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ふつづか古墳こふん

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ふつづか古墳こふん
墳丘ふんきゅう石室いしむろ開口かいこう
所在地しょざいち 奈良ならけん生駒いこまぐん斑鳩いかるがまち法隆寺ほうりゅうじ3011
位置いち 北緯ほくい3437ふん10.85びょう 東経とうけい13543ふん56.25びょう / 北緯ほくい34.6196806 東経とうけい135.7322917 / 34.6196806; 135.7322917座標ざひょう: 北緯ほくい3437ふん10.85びょう 東経とうけい13543ふん56.25びょう / 北緯ほくい34.6196806 東経とうけい135.7322917 / 34.6196806; 135.7322917
形状けいじょう 方墳ほうふん
規模きぼ 一辺いっぺん23m
たかさ4m以上いじょう
埋葬まいそう施設しせつ りょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ
内部ないぶすえかん複数ふくすう
出土しゅつどひん 耳環みみわかたな馬具ばぐ須恵すえ土師器はじき
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいきすえ
史跡しせき 奈良ならけん指定してい史跡しせきふつづか古墳こふん
地図ちず
仏塚古墳の位置(奈良県内)
仏塚古墳
ふつづか古墳こふん
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ふつづか古墳こふん(ほとけづかこふん)は、奈良ならけん生駒いこまぐん斑鳩いかるがまち法隆寺ほうりゅうじにある古墳こふん形状けいじょう方墳ほうふん奈良ならけん指定してい史跡しせき指定していされている。

概要がいよう

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奈良盆地ならぼんち北西ほくせい法隆寺ほうりゅうじ北側きたがわしょう丘陵きゅうりょう寺山てらやま)からきたびるしょう尾根おね先端せんたん築造ちくぞうされた古墳こふんである。中世ちゅうせい以来いらい仏堂ぶつどうとしてさい利用りようされ、石室いしむろないからは仏像ぶつぞう仏具ぶつぐ多量たりょう出土しゅつどしており、「ふつづか」の古墳こふんめいはこれに由来ゆらいする。1976ねん昭和しょうわ51年度ねんど)に発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされている。

ふんがた方形ほうけいで、一辺いっぺんやく23メートル・たかさ4メートル以上いじょうはか[1]墳丘ふんきゅう盛土もりつちには周辺しゅうへん包含ほうがんそう使用しようされており、盛土もりつちからは縄文じょうもん土器どきへん弥生やよい土器どきへん石器せっき出土しゅつどしている[2]。また墳丘ふんきゅう周囲しゅういにはしゅうみぞめぐらされる[1]埋葬まいそう施設しせつりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろで、みなみ方向ほうこう開口かいこうする。石室いしむろない盗掘とうくつっているが、調査ちょうさでは複数ふくすう種類しゅるいすえかんかたや、耳環みみわかたな馬具ばぐ須恵すえ土師器はじき検出けんしゅつされているほか、石室いしむろさい利用りようともな中世ちゅうせい仏像ぶつぞう仏具ぶつぐかわらわん土師はじさら多量たりょう出土しゅつどしている。

築造ちくぞう時期じきは、古墳こふん時代じだい後期こうき6世紀せいきすえ(TK209型式けいしきごろ推定すいていされる[1]斑鳩いかる地域ちいきでは、推古天皇すいこてんのう9ねん601ねん)に斑鳩いかるみや造営ぞうえい開始かいしされており、被葬ひそうしゃないし築造ちくぞう主体しゅたいしゃ厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし上宮かみみや王家おうけとの関係かんけい指摘してきするせつげられる[1]

古墳こふんいき1997ねん平成へいせい9ねん)に奈良ならけん指定してい史跡しせき指定していされている。現在げんざいでは石室いしむろないへのりは制限せいげんされている。

遺跡いせきれき

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埋葬まいそう施設しせつ

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石室いしむろ俯瞰ふかん
石室いしむろ展開てんかい

埋葬まいそう施設しせつとしてはりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ構築こうちくされており、みなみ方向ほうこう開口かいこうする。石室いしむろ規模きぼつぎとお[1]

  • 石室いしむろ全長ぜんちょう現存げんそん9.36メートル
  • 玄室げんしつながさ3.86メートル、はば1.93-2.15メートル、たかさ2.65メートル
  • 羨道せんどう現存げんそんながさ5.50メートル、はば1.41-1.80メートル

羨道せんどう一部いちぶ発掘はっくつのため、石室いしむろ全体ぜんたいぞうかならずしもあきらかでない。石室いしむろ石材せきざい花崗岩かこうがん玄室げんしつでは6-9だんみ、羨道せんどうでは2-4だんみであり、玄室げんしつおくかべ側壁そくへき1-3だん羨道せんどう側壁そくへき1-2だんには大石おおいし使用しようし、そのうえには小型こがたいしむ。また玄室げんしつゆかめんには10-25センチメートルのつぶてく。石敷せきふしたには排水溝はいすいこうがあり、玄室げんしつおくかべ側壁そくへき環状かんじょうめぐってげん門部かとべ合流ごうりゅうし、羨道せんどう閉塞へいそくせきしたをくぐる。閉塞へいそくせきした暗渠あんきょじょうで、両側りょうがわ平石ひらいしててそこしょうつぶてれてぶたせきせた構造こうぞうである。

石室いしむろない盗掘とうくつっており、調査ちょうさではすえかんのほか、耳環みみわかたな馬具ばぐ須恵すえ(坏蓋5・無蓋むがい高坏たかつき2)・土師器はじきのみが検出けんしゅつされている[1]すえかん土師はじただし亀甲きっこうがたすえかんで、破片はへんながら3種類しゅるいみとめられ、複数ふくすう人物じんぶつ埋葬まいそう想定そうていされる[1]。そのほか後世こうせい遺物いぶつとして、鎌倉かまくら時代ときよから室町むろまち時代ときよ金銅かなどうふつ塑像そぞうふつへんや、花瓶かびんしゃろくかわらわん土師はじさらなどが多量たりょう出土しゅつどしている[1]

文化財ぶんかざい

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奈良ならけん指定してい文化財ぶんかざい

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  • 史跡しせき
    • ふつづか古墳こふん - 1997ねん平成へいせい9ねん)3がつ21にち指定してい

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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記事きじ執筆しっぴつ使用しようした文献ぶんけん

  • 史跡しせき説明せつめいばん
  • ふつづか古墳こふん」『奈良ならけん地名ちめい日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい30、平凡社へいぼんしゃ、1981ねんISBN 4582490301 
  • いずみもりこうふつづか古墳こふん」『日本にっぽん古墳こふんだい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1989ねんISBN 4490102607 
  • ふつづか古墳こふん」『あたらしおさむ斑鳩いかるがまち上巻じょうかん斑鳩いかるがまち、2022ねん 

関連かんれん文献ぶんけん

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記事きじ執筆しっぴつ使用しようしていない関連かんれん文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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