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ユグルタ戦争せんそう

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ユグルタ戦争せんそう

当時とうじ勢力せいりょくあかがローマ、みどりがヌミディア。あおせんキンブリぞくうごき(キンブリ・テウトニ戦争せんそう
戦争せんそうユグルタ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ紀元前きげんぜん111ねん - 紀元前きげんぜん105ねん
場所ばしょヌミディア
結果けっか共和きょうわせいローマの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
共和きょうわせいローマ ヌミディア王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ルキウス・カルプルニウス・ベスティア
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス
ガイウス・マリウス
ユグルタ
ボックス1せい

ユグルタ戦争せんそう(ユグルタせんそう、ラテン語らてんご: Bellum Iugurthinum)は、紀元前きげんぜん111ねんから紀元前きげんぜん105ねんまで、共和きょうわせいローマヌミディアおうユグルタあいだおこなわれた戦争せんそうである[1]ガイウス・マリウスと、のローマの独裁どくさいかんルキウス・コルネリウス・スッラ台頭たいとう先駆さきがけとなり、マリウスの軍制ぐんせい改革かいかくのきっかけとなった戦争せんそうとしてもられる。

ヌミディアは、アフリカ北部ほくぶ現在げんざいチュニジアアルジェリア北部ほくぶ位置いちしていた王国おうこくで、だいポエニ戦争せんそうでローマに味方みかたしたマシニッサ以降いこうローマの友好国ゆうこうこくとなり、かれがカルタゴにんだことでだいさんポエニ戦争せんそうきている[2]。マシニッサののちミキプサ王位おういぎ、そのアドヘルバル(en)とヒエンプサル(en)、そしてミキプサの兄弟きょうだいだが早死はやじににしたマスタナバルの庶子しょしユグルタとのあいだきた王位おうい継承けいしょう問題もんだいにローマが介入かいにゅうし、最終さいしゅうてきには勝利しょうりする[2]

ティトゥス・リウィウスらの著作ちょさく断片だんぺんしかつたわっておらず、まとまった記録きろくサッルスティウスによるものしかのこっていない[3]

背景はいけい[編集へんしゅう]

硬貨こうかきざまれたミキプサ

サッルスティウスによれば、ユグルタは2人ふたりより優秀ゆうしゅうだったためミキプサはかれ敬遠けいえんし、スキピオ・アエミリアヌスしょうスキピオ)によるヌマンティア戦争せんそう参加さんかさせて戦死せんしすることをのぞんだが、そこでユグルタはしょうスキピオもみとめる活躍かつやくをしたため、ミキプサは態度たいどかれ養子ようしにとった[4]

紀元前きげんぜん118ねん死去しきょしたミキプサは[5]まえ息子むすこたちとユグルタが協力きょうりょくしてくにまもることをのぞんだが、ユグルタはヒエンプサルを殺害さつがいしアドヘルバルを攻撃こうげきしたため、アドヘルバルはローマへみ、ヌミディアは実質じっしつてきにユグルタのものとなったという[6]

紀元前きげんぜん116ねん、ローマはルキウス・オピミウスらによる使節しせつだんおくり、ユグルタとアドヘルバルはヌミディア分割ぶんかつ協定きょうていむすんだが、ユグルタは賄賂わいろ有利ゆうりはこんだとされる[7]

サッルスティウスは、ヌマンティアでローマではなんでもきんえると学習がくしゅうしたユグルタは、元老げんろういんとオピミウスらを買収ばいしゅうし、んだヌミディア西部せいぶれたとしている。しかし、そもそも実質じっしつてき支配しはいしてそれを賄賂わいろみとめさせているならばヌミディアを分割ぶんかつする必要ひつようもないはずで、実際じっさいには西部せいぶ東部とうぶよりもまずしい土地とちのため本当ほんとう買収ばいしゅうできていたのかはうたがわしい[8]。アドヘルバルが西部せいぶてられた場合ばあい、ローマからとおいそのらないうちに殺害さつがいされる可能かのうせい指摘してきされている[9]。サッルスティウスは、自分じぶんがアフリカ・ノウァぞくしゅうもとヌミディア)総督そうとくであったことを利用りようして、「ローマのすべてはものである」というテーマをもうとしているのかもれないが、それにしては地理ちりてき知識ちしきとぼしいところがある[10]

コンスタンティーヌの写真しゃしん。ここをサッルスティウスは、かべごうかこみ、とうてててたとしているが[11]、この描写びょうしゃはかなり信憑しんぴょうせいうす[12]

平和へいわ長続ながつづきしなかった。紀元前きげんぜん112ねん[13]、ユグルタはアドヘルバルの王国おうこくんだ。アドヘルバルがイタリックじん商売人しょうばいにん味方みかたにつけ抵抗ていこうしていることをった元老げんろういん若手わかて使節しせつだんおくんだが、ユグルタをめることはできず首都しゅとキルタ(げんコンスタンティーヌ)は包囲ほういされた[12]

ローマはさらマルクス・アエミリウス・スカウルス筆頭ひっとうとする使節しせつだんをヌミディアへとおくったが[14]、サッルスティウスはスカウルスが貪欲どんよくであることを強調きょうちょうし、大急おおいそぎで出発しゅっぱつした使節しせつだん予想よそうどおなに成果せいかをあげられなかった[15]事実じじつだけをってみれば、プリンケプス・セナトゥス(スカウルス、元老げんろういん第一人者だいいちにんしゃ)までいそいでおくんだ元老げんろういん本気ほんきであったことがわかる[16]。しかし結局けっきょく戦争せんそう商売しょうばい中断ちゅうだんされているイタリックじん商人しょうにん内乱ないらんわらせるためにアドヘルバルをユルグタにし、ユグルタはかれらをまとめて殺害さつがいした[17]

通常つうじょうながれであれば、使節しせつだん報告ほうこくけた元老げんろういん戦争せんそう準備じゅんびはいり、翌年よくねん執政しっせいかん担当たんとう地域ちいきひとつにヌミディアをてたはずだが、サッルスティウスはまもるみんかんガイウス・メンミウスがさわてたことによって、買収ばいしゅうされていた元老げんろういんおもこしげたことにしている[18]

経過けいか[編集へんしゅう]

降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん111ねんにローマの執政しっせいかん(コンスル)となったルキウス・カルプルニウス・ベスティアがヌミディアへと侵攻しんこうしたところ、くユグルタは降伏ごうぶくしたが、ユグルタはベスティアを買収ばいしゅうしたようにもかんがえられる[19]。ベスティアのしたには、レガトゥス副官ふっかん)としてスカウルスがついていた[20]。リウィウスのながれを古代こだい記録きろくでも、ベスティアが賄賂わいろったとされているが、かれらはなが困難こんなん戦争せんそうよりも、現実げんじつてき解決かいけつえらんだのかもしれない[21]

逃亡とうぼう[編集へんしゅう]

硬貨こうかきざまれたユグルタ
しかしローマをのちかれなん無言むごんのまま、そこをふりがえり、最後さいごにこうったとつたえられる。「ものよ、がみつかればたちどころにほろびるであろう」。
サッルスティウス、『ユグルタ戦記せんき』35(栗田くりた伸子のぶこやく[22]

まもるみんかんメンミウスは、スカウルスらがユグルタから賄賂わいろったとして告発こくはつし、ユグルタをローマに召喚しょうかんしたが、どう僚護みんかん拒否きょひけん尋問じんもん妨害ぼうがいされた[20]。サッルスティウスは、このまもるみんかん買収ばいしゅうされていたとするが、これは、コンティオ(市民しみん集会しゅうかい)でユグルタが自分じぶん都合つごうのいいことをいいだすことをふせいだともかんがえられる[23]。ユグルタは王家おうけ一員いちいんでローマに亡命ぼうめいしていたマッシウァを暗殺あんさつしたが、その犯人はんにんつかまると、元老げんろういんはローマからの退去たいきょめい[24]逃亡とうぼうしたユグルタにたいし、ローマは宣戦せんせん布告ふこくした[25]

ここまでサッルスティウスはさかんにユグルタによる買収ばいしゅうえがいているが、結局けっきょくのところ元老げんろういん最初さいしょからアドヘルバルがわにつき、かれ危機ききには使節しせつだんおくって対応たいおう戦争せんそう突入とつにゅうしている[26]

再戦さいせん[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん110ねん執政しっせいかんスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス指揮しきったが、ユグルタのゲリラせんなやまされ、選挙せんきょ管理かんりのためローマもどったすきにローマぐん敗退はいたいした[27]

この敗北はいぼく元老げんろういん弱腰よわごしたいする民衆みんしゅういかりが爆発ばくはつし、ユグルタの贈賄ぞうわいざい調査ちょうさするマミリウスほう成立せいりつ、オピミウス、ベスティア、アルビヌス、ガイウス・ポルキウス・カトガイウス・スルピキウス・ガルバの5にん有罪ゆうざい判決はんけつけ、追放ついほうされた[25]よく紀元前きげんぜん109ねん[28][29])。かれらははんグラックス兄弟きょうだいであったとかんがえられている[30]

メテッルス[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん109ねん執政しっせいかんクィントゥス・カエキリウス・メテッルスがアフリカ北部ほくぶへと派遣はけんされ、ムトゥルがわたたかいで勝利しょうりするなどしたが一進一退いっしんいったいであった[31]。メテッルスは翌年よくねんプロコンスルとしてつづ指揮しきしキルタまでせまったが、ボックス1せい(en)援軍えんぐんたユグルタの抵抗ていこうつづいた[32]。ローマぐん内部ないぶでは、メテッルスとその配下はいかレガトゥスであったガイウス・マリウスとのあいだ亀裂きれつ出来できていた[32]。マリウスは、臓卜に「なにかとてつもないことが貴男たかおおこる」とげられていたともつたわるが[33]、マミリウスほう執政しっせいかん選挙せんきょ候補こうほ失脚しっきゃくしたことをり、勝負しょうぶ可能かのうせいもある[34]

紀元前きげんぜん108ねん、メテッルスとのあいだ修復しゅうふく不可能ふかのうとなったマリウスはローマへともどると選挙せんきょ立候補りっこうほし、翌年よくねん執政しっせいかん選出せんしゅつされた[32]。マリウスはプレプスみんかい決議けつぎでユグルタ戦争せんそうインペリウム指揮しきけん)を付与ふよされた[35]。マリウスはアフリカにわたまえに、いままで徴兵ちょうへいされていなかった無産むさん階級かいきゅうからも兵士へいし登録とうろくした[36]

マリウス[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん107ねん、マリウスは執政しっせいかんとなりおそらくこのとしのほとんどを訓練くんれんついやした。同僚どうりょう執政しっせいかんルキウス・カッシウス・ロンギヌスは、ティグリニぞく相手あいてはいしている[35]。マリウスはクァエストル財務ざいむかん)の一人ひとりにスッラを指名しめいし、騎兵きへいあづけた[37]

らえられたユグルタ

紀元前きげんぜん106ねん帰国きこくしたメテッルスはユグルタにたいする勝利しょうり凱旋がいせんしき挙行きょこうした。ヌミディア西部せいぶんだマリウスは苦戦くせんすえにキルタ周辺しゅうへん冬営とうえいすることをめ、スッラにボックスをくず工作こうさくおこなうように指示しじした[38]

紀元前きげんぜん105ねん、このとし執政しっせいかんグナエウス・マッリウス・マクシムスは、だいカエピオともにキンブリぞく大敗たいはいしている[39]。ボックスと交渉こうしょうしていたスッラは、ユグルタをわたさせることに成功せいこうした。これで勝利しょうりおさめたマリウスは帰国きこくするが、翌年よくねん執政しっせいかんにすでに選出せんしゅつされていた[40]

戦後せんご[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん104ねん、マリウスは新年しんねん凱旋がいせんしきおこなったが、キンブリ・テウトニ戦争せんそうのインペリウムを付与ふよされた[41]。スッラはつづきマリウスのしたでレガトゥスをつとめている[42]。ユグルタはローマへおくられてトゥッリアヌム抑留よくりゅうされ、凱旋がいせんしきさい処刑しょけいされた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

一般いっぱんてきに、内乱ないらんいち世紀せいきにおいて、ユグルタ戦争せんそうマリウスの軍制ぐんせい改革かいかくのきっかけとなった重要じゅうよう事件じけんであり、その軍団ぐんだん私兵しへいによってカエサルらの軍閥ぐんばつまれ、共和きょうわせいわったとされる[43]。サッルスティウスはこの戦争せんそうあつかった理由りゆうについて、それが激戦げきせんであり、またノビレス貴族きぞく)にたいする抵抗ていこうはじめておこなわれたからであるとしており、サッルスティウス自身じしんポプラレス民衆みんしゅう)という用語ようご使つかっていないが、そのオプティマテス閥族ばつぞく)との政治せいじこうそう一環いっかんとしてとらえていたともかんがえられる[44]。しかしこうした政争せいそうという見方みかたは、19世紀せいき考案こうあんされたもので、1990年代ねんだい時点じてん一般いっぱんてきなものではないとする学者がくしゃもいる[45]

サッルスティウスは、ユグルタが買収ばいしゅうによってローマを翻弄ほんろうする姿すがたえがき、「ローマはものである」というテーマを強調きょうちょうするため、物語ものがたり注意深ちゅういぶか構成こうせいしているが、事実じじつえば、買収ばいしゅう効果こうかはほとんどあがっていない[46]当時とうじ議員ぎいん友好国ゆうこうこくから、とく支持しじようとするものからおくものるのは、よくあることにぎず、贈賄ぞうわい有罪ゆうざい判決はんけつけたものたちも、政治せいじてき目的もくてきから訴追そついされた可能かのうせいがあり、とく元老げんろういん腐敗ふはいしていたとはかんがえられないとする学者がくしゃもいる[47]。この訴追そつい根拠こんきょとなったマミリウスほう表現ひょうげん曖昧あいまいで、アフリカにいなくても訴追そついされる可能かのうせいがあり、最初さいしょからはんグラックスねらったものともかんがえられ[48]当時とうじ元老げんろういん主導しゅどうしていたはんグラックスとすため、腐敗ふはいをねつぞうした可能かのうせいすらあるとかんがえる学者がくしゃもいる[49]

アルチュール・ランボー最初さいしょ作品さくひんひとつに、ユグルタのれいがアルジェリアの子供こども宗主そうしゅこくへの抵抗ていこう運動うんどうみちびく『ジュギュルタ』(1869ねん)があるが[50]フランス植民しょくみんであったきたアフリカ諸国しょこくでは、植民しょくみん主義しゅぎたたかものとしてユグルタを評価ひょうかする研究けんきゅうおこなわれた[51]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 栗田くりた, p. 397.
  2. ^ a b 栗田くりた, p. 398.
  3. ^ Parker, p. 408.
  4. ^ Parker, p. 409.
  5. ^ 栗田くりた, p. 281.
  6. ^ Parker, p. 410.
  7. ^ MRR1, pp. 530–531.
  8. ^ Parker, pp. 410–412.
  9. ^ Parker, p. 411.
  10. ^ Parker, p. 412.
  11. ^ サッルスティウス, 23.1.
  12. ^ a b Parker, p. 413.
  13. ^ 栗田くりた, p. 289.
  14. ^ MRR1, p. 539.
  15. ^ Parker, p. 414.
  16. ^ Parker, pp. 414–415.
  17. ^ Parker, p. 415.
  18. ^ Parker, p. 416.
  19. ^ MRR1, p. 540.
  20. ^ a b MRR1, p. 541.
  21. ^ Parker, pp. 417–418.
  22. ^ 栗田くりた, p. 67.
  23. ^ Parker, p. 419.
  24. ^ Parker, pp. 419–420.
  25. ^ a b Farney, p. 25.
  26. ^ Parker, pp. 421–422.
  27. ^ MRR1, p. 543.
  28. ^ Farney, p. 33.
  29. ^ MRR1, p. 546.
  30. ^ Farney, p. 26.
  31. ^ MRR1, p. 545.
  32. ^ a b c MRR1, p. 549.
  33. ^ Farney, p. 34.
  34. ^ Farney, p. 35.
  35. ^ a b MRR1, p. 550.
  36. ^ ゴールズワーシー, p. 113.
  37. ^ MRR1, p. 551.
  38. ^ MRR1, p. 554.
  39. ^ MRR1, p. 555.
  40. ^ MRR1, p. 556.
  41. ^ MRR1, p. 558.
  42. ^ MRR1, p. 561.
  43. ^ 栗田くりた, p. 401.
  44. ^ 栗田くりた, pp. 401–402.
  45. ^ Wiedemann, p. 49.
  46. ^ Parker, pp. 420–421.
  47. ^ Parker, p. 421.
  48. ^ Farney, p. 31.
  49. ^ Farney, pp. 36–37.
  50. ^ 栗田くりた, p. 417.
  51. ^ 栗田くりた, p. 404.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ガイウス・サッルスティウス・クリスプス『ユグルタ戦記せんき』。 
    • 栗田くりた伸子のぶこ やく『ユグルタ戦争せんそう カティリーナの陰謀いんぼう岩波いわなみ文庫ぶんこ、2019ねんISBN 9784003349915 
  • Broughton, T. R. S. (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 
  • Farney, Gary D. (1997). “THE FALL OF THE PRIEST C. SULPICIUS GALBA AND THE FIRST CONSULSHIP OF MARIUS”. Memoirs of the American Academy in Rome (University of Michigan Press) 42: 23-37. JSTOR 4238746. 
  • Parker, Victor L. (2004). “Romae omnia venalia esse. Sallust's Development of a Thesis and the Prehistory of the Jugurthine War”. Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte (Franz Steiner Verlag) 53 (4): 408-423. JSTOR 4436741. 
  • Wiedemann, Thomas (1993). “Sallust's 'Jugurtha': Concord, Discord, and the Digressions”. Greece & Rome (Cambridge University Press) 40 (1): 48-57. JSTOR 643217. 
  • エイドリアン・ゴールズワーシー図説ずせつ 古代こだいローマのたたかい』東洋とうよう書林しょりん、2003ねんISBN 9784887216082