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亀井かめい茲胤

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亀井かめい 茲胤
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん とおる11ねん5月19にち1726ねん6月18にち
死没しぼつ たかられき2ねん7がつ9にち1752ねん8がつ18にち
改名かいめい 松平まつだいら徳蔵とくぞう亀井かめい茲胤
戒名かいみょう のぼりいん殿どのとくいわおけんあきらだい居士こじ
墓所はかしょ 島根しまねけん鹿足かのあしぐん津和野つわのまち亀井かめい墓所はかしょ
官位かんい したがえ隠岐おきもり信濃しなのもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 石見いわみ津和野つわのはんあるじ
氏族しぞく 石岡いしおか松平まつへい亀井かめい
父母ちちはは ちち松平まつだいらよりゆきあきらははとめあずか
養父ようふ亀井かめい茲延
兄弟きょうだい 松平まつだいらよりゆきひさし遠山とおやま友明ともあき松平まつだいらたけしもと松平まつだいらよりゆきこう茲胤
つま 菅沼すがぬまじょうこのみむすめ富子とみこあきらいん
茲休むすめ松平まつだいらよりゆき正室せいしつ
養子ようしのりさだ
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亀井かめい 茲胤(かめい これつぐ)は、石見いわみ津和野つわのはんだい6だい藩主はんしゅ津和野つわのはん亀井かめい7だい

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

とおる11ねん(1726ねん)5がつ19にち常陸ひたち府中ふちゅうはんだい3だい藩主はんしゅ松平まつだいらよりゆきあきらおとことしてまれる。はは久野くの安静あんせいむすめとめあずか石見いわみ津和野つわのはんおも亀井かめい茲延養子ようしとなり、ひろし2ねん1742ねん)11月11にちだい8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね目見まみし、12月18にちしたがえ隠岐おきまもり叙位じょい任官にんかんする。ひろし3ねん1743ねんうるう4がつ3にち養父ようふ隠居いんきょし、家督かとくぐ。

のべとおる2ねん1745ねん)12月に信濃しなのまもりに遷任する。はん財政ざいせい再建さいけんのため、ろう和紙わし製造せいぞう販売はんばい奨励しょうれいするなどしたが、一方いっぽうひろし3ねん(1743ねん)の強風きょうふうによる被害ひがいたかられき元年がんねん1751ねん)の大雪おおゆき被害ひがいにおける救済きゅうさい対応たいおうわれるなど、藩政はんせい多難たなんきわめた。

たかられき2ねん(1752ねん)7がつ9にち津和野つわの死去しきょした。享年きょうねん27。あと養子ようしのりさだいだ。

狩野かの絵画かいがすぐれたじんであったといわれる。