ラツワヴィツェのたたか

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ラツワヴィツェのたたか
コシチュシュコの蜂起ほうきなか
ラツワヴィツェの戦い
"ラツワヴィツェのたたかい", ヤン・マテイコ 465 x 897 cm. クラクフ国立こくりつ美術館びじゅつかんぞう
とき1794ねん4がつ4にち
場所ばしょラツワヴィツェ, マウォポルスカ
結果けっか ポーランドの勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
ポーランド・リトアニア共和きょうわこく ロシアの旗 ロシア帝国ていこく
指揮しきかん
タデウシュ・コシチュシュコ ロシアの旗 フョードル・デニソフ
ロシアの旗 アレクサンドル・トルマソフ
戦力せんりょく
5,000にん[1]:185
大砲たいほう11もん
3,000にん[1]:185
大砲たいほう12もん
被害ひがいしゃすう
200-250にん[1]:186 800にん[1]:186
ラツワヴィツェのたたかい(ミハウ・スタホヴィチによる19世紀せいき
"ラツワヴィツェのたたかい", ヴォイチェフ・ルカ 132 x 77 mm, ティヒのヘンリク・ヤン・ドミニアク・ミニチュア専門せんもん美術館びじゅつかん.

ラツワヴィツェのたたか (ポーランド: Bitwa pod Racławicami) は、1794ねん4がつ4にちポーランドマウォポルスカラツワヴィツェむらきた、コシチュシュコの蜂起ほうきなか戦闘せんとう[1]:185

ロシア帝国ていこくたいして蜂起ほうきしたタデウシュ・コシチュシュコひきいるポーランド・リトアニア共和きょうわこくぐんロシアぐんはじめて衝突しょうとつし、勝利しょうりした戦闘せんとうであった。

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

ロシアぐんは、アレクサンドル・トルマソフひきいる3000にんがコシチュシュコぐん足止あしどめし、これをみなみからフョードル・デニソフひきいる2500にんたたくという計画けいかくてた[1]:185。トルマソフぐん遭遇そうぐうしたコシチュシュコは、まずちかくのおかさえ、左翼さよくアントニ・マダリンスキを、右翼うよくユゼフ・ザヨンチェク配置はいちした[1]:185。トルマソフはなが時間じかんたぬうちに、午後ごご3おかへの攻撃こうげきはじめ、大砲たいほう設置せっちした[1]:185たいするコシチュシュコは、「ともよ、あの大砲たいほうれ!かみのため、そして祖国そこくのために、信念しんねんとともにすすめ!」とさけび、農民のうみんへいたちを鼓舞こぶした[1]:185

ポーランド農民のうみんへい一団いちだん最初さいしょ突撃とつげきてきの12ポンドほうを3もんうばい、2度目どめ攻撃こうげきでさらに8もん大砲たいほううばった[1]:186。コシチュシュコは左翼さよくうつり、コスィニェシ大鎌おおがまった農兵のうへい)をれてみずか銃剣じゅうけん突撃とつげきをしかけ、ロシアぐん撃退げきたいした[1]:186

ぐんよう[編集へんしゅう]

ラツワヴィツェのたたかいに参加さんかしたポーランドぐんぐんようつぎのとおりである。

下位かい部隊ぶたい 上位じょうい部隊ぶたい へいすう
2大隊だいたい チャプスキ歩兵ほへい連隊れんたい 400にん
2大隊だいたい ヴォズィツキ歩兵ほへい連隊れんたい 400にん
2大隊だいたい オジャロフスキ歩兵ほへい連隊れんたい 400にん
1個いっこ大隊だいたい ラチンスキ歩兵ほへい連隊れんたい 200にん
10騎兵きへい大隊だいたい アントニ・マダリンスキ騎兵隊きへいたい 400
10騎兵きへい大隊だいたい マグネト騎兵隊きへいたい 400
4騎兵きへい大隊だいたい ベルナツキ騎兵隊きへいたい 160
2補助ほじょ騎兵きへい大隊だいたい ヴュルテンベルク公国こうこく 80
  総勢そうぜい2440にん

これにくわえ、マウォポルスカでせんがまパイク武装ぶそうした志願しがん農兵のうへい、いわゆるコスィニェシが2000にんほどコシチュシュコぐん合流ごうりゅうしていた。またこの陣営じんえいには11もん大砲たいほうがあった。

結果けっか[編集へんしゅう]

戦闘せんとうは、てき分断ぶんだんしているうちに比較的ひかくてき少数しょうすうてきやぶったコシチュシュコの戦術せんじゅつてき勝利しょうりわった。しかしかれぐん勝利しょうり十分じゅうぶんかすにはあまりにも小規模しょうきぼであり、げおおせたデニソフらロシアぐんをマウォポルスカからすことができなかった。

その[編集へんしゅう]

コシチュシュコはクラクフへもどり、ボストフの野営やえいした[1]:185

だい303騎兵きへい大隊だいたいのエンブレム

戦後せんご、コシチュシュコは大砲たいほううばった農民のうみんへいたちの武勇ぶゆうとなえ、みずからマウォポルスカの伝統でんとうてき農民のうみんふくであるスクマナ行進こうしんした[1]:186。また最初さいしょ大砲たいほううばった農兵のうへいヴォイチェフ・バルトシュ・グウォヴァツキ表彰ひょうしょうした。かれほんこう冒頭ぼうとうのヤン・マテイコによるにもえがかれている[2]かれいまにもたまはなとうとしていた大砲たいほう導火どうかせん自分じぶん帽子ぼうしをかぶせ、したのである[1]:185褒賞ほうしょうとして、グウォヴァツキは自由じゆうひろ土地とち、そして旗手きしゅやくあたえられた[1]:186

コシチュシュコが初戦しょせん勝利しょうりかざったというほうにより、蜂起ほうき地域ちいきにもし、まもなく首都しゅとワルシャワでも蜂起ほうききた。またこのたたかいにおおくの農民のうみん参加さんかし、活躍かつやくしたことは、ポーランド農民のうみん農奴のうどから脱却だっきゃくして市民しみん同等どうとう権利けんりるための政治せいじ運動うんどう出発しゅっぱつてんとなった。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

コシチュシュコぐんへいもちいたあか帽子ぼうしせんがまは、だい世界せかい大戦たいせんなか亡命ぼうめいポーランドじんによって結成けっせいされただい303コシチュシコ戦闘せんとう中隊ちゅうたいのエンブレムとなった。この部隊ぶたいバトル・オブ・ブリテン活躍かつやくしたことでられている。

ワルシャワ無名むめい戦士せんしはかには、ラツワヴィツェのたたかいを記念きねんした"RACŁAWICE 4 IV 1794"という碑文ひぶんられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Storozynski, A., 2009, The Peasant Prince, New York: St. Martin's Press,
  2. ^ Smaczniak (2000ねん). “The Military Genius of Tadeusz Kosciuszko”. Info Poland. Polish Academic Information Center, University at Buffalo. 2012ねん7がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん8がつ2にち閲覧えつらん