(Translated by https://www.hiragana.jp/)
モーリス・ド・ヴラマンク - Wikipedia コンテンツにスキップ

モーリス・ド・ヴラマンク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリス・ド・ヴラマンク

Maurice de Vlaminck

fr
モーリス・ド・ヴラマンク(みぎ)とアンドレ・ドラン
誕生たんじょう (1876-04-04) 1876ねん4がつ4にち
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス共和きょうわこくパリ
死没しぼつねん 1958ねん10月11にち(1958-10-11)(82さいぼつ
死没しぼつ フランスの旗 フランスリュイユ=ラ=ガドゥリエール英語えいごばん
国籍こくせき フランスの旗 フランス
運動うんどう動向どうこう フォーヴィスム
芸術げいじゅつ分野ぶんや 画家がか文筆ぶんぴつ
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
ファン・ゴッホ
影響えいきょうあたえた
芸術げいじゅつ
佐伯さえき祐三ゆうぞう
佐伯さえき米子よねこ
テンプレートを表示ひょうじ

モーリス(モリス)・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck 発音はつおんれい, 1876ねん4がつ4にち - 1958ねん10月11にち)は、フォーヴィスム野獣やじゅう)に分類ぶんるいされる19世紀せいきすえ20世紀せいきフランス画家がか文筆ぶんぴつ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1876ねんパリ音楽おんがく教師きょうしとしてまれるが、16さいときにはいえしてシャトゥーんだ。18さいとき結婚けっこんし、自転車じてんしゃ選手せんしゅをしたり、オーケストラバイオリンいたりして生計せいけいてていた。

ヴラマンクは、徹底てっていした自由じゆう主義しゅぎしゃで、自分じぶん才能さいのう以外いがいなにものもしんじず、なにごとにも束縛そくばくされたり、服従ふくじゅうすることをきらった。こうした性格せいかくから、絵画かいがについてもあらゆる伝統でんとう教育きょういく拒否きょひし、少年しょうねん時代じだい多少たしょうほどきをけた程度ていどで、ほとんど独学どくがくであった。

1900ねん、シャトゥー出身しゅっしん画家がかアンドレ・ドラン偶然ぐうぜんって意気投合いきとうごうし、共同きょうどうでアトリエをかまえる。1901ねんには、パリのベルネーム・ジュヌ画廊がろうひらかれていたゴッホてんき、そこでドランをつうじてアンリ・マティス紹介しょうかいされている。

だいいち世界せかい大戦たいせん兵役へいえきき、復員ふくいんはパリ郊外こうがい拠点きょてんうつし、自身じしんむら周辺しゅうへんまち風景ふうけい静物せいぶつおおえがいた。 また文筆ぶんぴつとしても執筆しっぴつ活動かつどうおこない、くなる2ねんまえには家族かぞくてに遺言ゆいごんのこしている。

作品さくひん特徴とくちょう[編集へんしゅう]

あらゆる伝統でんとう拒否きょひし、自分じぶん才能さいのうだけをしんじたヴラマンクであったが、ファン・ゴッホにだけはすくなからず影響えいきょうけていることを画家がか自身じしん表明ひょうめいしており、作品さくひんからも影響えいきょうがうかがわれる。ヴラマンクの絵具えのぐチューブからしぼした原色げんしょくりつけているようにえて、その画面がめんにはあかるさよりは陰鬱いんうつさがただよっているのが特色とくしょくである。だいいち世界せかい大戦たいせんはフォーヴィスムからはなれてポール・セザンヌ見出みいだし、独自どくじみちあゆみ、色彩しきさい一転いってんしてちゃしろ基調きちょうとするくらめに移行いこうした。

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

余談よだん[編集へんしゅう]

黒澤くろさわあきら映画えいが醜聞しゅうぶん』では、バイクにって風景ふうけい主人公しゅじんこう青江あおえ一郎いちろう三船みふね敏郎としお)が、美術びじゅつ雑誌ざっしで「ヴラマンクの真似まねをしているとかなんとか」とかれた、というかたちでこの画家がか言及げんきゅうされている。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]