ミスカワイヒ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ミスカワイヒアラビア: مسکویه‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Miskawayh, 932ねんごろせい? – 1030ねん2がつ16にち歿?)はブワイフあさ官僚かんりょうで、行政ぎょうせい文書ぶんしょ保管ほかん財務ざいむ担当たんとうする役所やくしょつとめたペルシアじん#生涯しょうがい)。歴史れきし哲学てつがくかんする著作ちょさくがある(#著作ちょさく)。その主著しゅちょ Tahḏīb al-ʿAḵlāq以下いかほんこうでは『倫理りんりろん』とぶ)は応用おうよう倫理りんりがく人格じんかく陶冶とうやかんする書物しょもつであり、イスラーム思想しそうなか倫理りんりがくかんする最古さいこ論文ろんぶんである。『倫理りんりろん』においてミスカワイヒは、個人こじん倫理りんり公的こうてき社会しゃかいからはなし、理性りせい欺瞞ぎまん誘惑ゆうわくとはことなることをいた。

名前なまえ[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃヤークート(1229ねん歿)はほん項目こうもく人物じんぶつ名前なまえを "مِسْکَوَیهْ‎"(ラテン・アルファベット転写てんしゃ: Miskawayh / カタカナでのみのれい: ミスカワイヒあるいはミスカワイフ)としている[1][2][3]。ヤークートによると「ミスカワイヒ」は「マズダきょうあるいはゾロアスターきょうから改宗かいしゅうしたペルシアじんムスリム」であり、「ヒジュラれき421ねんサファルがつ9にち西暦せいれき1030ねん2がつ16にち相当そうとう)に100さいくなった」という[1][2][3]。しかしながらボスワース英語えいごばんによると、これらの情報じょうほうはいずれも正確せいかくでない可能かのうせいたか[1][2]

まず「本人ほんにん改宗かいしゅうしゃであったのか」というてんかんしては、父系ふけいのイスムをつらねた名前なまえから、すくなくとも父親ちちおやかそれよりまえ世代せだいでイスラームに改宗かいしゅうしていることが示唆しさされる[1][2]。「ミスカワイヒ」のイスムは「アフマド」であり、クンヤと父系ふけいのイスムをつらねた名前なまえは「アブー・アリー・アフマド・イブン・ムハンマド・イブン・ヤアクーブ, ʿAbū ʿAlī ʿAḥmad b. Muḥammad b. Yaʿqūb」という(「ムハンマド」「ヤアクーブ」はいずれもムスリムの名前なまえ[1][2]

つぎに「『ミスカワイヒ』があだであるのか」というてんかんして、ヤークート以外いがい史料しりょうでは「ミスカワイヒ」のまえに「イブン」をつけてナサブのかたちでんでいる資料しりょう複数ふくすう種類しゅるいあることから、本来ほんらいは「イブン・ミスカワイヒ」とばれるのがただしいようである[1][2]。さらにえば、イランてき名前なまえである مسکویه‎ は、中期ちゅうきペルシア呼称こしょうがたであるミスコーイェ Miskōye かムシュコーイェ Muškōyeアラビア文字もじ表記ひょうきしたものである[1]。なお、コルバン/黒田くろだ/柏木かしわぎ(1974)は「イブン・マスクーイェ」と表記ひょうきする[4]

ほんこう以下いか記述きじゅつでは、ヤークートの知名度ちめいど考慮こうりょして、便宜べんぎてきに「ミスカワイヒ」とぶこととする。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

現代げんだい歴史れきし学者がくしゃ入手にゅうしゅ可能かのうなミスカワイヒの伝記でんきてき情報じょうほうすくない[2]まれたとき場所ばしょかんして、近代きんだいイランの伝記でんき作家さっかハーンサーリーペルシアばんは、ヒジュラれき326ねん西暦せいれき932ねんごろ)ズィヤールあさ治下ちかライイまれたと推測すいそくしている[1][2]。ミスカワイヒはヒジュラれき340ねん西暦せいれき952ねん)にブワイフあさイラク政権せいけん宰相さいしょうムハッラビー英語えいごばんられ、宮廷きゅうていナディーム御伽おとぎしゅ)としてむかれられた[2]。この時点じてんまでに、おそらくはジバール地方ちほう(イラン高原こうげん北西ほくせいやまがちなエリア。古代こだい王国おうこくメディアがあったあたり。)でそだち、書記しょきとしての技能ぎのうけていた[2]

ミスカワイヒは952ねんから12年間ねんかんブワイフのムイッズッダウラ英語えいごばんおさめるバグダード宰相さいしょうムハッラビーにつかえた[2]当時とうじのバグダードはエジプト以東いとうのイスラーム世界せかいひとぶつあつまる交流こうりゅうてんであり、ミスカワイヒはそのとみ文化ぶんかてき資産しさん享受きょうじゅした[2]有力ゆうりょくしゃ貴顕きけんいえ出入でいりして、タウヒーディー英語えいごばんアーミリー英語えいごばん、イブン・サァダーン Ibn Saʿdānサーヒブ・イブン・アッバード英語えいごばんアブー・スライマーン・マンティキー英語えいごばんバディーウッザマーンアブー・バクル・フワーリズミーといったおおくの文人ぶんじん知識ちしきじん交流こうりゅうした[1]。ミスカワイヒはまた、歴史れきしタバリー著作ちょさくを、タバリーの直接ちょくせつ弟子でしのひとりについて、よく研究けんきゅうした[1]

ムハッラビーの没後ぼつご(963ねん)、ミスカワイヒはライイ政権せいけんルクヌッダウラ英語えいごばん宮廷きゅうていうつり、宰相さいしょうアブル・ファドル・イブヌル・アミード英語えいごばんに7年間ねんかんつかえた[2]。ヤークートやキフティー、タウヒーディーによると、ミスカワイヒは宰相さいしょう蔵書ぞうしょ王国おうこく公文書こうぶんしょ補完ほかんする図書館としょかん責任せきにんしゃとしてはたらき、宰相さいしょう息子むすこアブル・ファトフの教育きょういくがかりもつとめた[2]。ミスカワイヒは宰相さいしょう蔵書ぞうしょ豊富ほうふさを称賛しょうさんしている[2]。966ねんビザンツ帝国ていこくたたかうためにホラーサーンから遠征えんせいしてきたイスラーム信仰しんこう戦士せんし集団しゅうだん英語えいごばんがライイに逗留とうりゅう[2]戦士せんしたちが図書館としょかん狼藉ろうぜきはたらこうとしたため、ミスカワイヒはほん文書ぶんしょを100とうのラクダにんではこし、図書館としょかん破壊はかいからすくった[2]

先代せんだい宰相さいしょうが970ねんくなると、ミスカワイヒはその息子むすこのアブル・ファトフにつづづかえたとみえ、975ねんルクヌッダウラブワイフあさぐんしたがってバグダードへったという記録きろくがある[2]。そのミスカワイヒは978ねんからシーラーズおさめるファールス政権せいけんのアドゥドゥッダウラのもとで、財務ざいむ担当たんとう大臣だいじんとしてはたら[2]。かつてつかえたアブル・ファドル・イブヌル・アミードがあたらしいおも教育きょういくがかりだったとしめ史料しりょうがあるため、アドゥドゥッダウラとミスカワイヒはおたがいをよくっていたはずである[2]。982ねんにアドゥドゥッダウラがくなると、その息子むすこサムサームッダウラ(ライイ政権せいけんのアミール)につかえたようであるが、その兄弟きょうだいバハーウッダウラ(対立たいりつするファールス政権せいけんのアミール)につかえたとつたえる史料しりょうもあって、詳細しょうさい不明ふめいである[2]

982ねん以後いご、ライイ政権せいけんはいったというせつは、ミスカワイヒがライイ政権せいけん宰相さいしょうイブン・サァダーン Ibn Saʿdān のナディーム(御伽おとぎしゅ)になったとつたえる史料しりょうもとづく[2]。イブン・サァダーンは 984-985ねん(ヒジュラれき374ねん)に処刑しょけいされる[2]。ヤークートがつたえるミスカワイヒの歿年ぼつねんは1030ねん2がつ16にち死歿しぼつイスファハーンとのことであるが、それまでの50年間ねんかん足取あしどりは不明ふめいである[2]。なおくなったとされる時期じきのイスファハーンはカークワイヒあさ英語えいごばん治世ちせいである[2]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

著作ちょさくは20さくほどあった。著作ちょさくはすべてアラビアかれている[1]名前なまえからりうるように、ミスカワイヒは、おそらくちち祖父そふだい改宗かいしゅうおこなわれた改宗かいしゅうムスリムであるが、その著書ちょしょにはイスラームへの宗教しゅうきょうてき情熱じょうねつをあらわにするような記載きさい見当みあたらない[2]。むしろ、ゾロアスターきょう司祭しさい階級かいきゅうマギてき教養きょうようがあったことが推量すいりょうされる[2]

  • Tajārib al-Umam (كتاب تجارب الأمم) - ムスリムがいたどう時代じだい歴史れきししょとして最古さいこほん。ブワイフあさ宰相さいしょうムハッラビーに直接ちょくせつつかえた官僚かんりょうとして、ミスカワイヒは宮廷きゅうていないきた事件じけんりうる立場たちばにあった。本書ほんしょはイスラームきょうはじまりからはじめ、アドゥドゥッダウラの治世ちせい最後さいごまで記述きじゅつする。
  • Tahdhib al'Akhlaq wa Tathir al'Araq (تهذيب الأخلاق و تطهير الأعراق) - 学問がくもんこころざものたちにけて倫理りんり哲学てつがくについていた哲学てつがくしょ。ミスカワイヒの主著しゅちょ
  • Kitab al-Hukama al-Khalida (كتاب الحكمة الخالدة) - ペルシア著作ちょさく永遠えいえん叡智えいち』(ペルシア: جاویدان خرد‎) のアラビア翻訳ほんやく題名だいめいBook of Literatures of the Arabs and Persians (كتاب آداب العرب والفرس) とする写本しゃほんもある。

ミスカワイヒとイフワーン・サファー(純正じゅんせい同胞どうほう教団きょうだん)とのかかわりをしめどう時代じだい史料しりょうもあり、その論文ろんぶんしゅう(リサーイル・イフワーン・サファー)にはミスカワイヒがいた部分ぶぶんもあるというせつもある[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k Arkoun, M. (1993). "Miskawayh". In Bosworth, C. E. [in 英語えいご]; van Donzel, E. [in 英語えいご]; Heinrichs, W. P. [in 英語えいご]; Pellat, Ch. [in 英語えいご] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz. Leiden: E. J. Brill. pp. 143l–144r. ISBN 90-04-09419-9
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa Bosworth, C. Edmund (2002). "MESKAWAYH, ABU ʿALI AḤMAD,". Encyclopædia Iranica, online edition. 2019ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ a b Yāqūt, Iršād, ii, 89 ff. = Udabāʿ v, 5-19;
  4. ^ アンリ・コルバン『イスラーム哲学てつがく黒田くろだ壽郎としお柏木かしわぎ英彦ひでひこやく岩波書店いわなみしょてん、1974ねん2がつ22にち。p208-210
  5. ^ Nasr, Hossein (1993). An Introduction to Islamic Cosmological Doctrines. SUNY Press. p. 26. ISBN 978-1-4384-1419-5. https://books.google.com/books?id=9wms5240AvQC 

文献ぶんけん[編集へんしゅう]