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マティルド・ド・フランス

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マティルド・ド・フランス
Mathilde de France
ブルグント王妃おうひ
在位ざいい 964ねん - 981/2ねん

出生しゅっしょう 943ねん
死去しきょ 981ねん11月26にち/982ねん1がつ27にち
埋葬まいそう ブルグント王国おうこくヴィエンヌだい聖堂せいどう
結婚けっこん 964ねん
配偶はいぐうしゃ ブルグントおうコンラート
子女しじょ ゲルベルガ
ベルタ
ルドルフ3せい
マティルデ
家名かめい カロリング
父親ちちおや 西にしフランクおうルイ4せい
母親ははおや ゲルベルガ・フォン・ザクセン
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マティルド・ド・フランスフランス語ふらんすご:Mathilde de France, 943ねん - 981ねん11月26にち/982ねん1がつ27にち)は、ブルグントおうコンラート王妃おうひ

生涯しょうがい

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マティルドは西にしフランクおうルイ4せいゲルベルガ・フォン・ザクセン神聖しんせいローマ皇帝こうていオットー1せいいもうと)とのあいだ943ねんまれた。マティルドがまれたころにはすでにカロリング権力けんりょく弱体じゃくたいしていた。ちちルイ4せい治世ちせい安定あんていのためあずまフランク王女おうじょ結婚けっこんし、一方いっぽうノルマンディーこう敵対てきたいするロベールユーグ大公たいこうあらそった。

954ねんにマティルドのあにロテール西にしフランク王位おうい継承けいしょうし、ははゲルベルガが摂政せっしょうとなった。964ねん、マティルデは937ねんよりブルグントおうとなっていたコンラート結婚けっこんした[1]。コンラートは962ねん以降いこう、マティルドの伯父おじでコンラートのあねアーデルハイトおっとでもあった神聖しんせいローマ皇帝こうていオットー1せい支援しえんおおきくたよっていた。マティルドは持参じさんきんとして、あにロテールからゆずられたヴィエンヌをコンラートにもたらした[2]

マティルドは981ねんまたは982ねんおっとよりさき死去しきょし、ヴィエンヌだい聖堂せいどう埋葬まいそうされた。

子女しじょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Burgundy and Provence, 879-1032, Constance Brittain Bourchard, The New Cambridge Medieval History: Volume 3, c.900-c.1024, ed. Rosamond McKitterick and Timothy Reuter, (Cambridge University Press, 1999), p. 342.
  2. ^ Burgundy and Provence, 879-1032, Constance Brittain Bourchard, The New Cambridge Medieval History: Volume 3, c.900-c.1024, p. 335.