(Translated by https://www.hiragana.jp/)
井戸弘道 - Wikipedia コンテンツにスキップ

井戸いど弘道こうどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

井戸いど 弘道こうどう(いど ひろみち、生年せいねんしょう - 安政あんせい2ねん7がつ26にち1855ねん9月7にち))は、幕末ばくまつ江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと通称つうしょう鉄太郎てつたろう石見いわみまもる井戸いどひろしつとむ長男ちょうなんははぶく原資げんしあきらむすめ

当初とうしょ西丸にしまる小姓こしょうばんだったが、ひろし3ねん1846ねんあたまとなり、翌年よくねんには西丸にしまる目付めつけ昇進しょうしんよしみひさし元年がんねん1847ねん目付めつけとなり、勝手かってかけ海防かいぼうかけ兼務けんむする。よしみなが6ねん1853ねん浦賀うらが奉行ぶぎょうとなり、同年どうねんペリー来航らいこうときには、おなじく浦賀うらが奉行ぶぎょう戸田とださかえとともに久里浜くりはまでペリーより国書こくしょった。同年どうねんには大目おおめづけ就任しゅうにんし、ふたた海防かいぼうかけ兼務けんむ安政あんせい元年がんねん1854ねん軍制ぐんせい改正かいせいようかけとなった。老練ろうれん実務じつむ官僚かんりょうとしてすぐれていたとのひょうのこっている。安政あんせい2ねん(1855ねん大目おおめづけ在任ざいにんちゅう卒去そっきょ墓所はかしょ下谷しもたに稲荷町いなりちょう法養寺ほうようじ現在げんざい大田おおた池上いけがみ移転いてん)と多摩たまぐん成瀬なるせむら東雲しののめてら

生年せいねん不明ふめいだが、ペリーの日記にっきによると「戸田とださかえより10さいから15さいほど年長ねんちょうえた」とのことである。