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上原 うえはら 繁 しげる (うえはら しげる、1947年 ねん 9月5日 にち - )は、本田技研工業 ほんだぎけんこうぎょう の研究 けんきゅう 開発 かいはつ 部門 ぶもん 、本田 ほんだ 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 所属 しょぞく の元 もと ・上席 じょうせき 研究 けんきゅう 員 いん 。ホンダのスポーツカー、NSX の開発 かいはつ 責任 せきにん 者 しゃ として知 し られる。またインテグラ タイプR の企画 きかく 開発 かいはつ も担当 たんとう し、S2000 の開発 かいはつ にも携 たずさ わった。現在 げんざい は同社 どうしゃ を定年 ていねん 退職 たいしょく している。
東京 とうきょう 都 と 練馬 ねりま 区 く 出身 しゅっしん 。東京農工大学 とうきょうのうこうだいがく 工学部 こうがくぶ 機械 きかい 工学科 こうがっか 卒 そつ 。1971年 ねん に本田 ほんだ 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 入社 にゅうしゃ 。上原 うえはら によると、ホンダへの入社 にゅうしゃ 理由 りゆう は「四 よん 輪 りん メーカーとしては新興 しんこう で、やることがいっぱいあって面白 おもしろ そうだから」とのこと。大学 だいがく 時 じ の専攻 せんこう 課程 かてい は「車両 しゃりょう 運動 うんどう 」研究 けんきゅう であり、入社 にゅうしゃ 後 ご は操縦 そうじゅう 安定 あんてい 性 せい の研究 けんきゅう も担当 たんとう した[1] [2] 。なお、ホンダのエンジニア関連 かんれん の研究 けんきゅう 員 いん は自 みずか らテストドライバーも兼任 けんにん していくことから、上原 うえはら も入社 にゅうしゃ 時 じ からステアリングを握 にぎ っており、定年 ていねん 退職 たいしょく するまでそれを続 つづ けた。
1970年代 ねんだい 半 なか ばから1980年代 ねんだい 前半 ぜんはん に掛 か けては、市販 しはん 車 しゃ の開発 かいはつ 部門 ぶもん の車体 しゃたい 運動 うんどう 性能 せいのう グループに属 ぞく して、生産 せいさん モデルに近 ちか い車両 しゃりょう に“乗 の り味 あじ ”を付 つ ける仕事 しごと を担当 たんとう していた。そのなかには「FF ライトウェイトスポーツ 」という新 しん ジャンルを標榜 ひょうぼう した初代 しょだい CR-X などもあった。
1985年 ねん 、その前年 ぜんねん から関 かか わっていたUMR(アンダーフロア・ミッドシップ エンジン・レイアウト)の研究 けんきゅう 開発 かいはつ からNSXにつながるプロジェクトの担当 たんとう 責任 せきにん 者 しゃ となる。NSXの大 おお きさや搭載 とうさい エンジンは社内 しゃない 事情 じじょう や市場 いちば リサーチなどで二 に 転 てん 三 さん 転 てん していったが、車 くるま そのものの方向 ほうこう 性 せい は操縦 そうじゅう 性 せい (ハンドリング)にこだわったものを目指 めざ した。NSX発表 はっぴょう 当時 とうじ の売 う り文句 もんく に「世界 せかい 第 だい 一 いち 級 きゅう の動力 どうりょく 性能 せいのう とハンドリングの両立 りょうりつ 」というものがある。これは上原 うえはら の意向 いこう が強 つよ いとされる。
1990年 ねん 、NSXを発売 はつばい した後 のち も、より走行 そうこう 性能 せいのう を向上 こうじょう させたNSXタイプR 、オープントップモデルでさらなるボディ補強 ほきょう を必要 ひつよう としたNSX タイプTなどのシリーズ展開 てんかい の開発 かいはつ 責任 せきにん 者 しゃ を歴任 れきにん 。その後 ご 、四 よん 輪 りん 事業 じぎょう 本部 ほんぶ に転任 てんにん し当時 とうじ 販売 はんばい 不振 ふしん だったインテグラのマイナーチェンジ 時 どき の目玉 めだま となる、ハイスペックなスポーツグレードであるインテグラ タイプRの企画 きかく 開発 かいはつ に従事 じゅうじ した。NSXとインテグラ で上原 うえはら が企画 きかく したタイプR の仕様 しよう は、本人 ほんにん が手掛 てが けなかったシビック やアコード (欧州 おうしゅう のみ、日本 にっぽん ではユーロR)などにも施 ほどこ され、1990年代 ねんだい 後半 こうはん 以降 いこう のホンダスポーツカーの基本 きほん 仕様 しよう となった。
1995年 ねん の東京 とうきょう モーターショー で発表 はっぴょう したFR 駆動 くどう のオープンスポーツのコンセプトカー 、SSM の好評 こうひょう を受 う けて開発 かいはつ が始 はじ まったS2000の開発 かいはつ 責任 せきにん 者 しゃ にも就任 しゅうにん し、ホンダ50周年 しゅうねん モデルとして1999年 ねん に発売 はつばい された。その後 ご 、2002年 ねん に7年 ねん ぶりに生産 せいさん を再開 さいかい したNSX-Rの開発 かいはつ 責任 せきにん 者 しゃ を担当 たんとう したほか、2007年 ねん に発表 はっぴょう されたS2000の主 おも に空 そら 力 りょく 面 めん での走行 そうこう 性能 せいのう を伸 の ばしたモデル、S2000 TYPE S(北米 ほくべい 仕様 しよう は、S2000 CR)の開発 かいはつ にも携 たずさ わる。これが上原 うえはら の本田 ほんだ 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 在職 ざいしょく 最後 さいご に手掛 てが けた車 くるま となった。また同 どう 時期 じき 、経年 けいねん 劣化 れっか に強 つよ いアルミボディを持 も つNSXへの有償 ゆうしょう サービスで、1993年 ねん から開始 かいし されていたリフレッシュ・プラン の体制 たいせい を強化 きょうか することにも従事 じゅうじ していた[3] 。
2007年 ねん 9月5日 にち 、本田 ほんだ 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ を定年 ていねん 退職 たいしょく 。現在 げんざい は本田 ほんだ 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ ・社友 しゃゆう として、在職 ざいしょく 時代 じだい から担当 たんとう しているホンダ主催 しゅさい のNSXオーナーズミーティングやNSX Fiestaなどに引 ひ き続 つづ き出席 しゅっせき してオーナー達 たち との交流 こうりゅう を図 はか っている。