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マーリク・ブン・アナス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーリク・ブン・アナスの主著しゅちょ『ムワッター』の刊本かんぽんしょかげ

マーリク・ブン・アナスMālik b. Anas, ?-796ねん)は、8世紀せいきイスラーム法学ほうがくしゃマーリキーほう学派がくは生涯しょうがいのほとんどを「預言よげんしゃまちマディーナごした。主著しゅちょムワッター』は当時とうじのマディーナの慣習かんしゅうほう提示ていじする。ジャアファル・サーディクどう時代じだいじん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

マーリクのより詳細しょうさい名前なまえは、アブーアブドゥッラー・マーリク・ブン・アナス・ブン・マーリク・ブン・アビーアーミル・ブン・アムル・ブヌル・ハーリス・ブン・ガイマーン・ブン・フサイン・ブン・アムル・ブヌル・ハーリス,アルアスバヒーという[1]。マーリクは、クライシュぞくのひとりタイム・ブン・ムッラを始祖しそとするタイム部族ぶぞく一家いっかけい、フマイル(Ḫumayr)ぞくする[1]。マーリクのちち祖父そふも、ほう規範きはんくわしい知識ちしきじんであった[2]

生誕せいたんねん不明ふめいであり、史料しりょう推定すいていする生誕せいたんねんにはヒジュラれき90ねんから97ねんあいだ(708ねん-716ねん)と、ひらきがある[1]。どのような教育きょういくけたかについてもよくわかっていない[1]比較的ひかくてき後年こうねん史料しりょうてくるはなしではあるが、メッカで「ラアイ(raˀy)のラビーア」という異名いみょうのあったラビーア・ブン・ファッルフ(Rabīˀa b. Farruḵ)にフィクフ(fiqh は後年こうねん法学ほうがく」を意味いみすることとなるが、8世紀せいきのこの時点じてんではいまだがくとして確立かくりつするにいたっていないため、ここでは「預言よげんしゃとおしてしめされたかみ命令めいれい理解りかいすること」という fiqh 本来ほんらい意味いみ。)をまなんだというはなしは、ありうることである[1]。なお、史料しりょうになればなるほど、マーリクがまなんだとされる師匠ししょうかず増加ぞうかする[1]

マーリクは生涯しょうがいのほとんどをマディーナごしたようである[1][2]史料しりょうにより正確せいかく時期じき特定とくていできる出来事できごととしては、762ねんヒジャーズ地方ちほうアリーの一族いちぞく支持しじしゃこした蜂起ほうきにマーリクがまれたという事件じけんがある[1][3]。その前年ぜんねん761ねんに、ハサン裔のアブドゥッラーのおさめるメッカに反乱はんらん気配けはいかんったアッバースあさカリフマンスールが、アブドゥッラーの息子むすこムハンマドとイブラーヒームの兄弟きょうだいわた仲介ちゅうかいをマーリクにめいじた[1]。このことから、いくつかの事実じじつ推定すいていされる[1]。マーリクは、761ねん時点じてんですでにバグダードにまでられるほどの名望めいぼう威信いしんていた、そして、マーリクがアッバースあさ中央ちゅうおう政府せいふ敵意てきいっているとかんがえられてはいなかったということである[1]

この仲介ちゅうかい成功せいこうせず、アブドゥッラーの息子むすこムハンマド762ねんにマディーナで挙兵きょへいする英語えいごばん[3]。マーリク自身じしんはこの挙兵きょへいかかわっておらずいえにこもっていたが、預言よげんしゃモスクで「マンスールに忠誠ちゅうせいちかったもののうち、強制きょうせいされてちかいをてたものは、かならずしもこれに拘束こうそくされない」というファトワーした[1][3]。これにより反乱はんらんくわわりたくても誓約せいやくしばられてくわわれなかったものたちが、またたはんマンスール勢力せいりょくくわわった[1]

反乱はんらんは763ねん鎮圧ちんあつされ、マーリクは、あたらしくマディーナの代官だいかん就任しゅうにんしたジャアファル・ブン・スライマーンの命令めいれい鞭打むちうけいしょせられた[1]。マーリクはけい執行しっこう起因きいんするかた脱臼だっきゅうくるしむが、これによりかえって尊敬そんけいけるようになった[1]。なお、アブー・ハニーファにも獄中ごくちゅう虐待ぎゃくたいされたという伝承でんしょうがあるが、マーリクのエピソードを下敷したじきにして創作そうさくされた伝承でんしょうとみられる[1]

そののマーリクは、アッバースあさ政権せいけん平和へいわ関係かんけいたもったものとみられる[1][2]タバリーによると777ねんにカリフ・マフディーがメッカの聖域せいいき構成こうせい変更へんこうするけんでマーリクに意見いけん諮問しもんした[1]アブー・ヌアイムスユーティーによると、796ねん、すなわちマーリクがくなったとしに、カリフ・ラシードがメッカ巡礼じゅんれいおりにマディーナのマーリクのところを訪問ほうもんしたという[1]。このさい、カリフはマーリクの著書ちょしょ『ムワッター』をイスラームの聖典せいてんにすると所望しょもうしてかず、マーリク自身じしんがカリフをなんとか説得せっとくしてあきらめさせたという[1]。このエピソードはいささか脚色きゃくしょくぎると評価ひょうかされているが、カリフの訪問ほうもん自体じたい歴史れきしてき事実じじつであろう[1]

マーリクは796ねんにマディーナで病死びょうしした[1]太陽暦たいようれき換算かんさんで85さい前後ぜんこうである[1]バキー墓地ぼち埋葬まいそうされ、葬列そうれつ当時とうじのマディーナの代官だいかんアブドゥッラー・ブン・ザイナブ(Abd Allāh b. Zaynab)が仕切しきった[1]後年こうねん埋葬まいそうされた場所ばしょうえクッバ建築けんちくったことが、メッカとマディーナをおとずれた巡礼じゅんれい旅行りょこうしゃ旅行りょこうリフラ)により確認かくにんできる[1]

信心しんじんふかひとたちのなかには、ティルミズィー収録しゅうろくしたハディースのひとつを、後世こうせいにおけるアブー・ハニーファ、マーリク、シャーフィイー登場とうじょう預言よげんしゃムハンマド予言よげんしていると解釈かいしゃくするものもいる[1]。マーリクを崇敬すうけいする宗教しゅうきょうしょではマーリクがはは胎内たいないで3ねんごしたというエピソードがかれる場合ばあいがある[1]。マーリクに批判ひはんてき宗教しゅうきょうしょではマーリクがわかころ歌手かしゅになろうとしていたけれども母親ははおやにおまえはかお不細工ぶさいくだからやめておけとわれてフィクフを研究けんきゅうすることになったというエピソードがかれる場合ばあいがある[1]。マーリクとわかのシャーフィイーが出会であはなし宗教しゅうきょうしょにはこのんでげられるエピソードであるが、歴史れきしてき事実じじつであるという保証ほしょうあたえられていない[1]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

マーリクの『ムワッター』は現在げんざいつたわった法学ほうがくしょなか最古さいこのイスラーム法学ほうがくしょである(ザイド・ブン・アリー法学ほうがくしょ最古さいことするせつもある)[1]。『ムワッター』の伝承でんしょう過程かてい学派がくは(マズハブ)が発生はっせいし、「マーリクほう学派がくは」(マーリキーヤ)とばれるようになった[1]

『ムワッター』が目的もくてきとするところは、ほう正義まさよし宗教しゅうきょう儀礼ぎれい宗教しゅうきょう実践じっせん全体ぜんたい通観つうかんすることにある[1]。『ムワッター』で概説がいせつされている規範きはん実践じっせんは、8世紀せいき当時とうじのマディーナで普通ふつうおこなわれていた慣行かんこう(スンナ)にもとづくものであるか、イスラームきょう信者しんじゃ共同きょうどうたい合意ごうい(イジュマー)にもとづくものである[1]。さらに、慣行かんこう合意ごういのいずれによっても解決かいけつできない問題もんだい対処たいしょするための理論りろんてき基準きじゅん創造そうぞうすることも目的もくてきとしている[1]

アッバースあさ初期しょきにおいてはごく基本きほんてき問題もんだいについてもひとによって見解けんかい相違そういおおきく、人々ひとびとあいだ潤滑油じゅんかつゆとして機能きのうするような法的ほうてき規範きはんもとめられていた[1]。マーリクはヒジャーズ地方ちほう実践じっせんされていることをしめし、マディーナの慣習かんしゅうほう成文せいぶんし、体系たいけいすることによって、こうした社会しゃかいてき関心かんしんにこたえようとした[1]。その意味いみで、マーリク自身じしんにとって、伝統でんとう目的もくてきではなく手段しゅだんであった[1]。なお、当時とうじ慣習かんしゅう合意ごういのこすことによって、こうした社会しゃかいてき関心かんしんにこたえようとした知識ちしきじんはマーリクのほかにもおり、たとえばマージャシューン(al-Mājašūn, 781ねん歿)といったひとげられる[1]。しかし、『ムワッター』以外いがい写本しゃほんつてしたれいはない[1]。その理由りゆうは、論争ろんそうのあるポイントにおいて、『ムワッター』がつねに中庸ちゅうようてき視点してん提供ていきょうしているからとかんがえられている[1]

マーリク自身じしんは『ムワッター』のただしい本文ほんぶん(definitive text)にあたるものをのこしておらず、内容ないよう弟子でしたちによる口頭こうとう伝承でんしょうによる[1]。そのふででんされるようになった[1]。トータルで15しゅ異本いほんがあったようであるが、現代げんだいつてしたのはそのうちの2しゅのみである[1]

マーリクには『ムワッター』以外いがい著作ちょさくもあったとされることがあるが、いずれもうたがわしい[1]。10世紀せいきまつの『フィフリスト』には著者ちょしゃをマーリクにす、いくつかの書名しょめいがっているが、この時点じてんですでに真正しんせいせい疑問ぎもんていされている[1]。ただし、これらの書物しょもつ実際じっさい著者ちょしゃなかには、マーリクに直接ちょくせつ師事しじした弟子でしがいる可能かのうせいはある[1]

『ムワッター』以外いがいにマーリクの思想しそう記載きさいされた文献ぶんけんとしては、サフヌーン(Saḫnūn, 854ねん歿)の al-Mudawwana al-kubrā と、タバリーの Kitāb Iḵtilāf al-fuqahāˀ がある[1]前者ぜんしゃには、サフヌーンの疑問ぎもんにマーリキー法学ほうがくしゃイブン・カースィム(Ibn Qāsim)がこたえるかたちで、マーリクの個人こじんてき見解けんかい(ラアイ)が引用いんようされている[1]。このラアイはイブン・ワフブ(Ibn Wahb, 『ムワッター』の校訂こうていしゃ)が伝承でんしょうするものとおなじである[1]後者こうしゃには聖典せいてんクルアーンの法的ほうてき内容ないようべる章句しょうくたいするマーリクの注釈ちゅうしゃく記載きさいされており、これら注釈ちゅうしゃくはイブン・ワフブ校訂こうていの『ムワッター』を経由けいゆしてつたわるマーリクの注釈ちゅうしゃく内容ないようおなじである[1]

イスラーム法学ほうがく歴史れきしにおけるマーリク[編集へんしゅう]

イスラーム法学ほうがく(≒フィクフ)の発展はってん歴史れきしにおける、マーリクの歴史れきしてき位相いそうについて紹介しょうかいする。時間じかんじくとらえると、マーリクが『ムワッター』でべていることは、ときどきの状況じょうきょうおうじて理由りゆうけがおこなわれたものであり、ほうげんのすべてをクルアーンかハディースにもとめるという後代こうだいのイスラーム法学ほうがく類型るいけいにはてはまらない[1]。『ムワッター』は、イスラームの法的ほうてき思想しそうが「イスラーム法学ほうがく」になるまえ段階だんかいしめしている[1]伝承でんしょう追究ついきゅう厳格げんかくさをし、ある側面そくめんでは硬直こうちょくして「ハディースがく」が成立せいりつするのはマーリクよりのち時代じだいのことである[1]

空間くうかんじくとらえると、マーリクが『ムワッター』でべていることは、成立せいりつのムスリムの共同きょうどうたい遵守じゅんしゅしようとしたマディーナの慣習かんしゅうほうである[1]。この慣習かんしゅうほう原始げんしてきなものではなく、交易こうえきしゅたる生業せいぎょうとしたコミュニティの高度こうど要請ようせいおうじて発展はってんしてきたものである[1]。さらに、ひとつのまちのみならずアラブてき慣習かんしゅうほう代表だいひょうれいでもある[1]

タバリー、サムアーニーナワウィーによると、マーリクは後世こうせい人々ひとびとたか評価ひょうかけているが、その理由りゆうはマーリクが神意しんい探究たんきゅういそしんだからではなく、かれがハディースの真正しんせいせいきびしく見極みきわめたからであった[1]。『ムワッター』では、法的ほうてき判断はんだんについて伝承でんしょうされていることよりも、その当時とうじのマディーナで間違まちがいなく実践じっせんされている判断はんだん(アマル ˀamal)を提示ていじすることのほうが優先ゆうせんされる[1]。シャーフィイーはマディーナのウラマーのうちとくにマーリクだけをたか評価ひょうかしているが、これはにせハディースを鵜呑うのみにしない、マーリクの厳格げんかく態度たいどによる[1]

『ムワッター』でマーリクの個人こじんてき見解けんかい(ラアイ)がしめされるのは、伝承でんしょう(ハディース)も合意ごうい(イジュマー)も存在そんざいしない事案じあんについてだけである[1]。しかしこの、ある意味いみ寛大かんだい」なめんこう世代せだい法学ほうがくしゃには残念ざんねんがられる結果けっかになった[1]イブン・ハッリカーンは、くなる直前ちょくぜんのマーリクが過去かこにラアイをくだしたことを悔悟かいごしたとするはんラアイによる伝承でんしょうつたえている[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj Schachat, J. "Mālik b. Anas". Encyclopaedia Islamica. Vol. 6 (2nd ed.). pp. 262–265.
  2. ^ a b c しんイスラム事典じてん』「マーリク・イブン・アナス」のこう。(平凡社へいぼんしゃ、2002ねんISBN 978-4-582-12633-4
  3. ^ a b c Buhl, F. "Muḥammad b. ʿAbd Allāh". Encyclopaedia Islamica. Vol. 7 (2nd ed.). pp. 388–389.