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ミサイル・ギャップ論争ろんそう

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ミサイル・ギャップから転送てんそう

ミサイル・ギャップ論争ろんそう(英語えいご: Missle gap)とは、1950年代ねんだい後半こうはん東西とうざい冷戦れいせんしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくおこなわれた軍事ぐんじ論争ろんそうたんに「ミサイル・ギャップ」などと表記ひょうきされる場合ばあいもある。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1950年代ねんだいなかばに原子げんしばくだん水素すいそばくだんなどの核兵器かくへいき大量たいりょう保有ほゆうしていたアメリカであったが、その輸送ゆそう手段しゅだん広島ひろしま長崎ながさきのように戦略せんりゃく爆撃ばくげき落下らっかさせる方法ほうほうであり、この当時とうじはまだロケットでばすのは研究けんきゅう段階だんかいであった。ソビエト連邦れんぽうかく開発かいはつ成功せいこうしても、その規模きぼ生産せいさんすうおよ輸送ゆそう手段しゅだんにおいてアメリカは優位ゆういであるとしんじられていた。

しかしソ連それんナチス・ドイツのミサイル技術ぎじゅつを以って世界せかいはつ大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル(ICBM)であるR-7[ちゅう 1]開発かいはつし、1957ねん10がつ4にちにこのR-7系列けいれつスプートニクロケット[ちゅう 2]によって人工じんこう衛星えいせいスプートニク1ごうげて人類じんるいはじめて人工じんこう物体ぶったい地球ちきゅう周回しゅうかい軌道きどうせることに成功せいこうした。このときソ連それんニキータ・フルシチョフ首相しゅしょうはミサイル戦略せんりゃくたいべい優位ゆうい強調きょうちょうした[1][ちゅう 3]

論争ろんそう[編集へんしゅう]

このスプートニク1ごう成功せいこうによって、アメリカの自尊心じそんしんとこの分野ぶんやにおける自信じしんおおきくらぐことになった。そしてアメリカのかく技術ぎじゅつ優位ゆういらがないものの、ミサイル技術ぎじゅつおくれが命取いのちとりになるという論争ろんそうまれた。これは当時とうじアイゼンハワー大統領だいとうりょうべいソの緊張きんちょう緩和かんわ(デタント)で、ミサイルの研究けんきゅう開発かいはつとして若干じゃっかん予算よさんぞう了承りょうしょうした以外いがいだい規模きぼ軍拡ぐんかく競争きょうそうはじまることを拒否きょひして軍事ぐんじ削減さくげんおこなったためであった。

この論争ろんそうは、1958ねんごろからろんじられて当時とうじ野党やとうであった民主党みんしゅとう上院じょういん議員ぎいんジョン・F・ケネディもその急先鋒きゅうせんぽうであり、1960ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでケネディが民主党みんしゅとう大統領だいとうりょう候補こうほになってから対抗たいこう共和党きょうわとうニクソン候補こうほへの攻撃こうげき材料ざいりょうとして使つかわれた。

アメリカはソ連それんつづ人工じんこう衛星えいせいエクスプローラー1ごう」のげを成功せいこうさせ、大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル中心ちゅうしんとしたミサイル戦略せんりゃくすすめていたが、ソ連それんのミサイル配備はいびがどれほどすすんでいるのかからない状況じょうきょうなかで、不安ふあんつのるばかりであった。そして不安ふあん疑心暗鬼ぎしんあんきび、「ソ連それんかくたいする防戦ぼうせんそうとしての先制せんせいかく攻撃こうげき是非ぜひ」さえもが公然こうぜんろんじられるようになった。

アメリカにおける大陸たいりくあいだ弾道弾だんどうだんミサイルの開発かいはつソ連それんおくれたが、はつのICBM「アトラス」を1959ねんから実戦じっせん配備はいびしていた。さらに当時とうじ多数たすう保有ほゆうしていた「PGM-17 ソー(1958ねん実戦じっせん配備はいび)」や「PGM-19 ジュピター」などの中距離ちゅうきょり弾道だんどうミサイルをソビエト近海きんかい北極ほっきょくかいから発射はっしゃし、ソビエト国内こくない目標もくひょう攻撃こうげきおこなう「ポラリス計画けいかく」をスタートさせ、潜水艦せんすいかん発射はっしゃ弾道だんどうミサイルばれることになるこのポラリスは、1960ねんはじめて潜水せんすいかんから発射はっしゃテストがおこなわれ、配備はいびすすめられた。

論争ろんそうわり[編集へんしゅう]

この時期じきにアメリカの偵察ていさつ衛星えいせいがついにソ連それん国内こくない細部さいぶ撮影さつえい成功せいこうし、ソ連それんつICBMがわずかであることが判明はんめいした[2]。アメリカがソ連それん質量しつりょうともおおきくはなしていたことがあきらかになったものの、アイゼンハワー政権せいけん下手へたソ連それん刺激しげきしたくなかったこと、国内こくない軍事ぐんじ削減さくげん圧力あつりょく可能かのうせいがあったことから自国じこく優位ゆうい誇示こじすることはしなかった[3]

しかしこのミサイル・ギャップが虚構きょこうであることが、ケネディ大統領だいとうりょう就任しゅうにんの1961ねん2がつにケネディ政権せいけん国防こくぼう長官ちょうかん就任しゅうにんしたばかりのマクナマラ国防こくぼう長官ちょうかんがミサイル・ギャップを否定ひていしたことですぐにあきらかになった。これはより以前いぜんの1がつ6にちにフルシチョフ首相しゅしょうが「アメリカにたいするミサイルの優越ゆうえつせい拡大かくだいしつつある」という発言はつげんおこなったことにたいして、マクナマラが同日どうじつ国防省こくぼうしょう記者きしゃ会見かいけんで「おろかなこと」と一蹴いっしゅうして「両国りょうこくはほぼ同数どうすうのミサイルを配備はいびしている」とべ、こけおどしだと公然こうぜんってのけたことによるものであった。 フルシチョフがアメリカでのミサイル・ギャップ論争ろんそう逆手さかてった発言はつげんともかんがえられるが、実際じっさいはミサイルの弾頭だんとうかずでは当時とうじソ連それんやく300とされるにたいしてアメリカはやく6000の弾頭だんとう保有ほゆうしていた[4]。ケネディ大統領だいとうりょうはこの時点じてんですでに実態じったいについて認識にんしきしていたが、すぐにマクナマラ発言はつげん声明せいめいした。だが結局けっきょくマクナマラとラスク国務こくむ長官ちょうかんおよびマクジョージ・バンディ国家こっか安全あんぜん保障ほしょう担当たんとう特別とくべつ補佐ほさかんとの協議きょうぎて、同年どうねん10がつにギルパトリック国防こくぼう次官じかんが、アメリカはソ連それんたいしてかく戦力せんりょく優位ゆういにあるとの声明せいめいして、このミサイル・ギャップ論争ろんそう終止符しゅうしふった[5]

ギャップの実態じったい[編集へんしゅう]

ミサイル・ギャップの実態じったいとしてはアメリカがソ連それんたいして劣勢れっせいであったのではなく、ぎゃくソ連それんはるかに劣勢れっせいであったのである。ミサイル・ギャップ論争ろんそうわらせたのちよく1962ねんアメリカ国防総省こくぼうそうしょう情勢じょうせい評価ひょうかしたさいに、認識にんしきしていたソ連それんのICBMが30であるのにたいして、アメリカは220実戦じっせん配備はいびしていたのである。この論争ろんそう東西とうざい冷戦れいせんなかソ連それんたいするちから優位ゆうい確保かくほし、かく戦力せんりょくおよ通常つうじょう戦力せんりょく拡張かくちょういそぎたいタカ行動こうどうによるものとおもわれている[6]

ミサイル・ギャップは皮肉ひにく事態じたいをもたらした。ソ連それんニキータ・フルシチョフ首相しゅしょうソ連それん包囲ほういする西側にしがわかく戦力せんりょくたいして東側ひがしがわ脆弱ぜいじゃくであることを理解りかいしており、1959ねんこったキューバ革命かくめいではキューバフィデル・カストロ政権せいけん支援しえんし、史上しじょう最大さいだいかくばくだん爆発ばくはつさせて西側にしがわ威嚇いかくし、やがて1962ねんなつ、キューバにかくミサイルをはこ基地きち運用うんようするキューバ危機ききこして共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい優位ゆういせい誇示こじしようとした。

このときのフルシチョフの目的もくてきはキューバを防衛ぼうえいするとともに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本土ほんどちかくにかく戦力せんりょく配備はいびをすることで東西とうざいのミサイル・ギャップを挽回ばんかいすることでもあった[7]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 愛称あいしょうは「セミョールカ」とばれ、NATOコードネームでは「サップウッド」と呼称こしょうされた。
  2. ^ R-7系列けいれつのロケットは、こののちにスプートニクロケットの後継こうけいとしてボストークロケットがあり、ガガーリン少佐しょうさせて人類じんるいはつ有人ゆうじん飛行ひこうおこなったボストーク1ごうは、このボストークロケットからげられたことでばれたものであった。「ボストークによるスプートニク1ごうげ」という言説げんせつあやまりである。
  3. ^ しかしソ連それん人工じんこう衛星えいせいかくミサイルも国民こくみん生活せいかつ犠牲ぎせいあっての成果せいかであった。過剰かじょう中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい経済けいざい発展はってん阻害そがいしていた。農業のうぎょう生産せいさん低迷ていめいし、工業こうぎょうりょくもアメリカの半分はんぶんでしかなかった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 松岡まつおかかんちょう大国たいこくアメリカ100ねん明石書店あかししょてん、2016ねん3がつ、132ぺーじ 
  2. ^ ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ『キューバ危機きき』、53-54ぺーじ 
  3. ^ 松岡まつおかかんちょう大国たいこくアメリカ100ねん明石書店あかししょてん、2016ねん3がつ、133ぺーじ 
  4. ^ フレデリック・ケンペ『ベルリン危機きき1961』、126ぺーじ 
  5. ^ 佐々木ささき卓也たくやへん戦後せんごアメリカ外交がいこう有斐閣ゆうひかく、2002ねん10がつ、102ぺーじ 
  6. ^ 佐々木ささき卓也たくやへん戦後せんごアメリカ外交がいこう有斐閣ゆうひかく、2002ねん10がつ、102ぺーじ 
  7. ^ ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ『キューバ危機きき中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2015ねん4がつ、54ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]