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中野なかのりゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得かくとくメダル
セルビア・モンテネグロの旗 セルビア・モンテネグロ
柔道じゅうどう
世界せかい学生がくせい
きむ 2004 モスクワ 100kgきゅう

中野なかの りゅう(なかの りゅう、1983ねん1がつ2にち -)はセルビア柔道じゅうどう選手せんしゅ神奈川かながわけん横浜よこはま出身しゅっしん階級かいきゅうは100kgきゅう身長しんちょうは183cm。別名べつめいはリュウ・ミヤルコヴィッチないしはミヤルコヴィッチ・リュウ(Rju Mijalkovic)[1][2]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

父親ちちおやユーゴスラビア出身しゅっしんで、柔道じゅうどうヨーロッパ選手権せんしゅけんで5になったこともある。1960年代ねんだい柔道じゅうどうまなびに来日らいにちした。その帰化きかして「中野なかのゆかり」と名前なまえつと、実業じつぎょうとしてワイン輸入ゆにゅうなどをがけるとともに、「イタリアンハウスカフェ&バー」とみせかまえるにいたった[1]りゅう本人ほんにんは3さい年上としうえであるあにだい影響えいきょうされて7さいとき大竹おおたけ道場どうじょう柔道じゅうどうはじめた[1]。そのあさ道場どうじょううつった[3]。なお、小学生しょうがくせい時代じだい柔道じゅうどう以外いがいバスケットボールにもんでいた。万騎まきはら中学ちゅうがくから東海大相模とうかいだいさがみ高校こうこうすすむと、1ねんときには高校こうこう選手権せんしゅけん団体だんたいせん優勝ゆうしょうかざった。ただし、決勝けっしょうではメンバーからはずされた。2ねんときには3だった[1]東海大学とうかいだいがく進学しんがくすると、2ねんとき全日本ぜんにほんジュニア100kgきゅう出場しゅつじょうするも、2回戦かいせん高校生こうこうせい相手あいてやぶれた。それまでは日本にっぽん代表だいひょう目指めざしていたものの、この敗戦はいせんをきっかけにそれはとてもむずかしいことだと判断はんだんして、父親ちちおや出身しゅっしんであるセルビアモンテネグロでの代表だいひょう選択せんたくすることにめた。本人ほんにんいわく「まあ、げたかたちです」。ただし、くに代表だいひょうになって試合しあいれば色々いろいろ経験けいけんめるので、それを考慮こうりょしたうえでの判断はんだんでもあった。父親ちちおやがよく「世界せかいには文化ぶんかけんはあるけど、国境こっきょう関係かんけいない」とくちにしていたが、そんなかんがえにも影響えいきょうされたという[1]。 2003ねん嘉納かのうはい父親ちちおやがコーチをつとめるセルビアモンテネグロ代表だいひょうはつ出場しゅつじょうしたが、初戦しょせんやぶれた。つづいて大阪おおさか開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんにも出場しゅつじょうしたが、2回戦かいせんやぶれた。一方いっぽう全国ぜんこく体育たいいくけい学生がくせい柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかいでは優勝ゆうしょうした[1]。2004ねんにはU23ヨーロッパ選手権せんしゅけんで3となった。モスクワ開催かいさいされた世界せかい学生がくせいでは決勝けっしょう天理大学てんりだいがく2ねん穴井あないたかししょう対戦たいせんすると、有効ゆうこうでリードするもわざありで逆転ぎゃくてんされるが、終盤しゅうばんうらめて優勝ゆうしょうかざった[4]。2005ねんにはりょうとくてら学園がくえん職員しょくいんになった[2]。2007ねん以降いこう世界せかい選手権せんしゅけんにはセルビア代表だいひょう出場しゅつじょうしたが、結局けっきょくオリンピック代表だいひょうにはなれなかった。2009ねんりょうとくてら学園がくえん退職たいしょくすると、アドリアインターナショナルの所属しょぞくとなった。また、「イタリアンハウスカフェ&バー」に勤務きんむすることにもなった[2][5]

おも戦績せんせき[編集へんしゅう]

(出典しゅってん[1]JudoInside.com)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]