ヨーカイ・モール

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ヨーカイ・モール

Jókai Mór
生誕せいたん 1825ねん2がつ18にち
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこくハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくコマーロム(コマールノ)
死没しぼつ 1904ねん5月5にち (79さいぼつ)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこくハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくブダペスト
墓地ぼち ブダペスト
民族みんぞく マジャルじん
市民しみんけん ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこく
職業しょくぎょう 革命かくめい作家さっか政治せいじ弁護士べんごし
政党せいとう ハンガリー自由党じゆうとう
運動うんどう動向どうこう ハンガリー革命かくめい (1848ねん)
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ヨーカイ・モール(Jókai Mór、1825ねん2がつ18にち - 1904ねん5月5にち)は、ハンガリー作家さっか革命かくめい政治せいじ。ハンガリー自由党じゆうとう所属しょぞく日本語にほんごではモオラス・ヨーカイ、モーラス・ヨーカイとも表記ひょうきされる[注釈ちゅうしゃく 1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ヨーカイ・モール

ヨーカイはオーストリア帝国ていこくハンガリー王国おうこくコマーロム (スロバキアコマールノ)で誕生たんじょうした[1]ちちのヨージェフは貴族きぞく出身しゅっしん弁護士べんごしである。ははのマーリアも貴族きぞく出身しゅっしんであった。ヨーカイはカルヴァンポジョニ(スロバキア、ブラチスラヴァ)でそだち、元来がんらい病弱びょうじゃくゆえ自室じしつ教育きょういくけたあと、パーパにあるカルヴァンのコレギウムに進学しんがくして、在学ざいがくちゅうにヨーカイはペテーフィ・シャーンドル意気投合いきとうごうして生涯しょうがいにわたる親交しんこうむすんだ[2]。ヨーカイはちちきあと、法律ほうりつこころざし、ハンガリー中央ちゅうおうにあるケチケメートで法学ほうがくおさめ、やがて弁護士べんごし事務所じむしょつとめる。ヨーカイは文学ぶんがく才能さいのうしめし、1846ねん処女しょじょさく『Hétköznapok』を発表はっぴょうした。1848ねんしょ国民こくみんはるフランスの2がつ革命かくめい同年どうねん3がつ3にちにポジョニでハンガリーの革命かくめいコシュート・ラヨシュ演説えんぜつおこなった。ヨーカイは「じゅうじょう要求ようきゅう」の起草きそうにペテーフィとともにふかかかわり、同月どうげつ15にちにペシュトで市民しみんがデモ行進こうしん開始かいし、それから同日どうじつ午後ごご8ごろに「じゅうじょう要求ようきゅう」をヨーカイとペテーフィらによって口頭こうとう発表はっぴょうされた。ヨーカイはペテーフィとともに独立どくりつ革命かくめい運動うんどう指導しどうてき地位ちいくが、穏健おんけんだったヨーカイは急進きゅうしん否定ひていてきだったことからとき仲違なかたがいすることもあった[3]。このころ女優じょゆうラボールファルヴィ・ローザと出会であおおくの反対はんたいしきって同年どうねん8がつ婚約こんやくした。1848ねんれに革命かくめい指導しどうしゃコシュートによってウィーンに派遣はけんされたあとヨーカイはペシュトの日刊にっかん『Pesti Hírlap』の編集へんしゅうしゃになる。1849ねん4がつ14にちにコシュート は公式こうしきにハンガリー国家こっか独立どくりつたからかに宣言せんげん、ヨーカイはこれを熱狂ねっきょうてき支持しじした。

しかし、1849ねん7がつ31にちにポーランド出身しゅっしん独立どくりつ革命かくめいぐん将軍しょうぐんユゼフ・ベムひきいるハンガリーぐんとポーランド義勇ぎゆうへいはトランシルヴァニア地方ちほうにあるシギショアラでヨーロッパの革命かくめい鎮圧ちんあつするため派兵はへいされたロシアぐんまえ決定的けっていてき大敗たいはいきっし、主力しゅりょく崩壊ほうかい兵士へいしとして出征しゅっせいした親友しんゆうのペテーフィ・シャーンドルは戦地せんち消息しょうそく途絶とだえた。将軍しょうぐんベムは戦場せんじょうんだふりすることでロシアぐんあざむかろうじて命拾いのちびろいした。

翌月よくげつの8がつ13にち最終さいしゅうてきにハンガリーぐん現在げんざいのルーマニアにあたるヴィラーゴスでロシアぐん全面ぜんめん降伏ごうぶくして武器ぶきわたし、身柄みがら投降とうこう、ハンガリー革命かくめいまくじた。革命かくめい関係かんけいしゃおおくは投獄とうごくされ、幹部かんぶおおくは処刑しょけいされる。すでにコシュートとベムは外国がいこく亡命ぼうめいしていたあとだった。このころ、ヨーカイは投獄とうごくおそ逃亡とうぼう生活せいかつはいり、ハンガリー各地かくちまち転々てんてんとした。さらにハンガリー北部ほくぶにある山岳さんがく地帯ちたい山奥やまおくながきにわたってかくこもった。ヨーカイはとき自殺じさつ未遂みすいもしたが、のちにオーストリア帝国ていこく政府せいふより恩赦おんしゃ発布はっぷされる。ヨーカイは1852ねん著作ちょさく『Kárpáthy Zoltán』、『Török világ Magyarországon』、『A kalózkirály 』をそれぞれ発表はっぴょうした。それ以後いごも『A kőszívű ember fiai』、『Az arany ember』、『A tengerszemű hölgy』などが発表はっぴょうされて比較的ひかくてきられている。ヨーカイは多作たさくであり、作品さくひんはユーモアあふれ、異国いこく情緒じょうちょ作風さくふう中心ちゅうしんであった。フランス文学ぶんがくとくヴィクトル・ユゴー感化かんかされた。ヨーカイは政治せいじとして活動かつどうはじめて、1861ねんにヨーカイはハンガリーの国民こくみん議会ぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされ、進歩しんぽてき政治せいじとして活躍かつやくした。1867ねんのアウスグライヒでオーストリア=ハンガリー帝国ていこく誕生たんじょうしてハンガリー王国おうこく内閣ないかく議会ぎかいにはつよ権限けんげんあたえられた。

ヨーカイは複数ふくすう政党せいとうて、1875ねん合同ごうどうして誕生たんじょうしたハンガリー自由党じゆうとう結党けっとう大会たいかい参加さんか死去しきょする1904ねんまで所属しょぞくした。ハンガリー自由党じゆうとうは1875ねんおこなわれたそう選挙せんきょ大勝たいしょうし、議会ぎかい多数たすうになり、与党よとうだいいちとうとして党首とうしゅティサ・カールマーンはハンガリー王国おうこく首相しゅしょう就任しゅうにんした。ヨーカイはティサないかくささつづけ、ハンガリー王国おうこく数々かずかず改革かいかくかかわった。また、当時とうじ影響えいきょうりょくがあった政府せいふけい機関きかん『Hon』の編集へんしゅうたずさわって刊行かんこうした。ヨーカイはハンガリー科学かがくアカデミーの会員かいいん選出せんしゅつされる。1886ねんつまローザが死去しきょ。それからすうねん、ヨーカイは女優じょゆうのナギー・ベーラと出会であい1899ねん婚約こんやくした。1904ねんにヨーカイはブダペストで生涯しょうがいじ、同地どうちにあるケレペシ墓地ぼち埋葬まいそうされた。

著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
  • Tengerszemü hölgy、1904 [4]
全集ぜんしゅう
  • Szinművek, 1895. [5] - Milton, Hős Palffy, Szép Mikhál, A bolondok grófja, Világszép leányok, A gazdag szegények
  • Az Elet Komédiásai, 1896. [6]
  • A Jovo Szazad Regénye,1896. [7]
  • Szélcsend Alatt / Az Életből Ellesve, 1985. [8]
短編たんぺん
  • [9]
  • 『A béka』[9]
    • 徳永とくながやすしもとわけかえる』〈「あおひげこうしろ: ハンガリー短編たんぺんしゅう」〉。恒文社こうぶんしゃ、1998ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ ハンガリーの氏名しめい伝統でんとうてき習慣しゅうかんとしてせいめいじゅんとなる。
出典しゅってん
  1. ^ mek.iif.hu
  2. ^ magyarok.sulinet.hu
  3. ^ enciklopedia.fazekas.hu
  4. ^ (『うみのような婦人ふじん』)Tengerszemü hölgy- Internet Archive
  5. ^ 脚本きゃくほんしゅうSzinművek - Internet Archive
  6. ^ 日常にちじょうコメディ)Összes müvei - Internet Archive
  7. ^ らい世紀せいき小説しょうせつA Jovo Szazad Regénye - Internet Archive
  8. ^ Szélcsend Alatt / Az Életből Ellesve - Internet Archive
  9. ^ a b 原書げんしょ確認かくにん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]