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ユグルタ

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ユグルタ
Jugurtha
ヌミディアおう
ユグルタをったレリーフ
在位ざいい 紀元前きげんぜん118ねん - 紀元前きげんぜん106ねん

出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん160ねん
キルタ
死去しきょ 紀元前きげんぜん104ねん
カルケル・マメルティヌス
父親ちちおや マスタナバル
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ユグルタラテン語らてんご: Jugurtha紀元前きげんぜん160ねん - 紀元前きげんぜん104ねん)とは、紀元前きげんぜん2世紀せいき在位ざいいしたヌミディアおう在位ざいい紀元前きげんぜん118ねん - 紀元前きげんぜん106ねん)であり、みずからのかんした共和きょうわせいローマとの戦争せんそうユグルタ戦争せんそう)を首謀しゅぼうした人物じんぶつとしてられる。

経歴けいれき

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ぜん半生はんせい

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ヌミディアじんはアフリカ北部ほくぶ居住きょじゅうしていたが元々もともとはん遊牧ゆうぼくであったとされ、おなきたアフリカを中心ちゅうしん勢力せいりょくっていたカルタゴ傭兵ようへい部隊ぶたいとしてられた。ユグルタの祖父そふたるマシニッサはカルタゴと決別けつべつしてローマの同盟どうめいこくとなり、だいポエニ戦争せんそうでカルタゴが敗北はいぼくするとカルタゴにわり、きたアフリカで勢力せいりょく拡大かくだいした。

ユグルタはキルタ(げんコンスタンティーヌ)の出身しゅっしんつたえられ、マシニッサのすえ息子むすこマスタナバルちちとして紀元前きげんぜん160ねん出生しゅっしょうした。マシニッサには3にん息子むすこがおり、マシニッサが紀元前きげんぜん148ねん死去しきょするとマシニッサの長男ちょうなんミキプサ後継こうけいのヌミディアおうとなった。次男じなんのグルッサ(Gulussa)はヌマンティア戦争せんそうでローマぐん加勢かせいするためにヌミディア騎兵きへいひきいてヒスパニアわたった一方いっぽうで、マスタナバルはミキプサとともにヌミディア国内こくないとどまった。

マスタナバルが紀元前きげんぜん140ねんごろ死去しきょしたのち、ミキプサはヌミディアじんなか人気にんきのあったユグルタを養子ようしむかえた。ユグルタはミキプサからの警戒けいかいける目的もくてきもあり、ヒスパニアへわたってスキピオ・アエミリアヌス指揮しきっていたヌマンティア戦争せんそう従軍じゅうぐんした。ヒスパニアでユグルタはローマの有力ゆうりょくしゃとのつながりをつくることに時間じかんついやし、ガイウス・マリウスとも陣営じんえいおなじくした。なお、この時期じきにローマぐん弱点じゃくてん賄賂わいろであることを見抜みぬいたとされる。

王位おうい奪取だっしゅ

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紀元前きげんぜん118ねんにミキプサが死去しきょすると、ユグルタはミキプサの2人ふたり息子むすこアドヘルバルおよびヒエンプサル)と共同きょうどう後継こうけいしゃ地位ちいいたが、3にんあいだ後継こうけいしゃをめぐるあらそいがこった。アドヘルバルとヒエンプサルは共同きょうどうでユグルタとあらそったが、ユグルタはたたかいに勝利しょうりおさめ、ヒエンプサルは殺害さつがいされ、アドヘルバルはローマへ亡命ぼうめいした。

ローマ元老げんろういんはヌミディア王国おうこく内紛ないふん調停ちょうていして、王国おうこく東西とうざい分割ぶんかつして、ユグルタとアドヘルバルがそれぞれを統治とうちするように決着けっちゃくけたが、ユグルタはローマ国内こくない賄賂わいろおくり、なかでも紀元前きげんぜん121ねん執政しっせいかんつとめたルキウス・オピミウス(en)などはユグルタのために尽力じんりょくしたことで、よりゆたかであったヌミディアの西にし半分はんぶんがユグルタへあたえられるようになったとされる。なお、のちにローマではひがし半分はんぶん十分じゅうぶんゆたかであったと主張しゅちょうしたが、実際じっさいには開発かいはつ状態じょうたいであった。

たいローマ戦争せんそう

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スッラ(ひだり)のまえくさりつながれて連行れんこうされたユグルタ(みぎ

紀元前きげんぜん112ねんふたたびヌミディアおうめぐあらそいが再燃さいねん、キルタへ滞在たいざいしていたアドヘルバルをユグルタが突如とつじょ攻撃こうげきした。アドヘルバルはローマからの援軍えんぐん見込みこんで、ローマじん多数たすう居住きょじゅうする地区ちく防衛ぼうえいすることを決断けつだんした。しかし、ローマぐんキンブリ戦争せんそう最中さいちゅうぐんおおくがキンブリ戦争せんそう派兵はへいされていた。元老げんろういん執政しっせいかんルキウス・カルプルニウス・ベスティア(en)ひきいるローマぐんをヌミディアへ派遣はけんしたが、ユグルタはそれに先立さきだってアドヘルバルの守備しゅびする地区ちく攻略こうりゃくして、アドヘルバルをころし、アドヘルバルに助力じょりょくしたローマじん殺戮さつりくした。ローマはユグルタにたいして宣戦せんせん布告ふこくしたが、ローマのじゅうそう歩兵ほへい部隊ぶたいけい騎兵隊きへいたい中心ちゅうしんとしたヌミディアぐんめあぐね、戦線せんせん膠着こうちゃくした。

ベスティアはユグルタからの交渉こうしょうもうけて、ユグルタにとって有利ゆうり条件じょうけん講和こうわ締結ていけつした。なお、このさいにベスティアはユグルタから賄賂わいろけたとされる。ベスティアの政敵せいてきであったガイウス・メンミウスは収賄しゅうわいうたがいでベスティアを告発こくはつし、ベスティアはローマへと召喚しょうかんされた。ユグルタもローマへ到着とうちゃくしたが、ヌミディアおう潜在せんざいてきなライバルであった従兄弟いとこのマッシウァへ刺客しかくおくり、また悪評あくひょうながしたことでマッシウァの勢力せいりょく弱化じゃっかはかった。

紀元前きげんぜん109ねん、ユグルタはふたたびローマとの戦争せんそう突入とつにゅう執政しっせいかんクィントゥス・カエキリウス・メテッルスひきいるローマぐんがヌミディアへ侵攻しんこうし、ユグルタはムトゥルのたたか敗北はいぼくしたが、以降いこうかしてゲリラせん展開てんかいしたことでふたた戦争せんそう長期ちょうき様相ようそうていした。そのなかでローマぐんいち武将ぶしょうであったガイウス・マリウスはローマへ帰還きかんして紀元前きげんぜん107ねん執政しっせいかん選挙せんきょ出馬しゅつば当選とうせんした。

紀元前きげんぜん107ねんからマリウスがメテッルスにわってローマぐん指揮しきった。マリウスはルキウス・コルネリウス・スッラをユグルタの同盟どうめいこくであったマウレタニアへと派遣はけんした。スッラはマウレタニアおうボックス1せい協力きょうりょくけて、ユグルタを捕虜ほりょとすることに成功せいこうした。ユグルタの捕縛ほばくによって戦争せんそう終結しゅうけつした。ユグルタはローマへと連行れんこうされ、タレントゥム(げんターラント)へ拘留こうりゅうされた。

紀元前きげんぜん104ねん、マリウスの凱旋がいせんしきでユグルタはまわされ、凱旋がいせんしきカルケル・マメルティヌス(Carcer Mamertinus)にて処刑しょけいされた。なお、ユグルタが失脚しっきゃくしたのち、ヌミディアおうにはユグルタの兄弟きょうだいのガウダ(Gauda)がいた。

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
ミキプサ
ヌミディア国王こくおう
紀元前きげんぜん118ねん - 紀元前きげんぜん106ねん
次代じだい
ガウダ