臓卜

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臓卜が臓卜の習得しゅうとくのために使用しようしていた模型もけいピアチェンツァの肝臓かんぞう

臓卜[1](ぞうぼくし。肝臓かんぞううらなちょうぼくそうなどとも。ラテン語らてんご: haruspex複数ふくすうがた:haruspices)とは、エトルリアから共和きょうわせいローマへとつたわった、動物どうぶつ内臓ないぞうとく肝臓かんぞう使つかって、かみ々のあらわしたなんらかのきざしをろうとするうらな一種いっしゅ臓卜おこな専門せんもんのことである。かれらは元々もともと『エトルスキ教典きょうてん』(ラテン語らてんご: Etrusca disciplina)とばれるエトルリア土着どちゃく宗教しゅうきょう教典きょうてんなが時間じかんをかけ習得しゅうとくした貴族きぞく階級かいきゅうで、教典きょうてんしたがい臓卜だけでなく、天候てんこうなどの自然しぜん現象げんしょうから様々さまざま予兆よちょうった[2]かれらは「かみ々の平和へいわ」とその結果けっかしょうじる地上ちじょう平和へいわまもるべく、厳格げんかく祭祀さいしおこなったという[3]

概要がいよう[編集へんしゅう]

『エトルスキ教典きょうてん』は、『臓卜のしょ』(libri haruspicini)、『雷電らいでんしょ』(libri fulgurales)、『儀式ぎしきしょ』(libri rituales)のさんさつからなり、『臓卜のしょ』はにえ内臓ないぞうからかみ々による予兆よちょうろうとするうらないをあつかうが、『雷電らいでんしょ』は、エトルリアの主神しゅしんティニアとその8はしらかみ々が、かみなりによってしめ予兆よちょうる「かみなりぼく」にかんするほんであり、最後さいごの『儀式ぎしきしょ』においても、彗星すいせい出現しゅつげん奇形きけい誕生たんじょうなどといった自然しぜん現象げんしょうにどういう意味いみがあるのかをしめしていた。そのため、臓卜とはっても、内臓ないぞうるだけでなく、様々さまざま現象げんしょうひろあつか[4]ラテン語らてんご表記ひょうきのharuspexのうち、spexは「ひと」といった意味いみであるが、haruはラテン語らてんごにはなく、それがなにすのかは諸説しょせつある[3]

古代こだいエトルリアにおいて、臓卜をおこなうのは最高さいこう貴族きぞく階級かいきゅうであり、かれらは教典きょうてん秘蔵ひぞうして代々だいだい臓卜をつたえていたとかんがえられている。臓卜服装ふくそうであった、にえかわからつくられた可能かのうせいもあるたけみじかアウターウェアまとい、さきとがったベレーぼうこうむった人々ひとびとが、だい貴族きぞくはかえがかれており、このベレーぼうは臓卜象徴しょうちょうとしてかんうえにもられたという[5]

かれらは内臓ないぞういろかたちかみ々の意志いし反映はんえいするこまかい部位ぶいについて学習がくしゅうし、さらかみ々におうじた儀式ぎしき祭祀さいし形式けいしきおぼえ、かみなり種類しゅるい自然しぜん現象げんしょうからどのかみによる予兆よちょうなのかを判断はんだんし、その対応たいおうさく提示ていじする必要ひつようがあり、臓卜の習得しゅうとくにはなが年月としつき必要ひつようであることが推測すいそくされ、ときには国家こっか方針ほうしん決定けっていするためにその責務せきむおおきかった。そのような人材じんざいをそうおお養成ようせいすることは困難こんなんであり、またその権威けんい絶大ぜつだいであったために、政務せいむかかわることはなかったとかんがえられている[6]

ローマ時代じだい[編集へんしゅう]

古代こだいローマにおいてもとりぼくおこなアウグルがその創設そうせつから存在そんざいしていたが、かれらのうらないは、あるおこないについてかみ々がそれに賛成さんせいするか、反対はんたいするかをることは出来できても、幅広はばひろ現象げんしょう解釈かいしゃく出来できなかった。そのため、共和きょうわせいローマ時代じだいにエトルリアを支配しはいおさめるようになると、元老げんろういんはすぐにエトルリアじんの臓卜重用じゅうよう[7]、『エトルスキ教典きょうてん』をラテン語らてんご翻訳ほんやくして60にんからなる臓卜師団しだん編成へんせいしたという[3]

この時期じきについては紀元前きげんぜん295ねんセンティヌムのたたか以降いこうかんがえられる。エトルリアが完全かんぜんにローマの同盟どうめいとしてまれると、臓卜仕事しごと一時いちじ縮小しゅくしょうしたが、ローマにれられ、ローマがポエニ戦争せんそうつうじてその領域りょういき拡大かくだいすると、それにつれて臓卜需要じゅよう拡大かくだいする。ピアチェンツァの肝臓かんぞう作成さくせい時期じき紀元前きげんぜん2世紀せいきかんがえられており、臓卜養成ようせい急務きゅうむとなったためにこのような模型もけいもちいられたのではないかとかんがえる学者がくしゃもいる[8]

臓卜がれられると、ローマ以外いがい都市としにおいても、独自どくじに臓卜やとうところがあらわれ、共和きょうわせい後期こうきには個人こじんてきに臓卜やと有力ゆうりょくしゃあらわれた。それは帝政ていせいローマ時代じだいになってもわらず、ローマ皇帝こうていかかえの臓卜もおり、3世紀せいきにはローマ軍団ぐんだんにも臓卜同行どうこうした[9]紀元前きげんぜん1世紀せいき初頭しょとう同盟どうめい戦争せんそう結果けっか、エトルリアじんにもローマ民権みんけん付与ふよされると、徐々じょじょエトルリア使用しようされなくなり、それにつれて、臓卜はエトルリアのうらなという地位ちいから、ローマのうらなへとわり、また技術ぎじゅつさえあればエトルリアじんである必要ひつようもなくなった[10]発見はっけんされた石碑せきひ記述きじゅつから、帝政ていせい初期しょきにおいても、エトルリア出身しゅっしんの臓卜イタリア各地かくちムニキピウムうつみ、そこでその都市とし所属しょぞくする臓卜として活動かつどうしていたことが推測すいそくできるという[11]

衰退すいたい[編集へんしゅう]

帝政ていせいはいってキリスト教きりすときょう台頭たいとうすると、キリストきょうおなじく教典きょうてんゆうするエトルリアの宗教しゅうきょうがその対抗たいこうとして注目ちゅうもくされ[12]ラクタンティウスによれば、ディオクレティアヌスおこなったキリスト教きりすときょうだい迫害はくがいは、臓卜すすめがあったからだという[13]。しかし、テオドシウス1せいによってすすめられたキリスト教きりすときょう国教こっきょうによって、うらないをおこなう臓卜禁止きんしされた[14]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 平田ひらた, p.5.
  2. ^ ブリケル, pp.102-103.
  3. ^ a b c 平田ひらた, p.9.
  4. ^ ブリケル, p.102.
  5. ^ ブリケル, p.103.
  6. ^ 平田ひらた, pp.16-17.
  7. ^ ブリケル, pp.103-104.
  8. ^ 平田ひらた, p.14.
  9. ^ ブリケル, pp.105-106.
  10. ^ 平田ひらた, p.15.
  11. ^ 平田ひらた, p.11.
  12. ^ ブリケル, p.106.
  13. ^ ブリケル, p.107.
  14. ^ ブリケル, p.108.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]