀術数けんぼうじゅっすう失敗しっぱいしたり、君主くんしゅ期待きたいそむいたりすると財産ざいさんばかりかいのちまでうしなうことがおおかったためである。しかしユダヤじんにとっては宮廷きゅうてい御用ごよう商人しょうにん唯一ゆいいつのしがるみちだった[3]
  3. ^ フランス当局とうきょくもロートシルトヘッセンせんみかどこう債権さいけん管理かんりをしているらしいことをきとめ、フランクフルトのロートシルトたく家宅かたく捜査そうさおこなったが、なん証拠しょうこてこず、あきらめるしかなかった。ロートシルトじゅう帳簿ちょうぼけており、しん帳簿ちょうぼはしっかり秘匿ひとくしていたのである[22][23]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]