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中村 道太(なかむら みちた、天保7年3月10日(1836年4月25日) - 大正10年(1921年)1月3日)は、幕臣、明治・大正期の実業家、教育者。
弟に実業家(花火師)の平山甚太、作家獅子文六は甚太の孫[1]。
三河吉田藩士の出身。大政奉還後、藩命により江戸詰めを命じられて穂積清軒に従事し、行動を共にする。やがて江戸屋敷の上屋敷に移り、公用人に挙げられた。江戸奉公で上府し幕臣となる。ここで勝海舟や外国方翻訳局の福澤諭吉を知り、築地鉄砲洲の慶應義塾に学ぶ。戊辰戦争で藩の大参事となり、豊橋で好問社を創立し、女子教育を始める。明治維新後、家禄を失った武士を集めて中村屋を創業する。横浜で貿易などに挑戦する。福澤諭吉の門下の丸屋商社(丸善)の早矢仕有的と懇意になり、それが縁で横浜正金銀行初代頭取に就任する。西南戦争の後、愛知県渥美郡長となり、第八国立銀行を創立する。東京米商会所の頭取となるが、薩長閥の官僚によって終生その商才を妨害されることになった。
- ^ 牧村健一郎『獅子文六の二つの昭和』(朝日新書)P.24
- 先代
- (初代)
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- 横浜正金銀行頭取
- 初代:1879年 - 1882年
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- 次代
- 小野光景
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