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万寿まんす地区ちく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

万寿まんす地区ちく(ますちく)は、岡山おかやまけん倉敷くらしき倉敷くらしき地域ちいきにある地区ちくである。おおむねかつての都窪つくぼぐん万寿まんすむら(ますそん)に相当そうとうする。現在げんざい大半たいはん倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶき小学校しょうがっこうおよび万寿まんすひがし小学校しょうがっこうとなる。

概要がいよう

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大内おおうち(おおち)、川入かわいり(かわいり)、寿ことぶきまち(ことぶきちょう)、北浜きたはままち(きたはまちょう)、日ノ出ひのでまち(ひのでちょう)、浜町はまちょう(はままち)、浜ノ茶屋はまのちゃや(はまのちゃや)、大島おおしま(おおじま)、平田ひらた(ひらた)、福島ふくしま(ふくしま)、昭和しょうわ(しょうわ)いち丁目ちょうめからなる。昭和しょうわ丁目ちょうめ美和みわさいわいまち八王子はちおうじまち日吉ひよしまち石見いわみまちきゅう万寿まんすむらいきであるが、現在げんざいでは昭和しょうわ丁目ちょうめ美和みわさいわいまち倉敷くらしき八王子はちおうじまち中洲なかす日吉ひよしまち石見いわみまち老松おいまつとなる。

中心ちゅうしん市街地しがいち北部ほくぶ位置いちし、中心ちゅうしん市街地しがいち北部ほくぶ郊外こうがいあいだにあたる。立地りっちさから、現在げんざいでは商業しょうぎょう企業きぎょう宅地たくちなら市内しない有数ゆうすう人口じんこう集中しゅうちゅう地域ちいきとなっている[1]

総和そうわ48ねんには、人口じんこう大幅おおはばぞう対応たいおうするため、小学校しょうがっこう分割ぶんかつあらたに万寿まんすひがし小学校しょうがっこう新設しんせつした(幼稚園ようちえん同様どうよう[2]

現在げんざい平野へいやである当地とうちは、古代こだいから中世ちゅうせいまで海域かいいきであったが、中世ちゅうせい後期こうき宇喜多うきた秀家ひでいえにより干拓かんたくされ、陸続りくつづきとなった。地名ちめい由来ゆらいは、中世ちゅうせい周辺しゅうへん一帯いったい存在そんざいしたとされる荘園しょうえん万寿まんすしょう(ますしょう)である[1]

明治めいじ時代じだいの、明治めいじ22ねん6がつ1にち都窪つくぼぐんくぼぐん)の富久とみひさ大内おおうち川入かわいり八王子はちおうじ日吉ひよし石見いわみまち)・はま平田ひらた大島おおしま福島ふくしまかくむら合併がっぺいまん寿ことぶきむらとなった。昭和しょうわになると、昭和しょうわ2ねん4がつ1にち倉敷くらしきまち編入へんにゅうどう3ねん4がつ1にち市制しせい施行しこうきゅう倉敷くらしきとなり、どう42ねん2がつ1にちあたらしい倉敷くらしきとなり、現在げんざいいた[1]

地域ちいき

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大内おおうち

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おおちくんずる。伯備線はくびせん西側にしがわ位置いちし、中洲なかす地域ちいき隣接りんせつする[3]

古代こだいには、くぼぐん大市おおいちきょう一部いちぶであったとされ、このちかくまで阿知あちうみあるいは阿知あちかたなどとばれるうみふか湾入わんにゅうしていた。中世ちゅうせいには、阿知あちうみでとれた魚介ぎょかいるい売買ばいばいする魚市場うおいちばがあったといわれ、大市おおいちさかな由来ゆらいするというせつもある。現在げんざい大内おおうち地名ちめいは、だい変化へんかしたもの[3]

江戸えど時代じだい元和げんなから慶長けいちょうころくぼぐん八王子はちおうじむら枝村えだむらとして新田にった開発かいはつされ、きゅうさとめい由来ゆらいした大内おおうちむら命名めいめいされ、備前びぜん岡山おかやまはん所領しょりょうとなり、幕末ばくまつまでいた[3]

明治めいじ10ねんに、大内おおうち川入かわいり八王子はちおうじ大内おおうち日吉ひよししょうかくむら合併がっぺい富久とみひさむら(とみひさそん)となった[4]

現代げんだいでは、宅地たくち進行しんこうし、さらに大型おおがた幹線かんせん道路どうろ整備せいびされたため、ロードサイドがた商店しょうてんおお立地りっちするようになっている。

川入かわいり

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川入かわいり

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上記じょうき大内おおうち東側ひがしがわ位置いちする[3]

古代こだいから中世ちゅうせいは、阿知あちうみ阿知あちかた)とばれる海域かいいきであったとされる。中世ちゅうせい後期こうき天正てんしょう13ねん岡山おかやま城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえ老臣ろうしんであったおかゆたかぜんもり干拓かんたくして新田にった開発かいはつし、川入かわいりむらしょうした。地名ちめいは、当時とうじこう梁川りょうせんが、現在げんざい総社そうしゃ清音きよね古地こちあたりで東西とうざい分岐ぶんきしていたが、干拓かんたくによってそのひがしりゅう現在げんざい倉敷くらしき酒津さかづあたりでふたた東西とうざい分岐ぶんきするようになり、そのひがしかわ河口かこう付近ふきん当地とうち位置いちしたことに由来ゆらいしているとされる[3]

江戸えど時代じだいになると、慶長けいちょう5ねん幕府ばくふりょうとなり、つづいて元和がんわ年間ねんかんにはあいきゅうとなり、一部いちぶ備前びぜん岡山おかやまはんりょう一部いちぶ旗本はたもと長谷川はせがわ所領しょりょうとなる[3]

明治めいじ10ねんに、大内おおうち川入かわいり八王子はちおうじ大内おおうち日吉ひよししょうかくむら合併がっぺい富久とみひさむら(とみひさそん)となった[4]明治めいじ以降いこう合併がっぺいで、万寿まんすむら倉敷くらしきまちきゅう倉敷くらしきとなったとき、南部なんぶ分割ぶんかつして寿ことぶきまちもうけた[3]

現在げんざい大内おおうち同様どうよう宅地たくち進展しんてんし、大型おおがた幹線かんせん道路どうろ開通かいつうにより、ロードサイド店舗てんぽおお立地りっちする。

寿ことぶきまち

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倉敷くらしきえきのすぐ北側きたがわせっする地区ちく元々もともとは、上記じょうき川入かわいり川入かわいりむら)の南部なんぶにあたり、昭和しょうわ3ねん4がつ1にち倉敷くらしきになったときに、寿ことぶきまちとして分割ぶんかつあらたな大字だいじとして新設しんせつされた。名称めいしょうまん寿ことぶきから一文字ひともじったもの[3]

明治めいじになってしばらくは田園でんえん地帯ちたいであったが、明治めいじ24ねん7がつ山陽さんよう鉄道てつどう倉敷くらしきえき新設しんせつされるとこの次第しだい市街しがい進行しんこうし、大正たいしょう4ねんには倉敷紡績くらしきぼうせきげんクラボウ)万寿まんすだいいち工場こうじょう建設けんせつされた。どう7ねんにはだい工場こうじょうもうけられ、従業じゅうぎょういんよう社宅しゃたくてられるなど工業こうぎょう地帯ちたい様相ようそうていした[3]

その、クラボウは移転いてんし、跡地あとちきゅう倉敷くらしきチボリ公園こうえんとして活用かつようされた[3]。チボリ閉園へいえんアリオ倉敷くらしきっている。

浜町はまちょう

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倉敷くらしきえき北東ほくとう方向ほうこう位置いちする[3]

備中びっちゅう』には「往昔おうせき海辺うみべにてのち地方ちほうになりころ浜辺はまべとなりしよりはまといひしなり」とあり、ふるくは海域かいいき、および倉敷くらしきがわ加須山かすやま丘陵きゅうりょうがわ)の島嶼とうしょ北端ほくたんはまであった。中世ちゅうせい末期まっきになると干潮かんちょうには干潟ひがたひろがるようになり、天正てんしょう年間ねんかん岡山おかやま城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえ老臣ろうしんであったおかゆたかまえ酒津さかづから現在げんざい浜町はまちょうまで堤防ていぼうきずき(宇喜多うきたつつみ)、ひがし高梁川たかはしがわひがしかわ川筋かわすじばして、干拓かんたく事業じぎょうおこな新田しんでん開発かいはつした。もと浜辺はまべであったことからくぼぐん浜村はまむらしょうした[3]

江戸えど時代じだいになると、徳川とくがわ幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうおさめ、元和がんわ3ねん備中びっちゅう松山まつやまはん所領しょりょうとなる。さらに寛永かんえい19ねん松山まつやま藩主はんしゅ池田いけだじょふうとなり、倉敷くらしき支配しはいしょ管轄かんかつとなった。また、江戸えど時代じだいには枝村えだむらとして北部ほくぶしょうむら(こごいそん)があった[3]石高こくだか1217せき96しょうしょうむらのぞく)の記録きろくがある[3]

また江戸えどには倉敷くらしき総社そうじゃ総社そうしゃ)をむす総社そうじゃみちばれた街道かいどう当地とうち南北なんぼく縦貫じゅうかんし、街道かいどう沿いに商店しょうてんならんでいた。北部ほくぶには鴨方かもがた往来おうらい東西とうざい横断おうだんし、交差こうさしていた(詳細しょうさい浜ノ茶屋はまのちゃやしょう詳述しょうじゅつ)。

明治めいじになり、浜村はまむら万寿まんすむら倉敷くらしきまちきゅう倉敷くらしきとなると、北部ほくぶ一部いちぶ浜ノ茶屋はまのちゃや北西ほくせい北浜きたはままち西部せいぶ一部いちぶ日ノ出ひのでまち南部なんぶ昭和しょうわさいわいまち美和みわとして割譲かつじょう、またのこりもはま1丁目ちょうめと2丁目ちょうめ区分くぶんされた。中心ちゅうしん市街地しがいち北部ほくぶ郊外こうがい中間ちゅうかんにあたり、立地りっちさから宅地たくち進行しんこうし、元々もともと農地のうちおおかったが、現在げんざいはほとんどみられない[3]

浜ノ茶屋はまのちゃや

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倉敷くらしきえき法統ほうとう方向ほうこう上記じょうき浜町はまちょう北側きたがわ位置いちする[3]

元々もともとは、上記じょうき浜町はまちょう浜村はまむら)の一部いちぶで、浜町はまちょうから北部ほくぶ分割ぶんかつしたもの。現在げんざい浜ノ茶屋はまのちゃや浜ノ茶屋はまのちゃや1丁目ちょうめどう2丁目ちょうめ区分くぶんされている。

江戸えど時代じだいには、しょうむらもしくはいにしえ井村いむら(こごいそん)とばれる浜村はまむら枝村えだむらであったとされる。倉敷くらしき総社そうじゃ総社そうしゃ)をむすんだ総社そうじゃみち岡山おかやま鴨方かもがたむすんだ鴨方かもがた往来おうらいという街道かいどう当地とうち交差こうさし、その付近ふきん街道かいどう沿いにやす茶屋ちゃやがあったので、浜ノ茶屋はまのちゃやという地名ちめい発祥はっしょうし、昭和しょうわ町名ちょうめい整理せいり正式せいしき大字だいじとして浜ノ茶屋はまのちゃやとして採用さいようされた[3]

浜町はまちょう同様どうよう立地りっちさから宅地たくちすすみ、現在げんざい農地のうちほとんどなくなった[3]。また、近年きんねんには北端ほくたん東西とうざい大型おおがた幹線かんせん道路どうろ建設けんせつされ、道路どうろ沿いに飲食いんしょくてんはじめとするロードサイドがた小売こうりてんおお林立りんりつ交通こうつうりょう激増げきぞうしている。

北浜きたはままち

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倉敷くらしきえき北方ほっぽうすぐにある住宅じゅうたく地帯ちたいである[3]

元々もともと前述ぜんじゅつ浜町はまちょう浜村はまむら)の一部いちぶどう西北せいほく位置いちした。昭和しょうわ3ねん4がつ1にちきゅう倉敷くらしきとなってから、はまからかれて新設しんせつされた。名称めいしょうはま北部ほくぶ[3]

浜町はまちょう同様どうよう農村のうそんであったが、宅地たくち進行しんこうして、現在げんざい農地のうちほとん[3]

日ノ出ひのでまち

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倉敷くらしきえき北東ほくとうにあり、山陽本線さんようほんせん北側きたがわせっし、南北なんぼくなが地区ちく[3]

明治めいじ山陽さんよう鉄道てつどう倉敷くらしきえき開業かいぎょうから、次第しだい市街しがい進行しんこうした。浜町はまちょう寿ことぶきまちなど周辺しゅうへん同様どうよう、かつて農地のうちおおかったが現在げんざい宅地たくちすすみ、農地のうちはほとんど姿すがたした。市街地しがいち隣接りんせつしているため、企業きぎょう商店しょうてん立地りっちしているのも特徴とくちょうである[3]

元々もともと前述ぜんじゅつ浜町はまちょう浜村はまむら)の一部いちぶで、同地どうち西部せいぶ相当そうとうした。昭和しょうわ3ねん4がつ1にちきゅう倉敷くらしきとなってから、はま西部せいぶ分割ぶんかつして日ノ出ひのでまちとした。現在げんざい南北なんぼくに1丁目ちょうめと2丁目ちょうめ区分くぶんされている[3]

昭和しょうわ

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倉敷くらしきえき東側ひがしがわ山陽本線さんようほんせん南部なんぶにわたる東西とうざいなが地区ちく阿知あち地区ちくせっし、中央ちゅうおう東西とうざいきゅう国道こくどう2号線ごうせんとおり、それをさかい南北なんぼくに1丁目ちょうめと2丁目ちょうめ区分くぶんされる[3]

もと万寿まんすむらはま南端なんたんにあたる一部いちぶであり、市街地しがいちちか田園でんえんであったが、倉敷くらしきえき開業かいぎょう企業きぎょう商店しょうてんえるようになる。昭和しょうわ3ねん倉敷くらしきとなると、街路がいろもう整備せいび市外しがいかたちととのえ、あらたに昭和しょうわとして分割ぶんかつ新設しんせつされた[3]

現在げんざいは、きゅう国道こくどう2号線ごうせん中心ちゅうしんにバスの営業えいぎょうしょ商店しょうてん企業きぎょう・マンションが密集みっしゅうし、倉敷くらしき中心ちゅうしん市街地しがいち北部ほくぶ一端いったんにな地域ちいきとなっている[3]

1丁目ちょうめ阿知あちなどとおな倉敷くらしきひがし小学校しょうがっこうとなっている。

平田ひらた

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倉敷くらしき中心ちゅうしん市街地しがいち北東ほくとう方向ほうこう郊外こうがいにあたる。地区ちく南部なんぶ山陽さんよう本線ほんせんきゅう国道こくどう2号線ごうせん通過つうかしている[3]

ふるくは海域かいいきであったが、当地とうち北端ほくたん一部いちぶは、本土ほんどがわ沿岸えんがんであったためふるくから集落しゅうらくがあったともいわれる。中世ちゅうせい後期こうき天正てんしょう年間ねんかんに、岡山おかやま城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえ干拓かんたくして新田しんでん開発かいはつくぼぐん平田ひらたむらしょうす。江戸えど時代じだいになると徳川とくがわ幕府ばくふりょうとなる。寛永かんえい9ねん備前びぜん池田いけだはん所領しょりょううつる。幕末ばくまつ石高こくだかは1100せき39しょう[3]

平田ひらたむら北部ほくぶ幸田こうだ(こうだ)とび、『備中びっちゅう』では皇太后こうたいごうみやしょく旧跡きゅうせきであることに由来ゆらいすめらぎたいこく(こうだいこく)とばれるようになり、それが転訛てんかしたとされる[3]

ながらく農地のうち大半たいはんめていたが、幹線かんせん道路どうろとおり、市街地しがいちちか南部なんぶ西部せいぶ宅地たくち進行しんこうした。さらに近年きんねん北部ほくぶにも東西とうざい大型おおがた幹線かんせん道路どうろ、また倉敷くらしきインターチェンジや総社そうじゃ方面ほうめんむす大型おおがた幹線かんせん道路どうろ建設けんせつされ、インターにちかいという立地りっちから道路どうろ沿いを中心ちゅうしん大型おおがたロードサイド店舗てんぽ多数たすう林立りんりつとく飲食いんしょくてんおお外食がいしょくどおりの様相ようそうていしている。

そのため、現在げんざいとう地域ちいきない市街しがいした地区ちく農地のうちおおのこ田園でんえん地帯ちたいとにかれるかたちとなっている[3]

南西なんせい倉敷くらしきみどりまつ高等こうとう学校がっこうきゅう片山かたやま女子じょし高等こうとう学校がっこう)や倉敷くらしき市立しりつ倉敷くらしき東中ひがしなか学校がっこうがある[3]

大島おおしま

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倉敷くらしき中心ちゅうしん市街地しがいち東側ひがしがわ校外こうがいで、南北なんぼくなが地区ちく[3]

ほぼ中央ちゅうおう大島山おおじまやまという小高こだかおかがあり、中世ちゅうせい後期こうきごろまで付近ふきん海域かいいきで、大島山おおじまやま同名どうめいしまであった。大島おおしま周辺しゅうへんにはごくわずかの農地のうち存在そんざいじんんでいたとされる 。

天正てんしょう年間ねんかん岡山おかやま城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえ周辺しゅうへん海域かいいき干拓かんたく新田しんでん造成ぞうせいくぼぐん大島おおしまむらしょうした。江戸えど時代じだいになると、幕府ばくふりょうとなり、元和げんな元年がんねん備前びぜん池田いけだ領分りょうぶん移管いかんされた。幕末ばくまつ石高こくだかは940せき39しょう[3]

現在げんざいは、市街地しがいち隣接りんせつすることから、前述ぜんじゅつ地域ちいき同様どうよう宅地たくちおよび市街地しがいち進行しんこうし、農地のうち減少げんしょうした。大島山おおじまやまには団地だんち造成ぞうせいされている。

北部ほくぶ東西とうざいきゅう国道こくどう2号線ごうせんとおり、北西ほくせいをわずかに岡山おかやまけんどう22号線ごうせん南北なんぼく通過つうか、また22号線ごうせん当地とうち西にしせっするさいわいまち美和みわ東部とうぶ当地とうちとの境界きょうかい近接きんせつする南北なんぼく縦断じゅうだんしている。りょう道路どうろ交差こうさする大島おおしま交差点こうさてんは、22号線ごうせん起点きてんとなる。これら幹線かんせん道路どうろ沿いにはロードサイド店舗てんぽ多数たすう立地りっちし、とくに22号線ごうせん沿線えんせん周辺しゅうへん官公庁かんこうちょう医療いりょう施設しせつおおく、当地とうちにも倉敷くらしき警察けいさつしょなど一部いちぶ立地りっちしている。

福島ふくしま

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倉敷くらしき東方とうほう郊外こうがいで、上記じょうき大島おおしまひがしにある南北なんぼくなが地区ちく当地とうち東側ひがしがわ中庄なかしょう隣接りんせつ

地区ちくない福島ふくしまさんばれる小高こだかおかがあり、中世ちゅうせい後期こうきまでその周辺しゅうへん海域かいいきで、福島ふくしまさん同名どうめいしまであった[3]

天正てんしょう年間ねんかん岡山おかやま城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえ周辺しゅうへんとも干拓かんたくおこな新田しんでん開発かいはつし、くぼぐん福島ふくしまむらとした。江戸えど時代じだいには、大島おおしまむらなど周辺しゅうへんとも幕府ばくふりょうとなり、元和げんな元年がんねん大島おおしまおなじく備前びぜん岡山おかやま領分りょうぶん移管いかんし、幕末ばくまついたる。幕末ばくまつにおける石高こくだかは、749せき8[3]

現在げんざいは、市街地しがいちちか郊外こうがいであるため、宅地たくち進展しんてんしており、福島ふくしまさん団地だんち出来できている。また近年きんねん中庄なかしょうとの境界きょうかい南北なんぼく大型おおがた市道しどう建設けんせつされ、沿線えんせんはロードサイド店舗てんぽ林立りんりつし、周辺しゅうへん宅地たくちがさらにおお造成ぞうせいされている。

福島ふくしまさんには福島ふくしま大島おおしま平田ひらた鎮守ちんじゅ熊野くまの神社じんじゃ鎮座ちんざしている[3]

人口じんこう世帯せたいすう

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れい3ねん9がつまつ現在げんざい[5]

万寿まんす地区ちく人口じんこう世帯せたいすう
まち 世帯せたいすう 男性だんせい人口じんこう 女性じょせい人口じんこう そう人口じんこう 備考びこう
大内おおうち 987 1177 1275 2452
川入かわいり 1156 1197 1352 2549
寿ことぶきまち 144 144 163 307
北浜きたはままち 315 302 356 658
日ノ出ひのでまち丁目ちょうめ 248 265 295 560
日ノ出ひのでまち丁目ちょうめ 347 351 380 731
浜ノ茶屋はまのちゃや 266 276 325 601
浜ノ茶屋はまのちゃや丁目ちょうめ 439 475 561 1036
浜ノ茶屋はまのちゃや丁目ちょうめ 307 315 384 699
浜町はまちょう丁目ちょうめ 422 467 507 974
浜町はまちょう丁目ちょうめ 409 453 513 966
昭和しょうわ丁目ちょうめ 363 340 394 734
昭和しょうわ丁目ちょうめ 329 277 341 618
さいわいまち 731 691 812 1503
大島おおしま 1401 1426 1729 3155
福島ふくしま 1890 2308 2540 4848
平田ひらた 1296 1660 1794 3454
合計ごうけい 11050 12124 13721 25845

郵便ゆうびん番号ばんごう

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全域ぜんいき倉敷くらしき郵便ゆうびんきょく管区かんく

  • 大内おおうち - 710-0817
  • 川入かわいり - 710-0811
  • 寿ことぶきまち - 710-0813
  • 北浜きたはままち - 710-0812
  • 日ノ出ひのでまち - 710-0063
  • 平田ひらた - 710-0003
  • 浜ノ茶屋はまのちゃや - 710-0061
  • 浜町はまちょう - 710-0062
  • 昭和しょうわ - 710-0057
  • さいわいまち - 710-0051
  • 大島おおしま - 710-0047
  • 福島ふくしま - 710-0048

学区がっく

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小学校しょうがっこう

大内おおうち川入かわいり寿ことぶきまち北浜きたはままち日ノ出ひのでまち浜ノ茶屋はまのちゃや浜町はまちょう昭和しょうわ1丁目ちょうめ大島おおしま平田ひらたのうち山陽さんよう本線ほんせんから北側きたがわ地域ちいきは、倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶき小学校しょうがっこう大島おおしま平田ひらた(山陽本線さんようほんせん以北いほくのぞく)、福島ふくしま倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶきひがし小学校しょうがっこう美和みわさいわいまち倉敷くらしき市立しりつ倉敷くらしきひがし小学校しょうがっこう八王子はちおうじまち倉敷くらしき市立しりつ中洲なかす小学校しょうがっこう石見いわみまち日吉ひよしまち倉敷くらしき市立しりつ老松おいまつ小学校しょうがっこうとなる。

中学校ちゅうがっこう

大内おおうち川入かわいり八王子はちおうじまち石見いわみまち日吉ひよしまち以外いがい倉敷くらしき市立しりつ東中ひがしなか学校がっこう大内おおうち川入かわいり八王子はちおうじまち石見いわみまち日吉ひよしまち倉敷くらしき市立しりつ西中にしなか学校がっこうとなる。

沿革えんかく

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  • 明治めいじ22ねん6がつ1にち - くぼぐん富久ふくはま平田ひらた大島おおしま福島ふくしま八王子はちおうじむら合併がっぺいどうぐん万寿まんすむらとなる。
  • 明治めいじ24ねん7がつ - 山陽さんよう鉄道てつどう倉敷くらしきえき開業かいぎょうする。
  • 明治めいじ33ねん4がつ1にち - 都窪つくぼぐん新設しんせつにより、都窪つくぼこおり万寿まんすむらとなる。
  • 大正たいしょう4ねん - 倉敷紡績くらしきぼうせきげんクラボウ)万寿まんすだいいち工場こうじょう建設けんせつされる。
  • 大正たいしょう7ねん - 倉敷紡績くらしきぼうせきまん寿ことぶきだい工場こうじょう建設けんせつされる。
  • 昭和しょうわ2ねん4がつ1にち - 都窪つくぼぐん倉敷くらしきまち編入へんにゅう合併がっぺいする
  • 昭和しょうわ3ねん4がつ1にち - 市制しせい施行しこうきゅう倉敷くらしきとなる。
  • 昭和しょうわ42ねん2がつ1にち - あたらしい倉敷くらしき新設しんせつ
  • 平成へいせい9ねん7がつ - 倉敷くらしきチボリ公園こうえん開園かいえんする。
  • 平成へいせい21ねん1がつ1にち - 倉敷くらしきチボリ公園こうえん閉園へいえんする。

主要しゅよう施設しせつ

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教育きょういく施設しせつ
  • 倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶき小学校しょうがっこう - 浜町はまちょう2丁目ちょうめ
  • 倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶきひがし小学校しょうがっこう - 福島ふくしま
  • 倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶき幼稚園ようちえん - 浜町はまちょう2丁目ちょうめ
  • 倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶきひがし幼稚園ようちえん - 大島おおしま
  • 倉敷くらしき市立しりつ倉敷くらしき東中ひがしなか学校がっこう - 平田ひらた
  • 倉敷くらしきみどりまつ高等こうとう学校がっこう - 平田ひらたきゅう片山かたやま女子じょし高等こうとう学校がっこう
公的こうてき施設しせつ
  • 倉敷くらしき警察けいさつしょ - 大島おおしま
  • 労働ろうどう基準きじゅんしょ - 大島おおしま
  • 農政のうせいきょく - 大島おおしま
神社じんじゃ仏閣ぶっかく教会きょうかい

 商業しょうぎょう施設しせつ


・アリオ倉敷くらしき

三井みついアウトレットパーク倉敷くらしき

交通こうつう

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道路どうろ
  • 国道こくどう429号線ごうせん
  • 岡山おかやまけんどう469号線ごうせん
  • 岡山おかやまけんどう22号線ごうせん
  • 岡山おかやまけんどう24号線ごうせん
鉄道てつどう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 岡山おかやまけんだい百科ひゃっか事典じてん編集へんしゅう委員いいんかい編集へんしゅう岡山おかやまけんだい百科ひゃっか事典じてん』(1979ねん山陽新聞社さんようしんぶんしゃ
  2. ^ 学校がっこう要覧ようらん|倉敷くらしき市立しりつまん寿ことぶきひがし小学校しょうがっこう
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak いわおせいみぎ衛門えもん岡山おかやま地名ちめい事典じてん』(1974ねん日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱんしゃ
  4. ^ a b 渡辺わたなべひかり中野なかのたかしただし山口やまぐちめぐみ一郎いちろうしき正英まさひで日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん2 中国ちゅうごく四国しこく朝倉書店あさくらしょてん(1968ねん
  5. ^ 人口じんこう月報げっぽう|倉敷くらしき

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岡山おかやまけん市町村しちょうそん合併がっぺい 市町村しちょうそんへん』(昭和しょうわ35ねん岡山おかやまけん
  • いわおせいみぎ衛門えもん岡山おかやま地名ちめい事典じてん』(1974ねん日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱんしゃ
  • 岡山おかやまけんだい百科ひゃっか事典じてん編集へんしゅう委員いいんかい岡山おかやま地名ちめい事典じてん』(1979ねん山陽新聞社さんようしんぶんしゃ
  • 渡辺わたなべひかり中野なかのたかしただし山口やまぐちめぐみ一郎いちろうしき正英まさひで日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん2 中国ちゅうごく四国しこく』(1968ねん朝倉書店あさくらしょてん
  • 下中しもなか直也なおや日本にっぽん地名ちめい大系たいけいだいさんよんかん 岡山おかやまけん地名ちめい』(1988ねん平凡社へいぼんしゃ
  • 黒田くろだ茂夫しげおけんべつマップル33 岡山おかやまけん広域こういき詳細しょうさい道路どうろ地図ちず』(2010ねん昭文社しょうぶんしゃ

参考さんこうサイト

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関連かんれん項目こうもく

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