ユグルタ戦争 せんそう (ユグルタせんそう、ラテン語 らてんご : Bellum Iugurthinum )は、紀元前 きげんぜん 111年 ねん から紀元前 きげんぜん 105年 ねん まで、共和 きょうわ 政 せい ローマ とヌミディア 王 おう ユグルタ の間 あいだ で行 おこな われた戦争 せんそう である。ガイウス・マリウス と、後 ご のローマの独裁 どくさい 官 かん 、ルキウス・コルネリウス・スッラ の台頭 たいとう の先駆 さきが けとなり、マリウスの軍制 ぐんせい 改革 かいかく のきっかけとなった戦争 せんそう としても知 し られる。
ヌミディアは、アフリカ北部 ほくぶ 、現在 げんざい のチュニジア ・アルジェリア の北部 ほくぶ に位置 いち していた王国 おうこく で、第 だい 二 に 次 じ ポエニ戦争 せんそう でローマに味方 みかた したマシニッサ 以降 いこう ローマの友好国 ゆうこうこく となり、彼 かれ がカルタゴに攻 せ め込 こ んだことで第 だい 三 さん 次 じ ポエニ戦争 せんそう が起 お きている。マシニッサの後 のち 、子 こ のミキプサ が王位 おうい を継 つ ぎ、その子 こ アドヘルバル(en) とヒエンプサル(en) 、そしてミキプサの兄弟 きょうだい だが早死 はやじに にしたマスタナバルの庶子 しょし 、ユグルタ との間 あいだ で起 お きた王位 おうい 継承 けいしょう 問題 もんだい にローマが介入 かいにゅう し、最終 さいしゅう 的 てき には勝利 しょうり する。
ティトゥス・リウィウス らの著作 ちょさく が断片 だんぺん しか伝 つた わっておらず、まとまった記録 きろく はサッルスティウス によるものしか残 のこ っていない。
硬貨 こうか に刻 きざ まれたミキプサ
サッルスティウスによれば、ユグルタは他 た の2人 ふたり より優秀 ゆうしゅう だったためミキプサは彼 かれ を敬遠 けいえん し、スキピオ・アエミリアヌス (小 しょう スキピオ)によるヌマンティア戦争 せんそう に参加 さんか させて戦死 せんし することを望 のぞ んだが、そこでユグルタは小 しょう スキピオも認 みと める活躍 かつやく をしたため、ミキプサは態度 たいど を変 か え彼 かれ を養子 ようし にとった。
紀元前 きげんぜん 118年 ねん に死去 しきょ したミキプサは、死 し ぬ前 まえ に息子 むすこ たちとユグルタが協力 きょうりょく して国 くに を守 まも ることを望 のぞ んだが、ユグルタはヒエンプサルを殺害 さつがい しアドヘルバルを攻撃 こうげき したため、アドヘルバルはローマへ逃 に げ込 こ み、ヌミディアは実質 じっしつ 的 てき にユグルタのものとなったという。
紀元前 きげんぜん 116年 ねん 、ローマはルキウス・オピミウス らによる使節 しせつ 団 だん を送 おく り、ユグルタとアドヘルバルはヌミディア分割 ぶんかつ の協定 きょうてい を結 むす んだが、ユグルタは賄賂 わいろ で有利 ゆうり に運 はこ んだとされる。
サッルスティウスは、ヌマンティアでローマでは何 なん でも金 きん で買 か えると学習 がくしゅう したユグルタは、元老 げんろう 院 いん とオピミウスらを買収 ばいしゅう し、富 と んだヌミディア西部 せいぶ を手 て に入 い れたとしている。しかし、そもそも実質 じっしつ 的 てき に支配 しはい してそれを賄賂 わいろ で認 みと めさせているならばヌミディアを分割 ぶんかつ する必要 ひつよう もないはずで、実際 じっさい には西部 せいぶ は東部 とうぶ よりも貧 まず しい土地 とち のため本当 ほんとう に買収 ばいしゅう できていたのかは疑 うたが わしい。アドヘルバルが西部 せいぶ に割 わ り当 あ てられた場合 ばあい 、ローマから遠 とお いその地 ち で知 し らないうちに殺害 さつがい される可能 かのう 性 せい も指摘 してき されている。サッルスティウスは、自分 じぶん がアフリカ・ノウァ属 ぞく 州 しゅう (元 もと ヌミディア)総督 そうとく であったことを利用 りよう して、「ローマの全 すべ ては売 う り物 もの である」というテーマを刷 す り込 こ もうとしているのかも知 し れないが、それにしては地理 ちり 的 てき な知識 ちしき に乏 とぼ しいところがある。
コンスタンティーヌの写真 しゃしん 。ここをサッルスティウスは、壁 かべ と壕 ごう で囲 かこ み、塔 とう を建 た てて攻 せ め立 た てたとしているが、この描写 びょうしゃ はかなり信憑 しんぴょう 性 せい が薄 うす い。
平和 へいわ は長続 ながつづ きしなかった。紀元前 きげんぜん 112年 ねん 、ユグルタはアドヘルバルの王国 おうこく へ攻 せ め込 こ んだ。アドヘルバルがイタリック人 じん の商売人 しょうばいにん を味方 みかた につけ抵抗 ていこう していることを知 し った元老 げんろう 院 いん は若手 わかて の使節 しせつ 団 だん を送 おく り込 こ んだが、ユグルタを止 と めることはできず首都 しゅと キルタ(現 げん :コンスタンティーヌ )は包囲 ほうい された。
ローマは更 さら にマルクス・アエミリウス・スカウルス を筆頭 ひっとう とする使節 しせつ 団 だん をヌミディアへと送 おく ったが、サッルスティウスはスカウルスが貪欲 どんよく であることを強調 きょうちょう し、大急 おおいそ ぎで出発 しゅっぱつ した使節 しせつ 団 だん は予想 よそう 通 どお り何 なに も成果 せいか をあげられなかった。事実 じじつ だけを追 お ってみれば、プリンケプス ・セナトゥス(スカウルス、元老 げんろう 院 いん 第一人者 だいいちにんしゃ )まで急 いそ いで送 おく り込 こ んだ元老 げんろう 院 いん は本気 ほんき であったことがわかる。しかし結局 けっきょく 、戦争 せんそう で商売 しょうばい が中断 ちゅうだん されているイタリック人 じん 商人 しょうにん は内乱 ないらん を終 お わらせるためにアドヘルバルをユルグタに差 さ し出 だ し、ユグルタは彼 かれ らをまとめて殺害 さつがい した。
通常 つうじょう の流 なが れであれば、使節 しせつ 団 だん の報告 ほうこく を受 う けた元老 げんろう 院 いん が戦争 せんそう の準備 じゅんび に入 はい り、翌年 よくねん の執政 しっせい 官 かん の担当 たんとう 地域 ちいき の一 ひと つにヌミディアを割 わ り当 あ てたはずだが、サッルスティウスは護 まもる 民 みん 官 かん ガイウス・メンミウスが騒 さわ ぎ立 た てたことによって、買収 ばいしゅう されていた元老 げんろう 院 いん が重 おも い腰 こし を上 あ げたことにしている。
紀元前 きげんぜん 111年 ねん にローマの執政 しっせい 官 かん (コンスル)となったルキウス・カルプルニウス・ベスティア がヌミディアへと侵攻 しんこう したところ、敢 あ え無 な くユグルタは降伏 ごうぶく したが、ユグルタはベスティアを買収 ばいしゅう したようにも考 かんが えられる。ベスティアの下 した には、レガトゥス (副官 ふっかん )としてスカウルスがついていた。リウィウスの流 なが れを汲 く む古代 こだい の記録 きろく でも、ベスティアが賄賂 わいろ を受 う け取 と ったとされているが、彼 かれ らは長 なが く困難 こんなん な戦争 せんそう よりも、現実 げんじつ 的 てき な解決 かいけつ を選 えら んだのかもしれない。
硬貨 こうか に刻 きざ まれたユグルタ
しかしローマを出 で た後 のち 、彼 かれ は何 なん 度 ど か無言 むごん のまま、そこをふり返 がえ り、最後 さいご にこう言 い ったと伝 つた えられる。「売 う り物 もの の都 と よ、買 か い手 て がみつかればたちどころに滅 ほろ びるであろう」。
—サッルスティウス、『ユグルタ戦記 せんき 』35(栗田 くりた 伸子 のぶこ 訳 やく )
護 まもる 民 みん 官 かん メンミウスは、スカウルスらがユグルタから賄賂 わいろ を受 う け取 と ったとして告発 こくはつ し、ユグルタをローマに召喚 しょうかん したが、同 どう 僚護民 みん 官 かん の拒否 きょひ 権 けん で尋問 じんもん を妨害 ぼうがい された。サッルスティウスは、この護 まもる 民 みん 官 かん が買収 ばいしゅう されていたとするが、これは、コンティオ(市民 しみん 集会 しゅうかい )でユグルタが自分 じぶん に都合 つごう のいいことをい出 いだ すことを防 ふせ いだとも考 かんが えられる。ユグルタは王家 おうけ の一員 いちいん でローマに亡命 ぼうめい していたマッシウァを暗殺 あんさつ したが、その犯人 はんにん が捕 つか まると、元老 げんろう 院 いん はローマからの退去 たいきょ を命 めい じ、逃亡 とうぼう したユグルタに対 たい し、ローマは宣戦 せんせん を布告 ふこく した。
ここまでサッルスティウスは盛 さか んにユグルタによる買収 ばいしゅう を描 えが いているが、結局 けっきょく のところ元老 げんろう 院 いん は最初 さいしょ からアドヘルバル側 がわ につき、彼 かれ の危機 きき には使節 しせつ 団 だん を送 おく って対応 たいおう し戦争 せんそう に突入 とつにゅう している。
紀元前 きげんぜん 110年 ねん 、執政 しっせい 官 かん スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス が指揮 しき を執 と ったが、ユグルタのゲリラ 戦 せん に悩 なや まされ、選挙 せんきょ 管理 かんり のためローマ市 し に戻 もど った隙 すき にローマ軍 ぐん は敗退 はいたい した。
この敗北 はいぼく で元老 げんろう 院 いん の弱腰 よわごし に対 たい する民衆 みんしゅう の怒 いか りが爆発 ばくはつ し、ユグルタの贈賄 ぞうわい 罪 ざい を調査 ちょうさ するマミリウス法 ほう が成立 せいりつ 、オピミウス、ベスティア、アルビヌス、ガイウス・ポルキウス・カト 、ガイウス・スルピキウス・ガルバ の5人 にん が有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う け、追放 ついほう された(翌 よく 紀元前 きげんぜん 109年 ねん )。彼 かれ らは反 はん グラックス兄弟 きょうだい 派 は であったと考 かんが えられている。
紀元前 きげんぜん 109年 ねん 、執政 しっせい 官 かん クィントゥス・カエキリウス・メテッルス がアフリカ北部 ほくぶ へと派遣 はけん され、ムトゥル川 がわ の戦 たたか いで勝利 しょうり するなどしたが一進一退 いっしんいったい であった。メテッルスは翌年 よくねん もプロコンスル として引 ひ き続 つづ き指揮 しき しキルタまで迫 せま ったが、ボックス1世 せい (en) の援軍 えんぐん を得 え たユグルタの抵抗 ていこう は続 つづ いた。ローマ軍 ぐん の内部 ないぶ では、メテッルスとその配下 はいか のレガトゥス であったガイウス・マリウス との間 あいだ に亀裂 きれつ が出来 でき ていた。マリウスは、臓卜師 し に「なにかとてつもないことが貴男 たかお の身 み に起 おこ る」と告 つ げられていたとも伝 つた わるが、マミリウス法 ほう で執政 しっせい 官 かん 選挙 せんきょ 候補 こうほ が失脚 しっきゃく したことを知 し り、勝負 しょうぶ に出 で た可能 かのう 性 せい もある。
紀元前 きげんぜん 108年 ねん 、メテッルスとの間 あいだ が修復 しゅうふく 不可能 ふかのう となったマリウスはローマへと戻 もど ると選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ し、翌年 よくねん の執政 しっせい 官 かん に選出 せんしゅつ された。マリウスはプレプス民 みん 会 かい 決議 けつぎ でユグルタ戦争 せんそう のインペリウム (指揮 しき 権 けん )を付与 ふよ された。マリウスはアフリカに渡 わた る前 まえ に、今 いま まで徴兵 ちょうへい されていなかった無産 むさん 階級 かいきゅう からも兵士 へいし に登録 とうろく した。
紀元前 きげんぜん 107年 ねん 、マリウスは執政 しっせい 官 かん となり恐 おそ らくこの年 とし のほとんどを訓練 くんれん に費 つい やした。同僚 どうりょう 執政 しっせい 官 かん ルキウス・カッシウス・ロンギヌス は、ティグリニ族 ぞく 相手 あいて に敗 はい 死 し している。マリウスはクァエストル (財務 ざいむ 官 かん )の一人 ひとり にスッラを指名 しめい し、騎兵 きへい を預 あづ けた。
捕 と らえられたユグルタ
紀元前 きげんぜん 106年 ねん 、帰国 きこく したメテッルスはユグルタに対 たい する勝利 しょうり の凱旋 がいせん 式 しき を挙行 きょこう した。ヌミディア西部 せいぶ に攻 せ め込 こ んだマリウスは苦戦 くせん の末 すえ にキルタ周辺 しゅうへん で冬営 とうえい することを決 き め、スッラにボックスを切 き り崩 くず す工作 こうさく を行 おこな うように指示 しじ した。
紀元前 きげんぜん 105年 ねん 、この年 とし の執政 しっせい 官 かん グナエウス・マッリウス・マクシムス は、大 だい カエピオ と共 とも にキンブリ族 ぞく に大敗 たいはい している。ボックスと交渉 こうしょう していたスッラは、ユグルタを引 ひ き渡 わた させることに成功 せいこう した。これで勝利 しょうり を収 おさ めたマリウスは帰国 きこく するが、翌年 よくねん の執政 しっせい 官 かん にすでに選出 せんしゅつ されていた。
紀元前 きげんぜん 104年 ねん 、マリウスは新年 しんねん に凱旋 がいせん 式 しき を行 おこな ったが、キンブリ・テウトニ戦争 せんそう のインペリウムを付与 ふよ された。スッラは引 ひ き続 つづ きマリウスの下 した でレガトゥスを務 つと めている。ユグルタはローマへ送 おく られてトゥッリアヌム へ抑留 よくりゅう され、凱旋 がいせん 式 しき の際 さい に処刑 しょけい された。
一般 いっぱん 的 てき に、内乱 ないらん の一 いち 世紀 せいき において、ユグルタ戦争 せんそう はマリウスの軍制 ぐんせい 改革 かいかく のきっかけとなった重要 じゅうよう な事件 じけん であり、その後 ご 軍団 ぐんだん の私兵 しへい 化 か によってカエサル らの軍閥 ぐんばつ が生 う まれ、共和 きょうわ 政 せい が終 お わったとされる。サッルスティウスはこの戦争 せんそう を取 と り扱 あつか った理由 りゆう について、それが激戦 げきせん であり、またノビレス (貴族 きぞく )に対 たい する抵抗 ていこう が初 はじ めて行 おこな われたからであるとしており、サッルスティウス自身 じしん はポプラレス (民衆 みんしゅう 派 は )という用語 ようご は使 つか っていないが、その後 ご のオプティマテス (閥族 ばつぞく 派 は )との政治 せいじ 抗 こう 争 そう の一環 いっかん として捉 とら えていたとも考 かんが えられる。しかしこうした二 に 派 は の政争 せいそう という見方 みかた は、19世紀 せいき に考案 こうあん されたもので、1990年代 ねんだい の時点 じてん で一般 いっぱん 的 てき なものではないとする学者 がくしゃ もいる。
サッルスティウスは、ユグルタが買収 ばいしゅう によってローマを翻弄 ほんろう する姿 すがた を描 えが き、「ローマは売 う り物 もの である」というテーマを強調 きょうちょう するため、物語 ものがたり を注意深 ちゅういぶか く構成 こうせい しているが、事実 じじつ を追 お えば、買収 ばいしゅう の効果 こうか はほとんどあがっていない。当時 とうじ の議員 ぎいん が友好国 ゆうこうこく から、特 とく に支持 しじ を得 え ようとする者 もの から贈 おく り物 もの を受 う け取 と るのは、よくあることに過 す ぎず、贈賄 ぞうわい で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた者 もの たちも、政治 せいじ 的 てき な目的 もくてき から訴追 そつい された可能 かのう 性 せい があり、特 とく に元老 げんろう 院 いん が腐敗 ふはい していたとは考 かんが えられないとする学者 がくしゃ もいる。この訴追 そつい の根拠 こんきょ となったマミリウス法 ほう の表現 ひょうげん は曖昧 あいまい で、アフリカにいなくても訴追 そつい される可能 かのう 性 せい があり、最初 さいしょ から反 はん グラックス派 は を狙 ねら ったものとも考 かんが えられ、当時 とうじ 元老 げんろう 院 いん を主導 しゅどう していた反 はん グラックス派 は を追 お い落 お とすため、腐敗 ふはい をねつ造 ぞう した可能 かのう 性 せい すらあると考 かんが える学者 がくしゃ もいる。
アルチュール・ランボー の最初 さいしょ 期 き の作品 さくひん の一 ひと つに、ユグルタの霊 れい がアルジェリアの子供 こども を宗主 そうしゅ 国 こく への抵抗 ていこう 運動 うんどう に導 みちび く『ジュギュルタ』(1869年 ねん )があるが、フランス の植民 しょくみん 地 ち であった北 きた アフリカ諸国 しょこく では、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ と戦 たたか う者 もの としてユグルタを評価 ひょうか する研究 けんきゅう も行 おこな われた。
ガイウス・サッルスティウス・クリスプス 『ユグルタ戦記 せんき 』。
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エイドリアン・ゴールズワーシー 『図説 ずせつ 古代 こだい ローマの戦 たたか い』東洋 とうよう 書林 しょりん 、2003年 ねん 。ISBN 9784887216082 。