マイアー・アムシェル・ロートシルト (独 どく : Mayer Amschel Rothschild 、1744年 ねん 2月 がつ 23日 にち - 1812年 ねん 9月19日 にち )は、ドイツ の銀行 ぎんこう 家 か 。ヨーロッパ の財閥 ざいばつ ロートシルト家 か (英語 えいご 読 よ みでロスチャイルド家 か )の基礎 きそ を築 きず いた。
フランクフルト で古銭 こせん 商人 しょうにん としてスタートし、ヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく (ヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう )家 か の御用 ごよう 商人 しょうにん の銀行 ぎんこう 家 か となったことで成功 せいこう のきっかけを掴 つか み、ナポレオン戦争 せんそう で大 おお きな財 ざい を成 な した。彼 かれ の5人 にん の息子 むすこ たちはフランクフルト(長男 ちょうなん アムシェル )、ウィーン (次男 じなん ザロモン )、ロンドン (三男 さんなん ネイサン )、ナポリ (四男 よつお カール )、パリ (五男 いつお ジェームス )の5か所 しょ に分 わ かれて事業 じぎょう を行 おこな い、それぞれ5家 いえ のロートシルト家 か の祖 そ となった。
帝国 ていこく 郵便 ゆうびん の代表 だいひょう 的 てき な債権 さいけん 者 しゃ であった。郵便 ゆうびん 事業 じぎょう はスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう でネーデルラントから追 お われ、フランクフルトを拠点 きょてん にしていた。
1743年 ねん か1744年 ねん (1744年 ねん 説 せつ の方 ほう が有力 ゆうりょく )の2月 がつ 23日 にち 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく ・帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし フランクフルト のゲットー にユダヤ人 じん 商人 しょうにん アムシェル・モーゼス の第 だい 二 に 子 し (長男 ちょうなん )として生 う まれた[1] [2] 。当時 とうじ フランクフルト・ユダヤ人 じん に家名 かめい はなかったが[注釈 ちゅうしゃく 1] 、自称 じしょう や呼称 こしょう の家名 かめい はあった。彼 かれ の家 いえ は家名 かめい を「ハーン」もしくは「バウアー」と名乗 なの っていたが、一時期 いちじき 、「赤 あか い表札 ひょうさつ (ロートシルト)」の付 つ いた家 いえ で暮 く らしたため、「ロートシルト」という家名 かめい でも呼 よ ばれた。マイヤーはこれを自分 じぶん の家名 かめい として使 つか っていくことになる[4] 。
父 ちち は信仰 しんこう 心 こころ 厚 あつ いユダヤ教徒 きょうと で、息子 むすこ マイアーにはラビ になることを期待 きたい していた。そのため幼 おさな くしてフュルト のラビ養成 ようせい 学校 がっこう に入学 にゅうがく することになった[5] 。学校 がっこう では中東 ちゅうとう とヨーロッパの古代 こだい 史 し と語学 ごがく を学 まな んだ。これが後 こう の古銭 こせん への興味 きょうみ と博識 はくしき につながったという[6] 。しかし父 ちち が1755年 ねん に死去 しきょ し、母 はは もその翌年 よくねん の1756年 ねん に死去 しきょ したため、学校 がっこう を退学 たいがく して働 はたら かなければならなくなった[5] 。
親戚 しんせき の紹介 しょうかい でハノーファー王国 おうこく のユダヤ人 じん 銀行 ぎんこう 家 か オッペンハイム家 か に丁稚 でっち 奉公 ぼうこう した。ここで宮廷 きゅうてい 御用 ごよう 商人 しょうにん (ほとんどがユダヤ人 じん なので「御用 ごよう ユダヤ人 じん 」とも呼 よ ばれた[注釈 ちゅうしゃく 2] )の業務 ぎょうむ を学 まな んだ[3] 。
1764年 ねん にフランクフルトへ戻 もど る。古銭 こせん 研究 けんきゅう が好 す きだったマイアーは蒐集 しゅうしゅう していた中東 ちゅうとう のジナール金貨 きんか 、ドイツの旧 きゅう 銀貨 ぎんか ターレル、ロシアやバイエルンの鋳造 ちゅうぞう 貸 かし など古銭 こせん の販売 はんばい 業 ぎょう を開業 かいぎょう したが、一般人 いっぱんじん 相手 あいて には全 まった く売 う れなかった[7] 。
しかしオッペンハイム家 か で働 はたら いていた頃 ころ に知遇 ちぐう を得 え ていたハノーファー軍人 ぐんじん エメリッヒ・フォン・エストルフ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん を顧客 こきゃく に得 え ることができた。当時 とうじ 将軍 しょうぐん はフランクフルトに近 ちか いハーナウ 宮殿 きゅうでん の主 おも であるヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 世子 せいし ヴィルヘルム (後 ご のヘッセン・カッセル方 かた 伯 はく ヴィルヘルム9世 せい 、ヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう ヴィルヘルム1世 せい )に仕 つか えていた。将軍 しょうぐん の紹介 しょうかい で宮廷 きゅうてい 内 ない の高官 こうかん たちを次々 つぎつぎ と顧客 こきゃく に獲得 かくとく し、やがてヴィルヘルムからも注文 ちゅうもん を受 う けるようになった[8] 。
1769年 ねん にはハーナウ宮殿 きゅうでん の御用 ごよう 商人 しょうにん となる[9] 。
ヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 家 か の御用 ごよう 商人 しょうにん [ 編集 へんしゅう ]
ヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく ヴィルヘルム9世 せい (1803年 ねん にヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう ヴィルヘルム1世 せい となる)
ヴィルヘルムは領内 りょうない の若 わか い男子 だんし を徴兵 ちょうへい して練兵 れんぺい 場 じょう で鍛 きた え上 あ げ、イギリスに貸 か しだすという傭兵 ようへい 業 ぎょう を営 いとな んでおり、そこから莫大 ばくだい な利益 りえき を上 あ げていた。ハーナウ宮殿 きゅうでん の財務 ざいむ 官 かん カール・ビュデルス (ドイツ語 ご 版 ばん ) から気 き に入 い られていたマイアーは、小規模 しょうきぼ ながら両替 りょうがえ 商 しょう もやっていたため、ロンドンから振 ふ り出 だ されたヴィルヘルムの為替 かわせ 手形 てがた を割引 わりびき (現金 げんきん 化 か )する仕事 しごと に携 たずさ わらせてもらえるようになった[10] [11] 。
1770年 ねん 、同 おな じフランクフルト・ゲットーの住民 じゅうみん でザクセン=マイニンゲン公 こう 宮廷 きゅうてい 御用 ごよう 商人 しょうにん をしていたザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)の娘 むすめ グトレ (ドイツ語 ご 版 ばん ) と結婚 けっこん し、彼女 かのじょ との間 あいだ に息子 むすこ 5人 にん 、娘 むすめ 5人 にん の計 けい 10子 し を儲 もう けた[12] [13] 。
1780年代 ねんだい 半 なか ばにはフランクフルト・ゲットーの住居 じゅうきょ の中 なか で最 もっと も高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく である「緑 みどり の表札 ひょうさつ (グリューネシルト)(ドイツ語 ご 版 ばん ) 」の付 つ いた家 いえ に引 ひ っ越 こ した(それでもキリスト教徒 きりすときょうと の住居 じゅうきょ と比 くら べると貧相 ひんそう だったが)[14] 。
1785年 ねん に主君 しゅくん ヴィルヘルムがヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 位 い を継承 けいしょう してヴィルヘルム9世 せい となり、フランクフルトから離 はな れたカッセル のヴィルヘルムスヘーエ城 じょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) に移 うつ った。これによりヴィルヘルム9世 せい との関係 かんけい が一時 いちじ 途絶 とだ えそうになった。1780年代 ねんだい 末 まつ までヴィルヘルム9世 せい にとってマイアーは数多 あまた くいる御用 ごよう 商人 しょうにん の一人 ひとり でしかなかったため、宮廷 きゅうてい に顔 かお を見 み せる機会 きかい が減 へ るだけで、すぐに疎遠 そえん になるのである[15] 。
しかしやがてマイアーの息子 むすこ たちが父 ちち の仕事 しごと を手伝 てつだ うようになった。精力 せいりょく 的 てき なマイアーの息子 むすこ たちは方 かた 伯 はく からも気 き に入 い られた。特 とく に次男 じなん ザロモン はほぼ毎日 まいにち のようにヴィルヘルムスヘーエ城 じょう に詰 つ めていた。長男 ちょうなん アムシェル も方 ほう 伯 はく の抵当 ていとう 権 けん に関 かん する仕事 しごと に携 たずさ わらせてもらうようになった[16] 。彼 かれ らの活動 かつどう が評価 ひょうか されて、1789年 ねん にはロートシルト銀行 ぎんこう は大 だい 銀行 ぎんこう と名前 なまえ を並 なら べる形 かたち でヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 家 か の正式 せいしき な金融 きんゆう 機関 きかん の一 ひと つに指名 しめい され、方 ほう 伯 はく 家 か の貸出 かしだし 業務 ぎょうむ に関与 かんよ できるようになった[17] 。また三男 さんなん ネイサン はフランス革命 かくめい の影響 えいきょう で大陸 たいりく で暴騰 ぼうとう していた綿 めん を大量 たいりょう に買 か いつけるため、1798年 ねん にイギリス・マンチェスター へと渡 わた っていった[18] 。
息子 むすこ たちの努力 どりょく によってロートシルト家 か の業績 ぎょうせき は1790年代 ねんだい から急速 きゅうそく に伸 の び、1796年 ねん にはマイアーはゲットーで一番 いちばん の資産 しさん 家 か となっていた[16] 。取引 とりひき 範囲 はんい も広 ひろ がっていき、ドイツ各 かく 都市 とし やアムステルダム 、ウィーン 、パリ 、ロンドン など外国 がいこく 都市 とし でも活動 かつどう するようになった。この頃 ころ からロートシルト家 か の業務 ぎょうむ は信用 しんよう 供与 きょうよ と貸付 かしつけ 業務 ぎょうむ が主 おも となり、商人 しょうにん から銀行 ぎんこう 家 か へと転身 てんしん したといえる[14] 。
マイアーはヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 家 か の御用 ごよう 商人 しょうにん として長年 ながねん やってこれただけあって、穏和 おんわ な性格 せいかく で人 ひと の心 しん を掴 つか むことが得意 とくい だったという[19] 。またマイアーの商売 しょうばい は正直 しょうじき であり、取引 とりひき 相手 あいて も必 かなら ず儲 もう けることができた。これがロートシルト家 か の高 たか い信用 しんよう につながった[20] 。
フランス皇帝 こうてい ナポレオン・ボナパルト
1806年 ねん 10月 がつ にナポレオン・ボナパルト 率 ひき いるフランス軍 ぐん がプロイセン王国 おうこく 侵攻 しんこう のついでにヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう 国 こく にも侵攻 しんこう してきた(マイアーが暮 く らすフランクフルトもこの侵攻 しんこう の際 さい にフランス軍 ぐん によって占領 せんりょう された)。ヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう ヴィルヘルム1世 せい (ヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく ヴィルヘルム9世 せい 。1803年 ねん にヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう となっていた)は11月1日 にち にもシュレースヴィヒ公国 こうこく に国外 こくがい 亡命 ぼうめい することを余儀 よぎ なくされた。ナポレオンはヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう 家 か を君主 くんしゅ の座 ざ から追 お う旨 むね と、その財産 ざいさん はフランス大蔵省 おおくらしょう が法的 ほうてき 継承 けいしょう 人 じん になる旨 むね を布告 ふこく した[21] 。
選 せん 帝 みかど 侯 こう から財産 ざいさん 管理 かんり の秘密 ひみつ 代理人 だいりにん に指定 してい されたのはビュデルスだったが、彼 かれ は大手 おおて 銀行 ぎんこう に任 まか せるとフランス当局 とうきょく に見 み つかる恐 おそ れが高 たか いと考 かんが え、ロートシルト家 か に任 まか せることを決 き めた。以降 いこう 、マイアーと息子 むすこ たちはフランス当局 とうきょく の目 め を盗 ぬす んで各地 かくち を駆 か け回 まわ り、選 せん 帝 みかど 侯 こう の諸侯 しょこう への債権 さいけん を回収 かいしゅう し、選 せん 帝 みかど 侯 こう へ送 おく り届 とど けた[22] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。しかし送 おく り届 とど けるのは一部 いちぶ だけだった。マイアーが選 せん 帝 みかど 侯 こう のもとを訪 おとず れて「フランス当局 とうきょく の監視 かんし を潜 くぐ り抜 ぬ けて殿下 でんか のもとまで送 おく り届 とど けるのはますます難 むずか しくなっている」と説得 せっとく し、ロートシルト家 か に投資 とうし 信託 しんたく させたのである[24] 。
一方 いっぽう でロートシルト家 か はフランス側 がわ とのコネクションも深 ふか めていき、フランス当局 とうきょく やフランス傀儡 かいらい 国家 こっか ライン同盟 どうめい 盟主 めいしゅ でフランクフルト大公 たいこう であるカール・テオドール・フォン・ダールベルク 、フランクフルトの郵便 ゆうびん 制度 せいど を独占 どくせん しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシス (ドイツ語 ご 版 ばん ) 侯 ほう などと親密 しんみつ な関係 かんけい を築 きず いた。これによりヨーロッパ大陸 たいりく に独自 どくじ の通商 つうしょう 路 ろ を確保 かくほ し、また情報 じょうほう 面 めん で優位 ゆうい に立 た ち、大 おお きな成功 せいこう に繋 つな げていった[25] 。
折 おり しもナポレオンの大陸 たいりく 封鎖 ふうさ 令 れい のせいで大陸 たいりく 諸国 しょこく ではイギリスやその植民 しょくみん 地 ち からの輸入 ゆにゅう に頼 たよ っていた綿 めん 製品 せいひん 、毛糸 けいと 、煙草 たばこ 、コーヒー、砂糖 さとう 、染料 せんりょう などが品 しな 不足 ふそく になっており、価格 かかく の高騰 こうとう を招 まね いていた。他方 たほう イギリスではこれらの商品 しょうひん の価格 かかく が市場 いちば の喪失 そうしつ により暴落 ぼうらく した。そこでロンドンのネイサンは選 せん 帝 みかど 侯 こう から預 あず かっている巨額 きょがく の資金 しきん を元手 もとで にこれらの品 しな を安 やす く大量 たいりょう に買 か って大陸 たいりく へ密輸 みつゆ し、マイアーと4人 にん の息子 むすこ が大陸 たいりく 内 ない で確立 かくりつ しているロートシルト家 か の通商 つうしょう ルートを使 つか って各地 かくち で売 う りさばくようになった。これによってロートシルト家 か は莫大 ばくだい な利益 りえき を上 あ げられた上 うえ 、物資 ぶっし 不足 ふそく にあえいでいた現地 げんち 民 みん からも大変 たいへん に感謝 かんしゃ された[26] [24] 。
またマイアーはフランクフルト・ユダヤ人 じん の市民 しみん 権 けん 獲得 かくとく を求 もと め、「あらゆる人民 じんみん の法 ほう の前 まえ での平等 びょうどう と宗教 しゅうきょう 的 てき 信仰 しんこう の自由 じゆう な実践 じっせん 」を謳 うた ったナポレオン法典 ほうてん を一般 いっぱん 市民 しみん 法 ほう としてフランクフルトに導入 どうにゅう させるためのダールベルク大公 たいこう との交渉 こうしょう に尽力 じんりょく し、ダールベルク大公 たいこう に44万 まん グルデンを支払 しはら って実現 じつげん に漕 こ ぎつけた[27] 。しかし、ナポレオンは1808年 ねん 5月 がつ にユダヤ人 じん 同 どう 権化 ごんげ 法 ほう の例外 れいがい として時限 じげん 立法 りっぽう をなし、民族 みんぞく の人権 じんけん を商業 しょうぎょう ・職業 しょくぎょう 選択 せんたく ・住居 じゅうきょ 移転 いてん に限 かぎ ることとした。そして1815年 ねん にフランクフルトが自由 じゆう 都市 とし の地位 ちい を取 と り戻 もど し、ユダヤ人 じん の市民 しみん 権 けん 自体 じたい を取 と り消 け してしまった[27] 。
マイアー・アムシェル・ロートシルト
死 し の2年 ねん 前 まえ の1810年 ねん には病気 びょうき でだいぶ消耗 しょうもう しており、事業 じぎょう のほとんどを息子 むすこ たちに委 ゆだ ねていた。事業 じぎょう を委 ゆだ ねる際 さい 、息子 むすこ たちに他 た の兄弟 きょうだい を無視 むし して自分勝手 じぶんがって な単独 たんどく 事業 じぎょう をしてはいけないことや利益 りえき は持 も ち分 ぶん に応 おう じて分配 ぶんぱい すべきこと、女子 じょし に事業 じぎょう を継 つ がせてはいけないことをい聞 いき かせ、その旨 むね の誓約 せいやく 書 しょ まで提出 ていしゅつ させている[28] 。そして同年 どうねん 9月 がつ に「マイアー・アムシェル・ロートシルト父子 ふし 会社 かいしゃ (M. A. Rothschild & Söhne)」を創設 そうせつ した。その名 な のごとく出資 しゅっし 金 きん はマイアーと(ロンドンにいるネイサンを除 のぞ く)4人 にん 兄弟 きょうだい が出 だ していた[29] 。
ヨム・キプル 祭日 さいじつ だった1812年 ねん 9月 がつ 18日 にち にマイアーはフランクフルトのシナゴーグ に入 はい って丸 まる 一 いち 日 にち 断食 だんじき を行 おこな ったが、その悪影響 あくえいきょう か、9月19日 にち に手術 しゅじゅつ の古傷 ふるきず が悪化 あっか し、危険 きけん な容態 ようだい となった。死 し を悟 さと ったマイアーはただちに遺書 いしょ を口述 こうじゅつ させた[30] 。
その遺書 いしょ は、会社 かいしゃ 内 ない の重要 じゅうよう ポストは一族 いちぞく に限 かぎ ること、事業 じぎょう をするのは男子 だんし 相続 そうぞく 人 じん だけにすること、一族 いちぞく から過半数 かはんすう の反対 はんたい がない限 かぎ り宗家 そうけ も分家 ぶんけ も長男 ちょうなん が家督 かとく を継 つ ぐこと、結婚 けっこん はロートシルト家 か の親族 しんぞく 内 ない で行 おこな うこと、事業 じぎょう は秘密 ひみつ 厳守 げんしゅ にして在庫 ざいこ や財産 ざいさん の目録 もくろく を公表 こうひょう しないことを5人 にん の息子 むすこ らに求 もと めていた。親 おや の思 おも いを子 こ が受 う け継 つ いで末永 すえなが く事業 じぎょう が続 つづ くことを願 ねが っての遺書 いしょ だった[31] 。
マイアーは、同日 どうじつ 午後 ごご 8時 じ 15分 ふん 頃 ごろ 、妻 つま グトレに抱 いだ かれながら息 いき を引 ひ き取 と った[30] 。
1770年 ねん 8月 がつ 29日 にち 、フランクフルト・ユダヤ人 じん 商人 しょうにん ザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)の娘 むすめ グトレ (ドイツ語 ご 版 ばん ) (1753年 ねん - 1849年 ねん )と結婚 けっこん した。妻 つま グトレはユダヤ人 じん の妻 つま らしく控 ひか え目 め な人柄 ひとがら で、静 しず かに縫 ぬ い物 もの をしていることが多 おお かった[32] 。夫 おっと の死後 しご 、グトレは息子 むすこ や娘 むすめ が引 ひ っ越 こ してもゲットーのグリューネシルトの家 いえ を離 はな れようとせず、生涯 しょうがい そこで暮 く らした[33] 。
グトレとの間 あいだ に以下 いか の5男 なん 5女 じょ を儲 もう けた。
マイアーは家族 かぞく と事業 じぎょう の区別 くべつ がほとんどつかなかった。い換 いか えると家族 かぞく が事業 じぎょう でもあった。この時代 じだい 商売 しょうばい の世界 せかい は完全 かんぜん に男性 だんせい 社会 しゃかい だったので、特 とく に男子 だんし はマイアーにとって重要 じゅうよう だった。マイアーは息子 むすこ たちを対等 たいとう の事業 じぎょう パートナー、また事業 じぎょう を継承 けいしょう する者 もの として育 そだ てた。マイアーは息子 むすこ たちに子供 こども の頃 ころ から金銭 きんせん 的 てき 報酬 ほうしゅう を出 だ し、それによって金 かね を稼 かせ ぐことの喜 よろこ びを覚 おぼ えさせた。ユダヤ教 きょう では男子 だんし の成人 せいじん は13歳 さい であるが、マイアーの息子 むすこ たちもその年 とし の頃 ころ にはマイアーの商売 しょうばい にすっかりなじんでいたという。その結果 けっか 、マイアーと息子 むすこ たちは生涯 しょうがい を通 とお して固 かた い信頼 しんらい 感 かん で結 むす び合 あ っていた。娘 むすめ たちの結婚 けっこん についても可能 かのう な限 かぎ り親族 しんぞく 内 ない で、また商売 しょうばい 上 じょう の戦略 せんりゃく に基 もと づいて行 い った。娘 むすめ が結婚 けっこん する時 とき には持参 じさん 金 きん をたくさん持 も たせたが、娘 むすめ や娘 むすめ 婿 むこ が事業 じぎょう に参加 さんか してくることは決 けっ して許 ゆる さなかった[34] 。
子孫 しそん の団結 だんけつ を願 ねが うマイアーは遺書 いしょ の中 なか でも「Concordia(協調 きょうちょう )」という言葉 ことば を遺 のこ しており、これはロートシルト家 か の家紋 かもん にも刻 きざ まれることになった[35] 。ロスチャイルドの閨 ねや 閥 ばつ は二 に 度 ど の世界 せかい 大戦 たいせん を経 へ て今日 きょう でも健在 けんざい である。
^ フランクフルト・ユダヤ人 じん が公式 こうしき に家名 かめい を付 つ けることが許可 きょか されたのはフランス軍 ぐん によってフランクフルトが占領 せんりょう された1807年 ねん のことである[3] 。
^ 宮廷 きゅうてい 御用 ごよう 商人 しょうにん はユダヤ人 じん 以外 いがい に成 な り手 て がほとんどなかった。確 たし かに宮廷 きゅうてい 御用 ごよう 商人 しょうにん になれば君主 くんしゅ や政治 せいじ 権力 けんりょく の中枢 ちゅうすう の人物 じんぶつ に影響 えいきょう 力 りょく を行使 こうし できるようになるが、代 か わりに各 かく 方面 ほうめん に敵 てき を作 つく りやすく、宮廷 きゅうてい 内 ない の権謀術数 けんぼうじゅっすう に失敗 しっぱい したり、君主 くんしゅ の期待 きたい に背 そむ いたりすると財産 ざいさん ばかりか命 いのち まで失 うしな うことが多 おお かったためである。しかしユダヤ人 じん にとっては宮廷 きゅうてい 御用 ごよう 商人 しょうにん は唯一 ゆいいつ のし上 あ がる道 みち だった[3] 。
^ フランス当局 とうきょく もロートシルト家 か がヘッセン選 せん 帝 みかど 侯 こう の債権 さいけん 管理 かんり をしているらしいことを付 つ きとめ、フランクフルトのロートシルト宅 たく に家宅 かたく 捜査 そうさ も行 おこな ったが、何 なん ら証拠 しょうこ が出 で てこず、諦 あきら めるしかなかった。ロートシルト家 か は二 に 重 じゅう 帳簿 ちょうぼ を付 つ けており、真 しん の帳簿 ちょうぼ はしっかり秘匿 ひとく していたのである[22] [23] 。
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