(Translated by https://www.hiragana.jp/)
伊藤生更 - Wikipedia コンテンツにスキップ

伊藤いとうなまさら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いとう せいこう

伊藤いとう なまさら
伊藤いとう なまさら
生誕せいたん (1884-06-28) 1884ねん6月28にち
山梨やまなしけん北巨摩きたこまぐん穴山あなやまむら
死没しぼつ (1972-07-27) 1972ねん7がつ27にち(88さいぼつ
山梨やまなしけん甲府こうふ
出身しゅっしんこう 山梨やまなし師範しはん学校がっこうげん山梨大学やまなしだいがく
職業しょくぎょう 歌人かじん
テンプレートを表示ひょうじ

伊藤いとう なまさら(いとう せいこう、1884ねん明治めいじ17ねん6月28にち - 1972ねん昭和しょうわ47ねん7がつ27にち)は、アララギ歌人かじん短歌たんか結社けっしゃ美知みちおもえ(みちしば)」創立そうりつしゃ山梨やまなしけん北巨摩きたこまぐんげん韮崎にらさき出身しゅっしん本名ほんみょうは、伊藤いとうはじめたね(もとつぐ)。いもうと権藤ごんどうはなよ(権藤ごんどう花代はなよ)は、唱歌しょうかたなばたさま」の作詞さくししゃ童謡どうよう詩人しじん

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

山梨やまなしけん北巨摩きたこまぐん穴山あなやまむらげん韮崎にらさき穴山あなやままち)にちち友重ともしげはは・やよ、の長男ちょうなんとしてまれる。1906ねん明治めいじ39ねん山梨やまなし師範しはん学校がっこうげん山梨大学やまなしだいがく)を卒業そつぎょう母校ぼこう穴山あなやま尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう山梨やまなし師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこうつとめる。浅川あさがわはくきょう朝鮮ちょうせん陶磁とうじ研究けんきゅうしゃ)は、同僚どうりょう師範しはん学校がっこう学生がくせい時代じだいからの親友しんゆう。1908ねん明治めいじ41ねん)に甲府こうふ転居てんきょ。1913ねん(大正たいしょう2ねん)には29さいわかさで山城やましろ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう校長こうちょうとなる。

1920ねん大正たいしょう9ねん)、チフス罹患りかんにより入院にゅういんした。生死せいしをさまよいながらも、一命いちめいをとりとめたことで人生じんせいかんおおきくわる。いったん静養せいよう生活せいかつはいったが、1923ねん大正たいしょう12ねん)、山梨やまなし師範しはん学校がっこう嘱託しょくたく教師きょうしとして教壇きょうだん復帰ふっきする。在職ざいしょくちゅう教科書きょうかしょ掲載けいさい斎藤さいとう茂吉しげよしうた感銘かんめいけ、短歌たんかつくはじめる。雅号がごうなまさらは、「よみがえる」という漢字かんじ部首ぶしゅけたものである。1926ねん大正たいしょう15ねん)、短歌たんか結社けっしゃアララギ」に入会にゅうかい斎藤さいとう茂吉しげよし生涯しょうがいさだめ、茂吉しげよしおしえをけひたすら作歌さっか没頭ぼっとうした。大正たいしょう15ねん11がつごうから「アララギ」だしえい昭和しょうわ2ねん4がつごうから茂吉しげよしせんによる。

戦前せんぜん作歌さっか活動かつどう並行へいこうして山梨やまなしけん教育きょういくかい機関きかん山梨やまなし教育きょういく』の編集へんしゅう発行はっこう手掛てがけている(『山梨やまなしけん資料しりょうへん19かん別冊べっさつ山梨やまなしけん教育きょういくかい機関きかん そう目次もくじ昭和しょうわ11ねんから昭和しょうわ19ねんおわりかんまで)。

歌人かじんとしてきる決意けついかためたなまさらは、1935ねん昭和しょうわ10ねん)、短歌たんか結社けっしゃ美知みちおもえ」を創刊そうかん主宰しゅさいする。「ミチシバ」(道芝みちしば)とは「チカラシバ」のことで、みちばたにあってしっかりとをはり容易よういけない丈夫じょうぶくさであることからかい名称めいしょうとした。機関きかん美知みちおもえ』の表紙ひょうし見開みひらきページには、よん項目こうもくの「美知みちおもえ信条しんじょう」がかかげられ、その最初さいしょには「万葉まんようむねとする歌道かどうなまくるもののみのしゅうひとせむ。」としるされている。奥付おくづけによると東京とうきょう支部しぶいもうと権藤ごんどうたくとなっている。なまさら短歌たんか特質とくしつは、自然しぜんえいだい部分ぶぶんであり、写生しゃせいつらぬいたが、表現ひょうげん平明へいめい素朴そぼくぬくもりと強靭きょうじんさがある(『なまさら短歌たんか鑑賞かんしょう中島なかじま雪子ゆきこちょ)。また、教壇きょうだんった経験けいけんから後進こうしん指導しどうには定評ていひょうがあり、おおくのすぐれた歌人かじんそだてている。会員かいいんは、山梨やまなし県内けんないはもとより近隣きんりんしょけんおよ台湾たいわん支部しぶもうけられた。 1964ねん昭和しょうわ39ねん)7がつ、『美知みちおもえ30周年しゅうねん記念きねん臨時りんじ増刊ぞうかんごう』には、会員かいいんすう517めい名簿めいぼ掲載けいさい名実めいじつともに昭和しょうわにおける山梨やまなし県内けんない最大さいだい短歌たんか結社けっしゃとなった。会員かいいん寄稿きこうからは、飄逸ひょういつとしてじょうふかなまさら人柄ひとがらうかがえる。 1972ねん昭和しょうわ47ねん)、甲府こうふ自宅じたくにて88さい他界たかい

なまさら死後しご美知みちおもえ」は、さらに発展はってん会員かいいんすう650めい(『甲州こうしゅう文学ぶんがく奥山おくやまただしのりちょ)にたっし、昭和しょうわ61ねん11がつごうだしえいしゃやく400めいとなっている。しかし、同年どうねん選者せんじゃ大森おおもり光子みつこ急逝きゅうせいとらえて、もと新聞しんぶん記者きしゃ歌人かじん(『山梨やまなし歌人かじん発行はっこうじんえいしゃ29めい)がどう新聞しんぶん歌壇かだん選者せんじゃのポストから「美知みちおもえ」をはずした。このことにより新入しんにゅう会員かいいんり、短歌たんか人口じんこう減少げんしょうとう時代じだい趨勢すうせいなどもあいまって、その美知みちおもえ」は徐々じょじょ会員かいいんすうり、2018ねん平成へいせい30ねん)にはおわりかんとなる。83年間ねんかんながきにわたり発行はっこうされた同人どうじん全国ぜんこくてきにみてもまれであり、山梨やまなしけん短歌たんかかいおおきな足跡あしあとのこした。『山梨やまなしけん』19かんの「短歌たんか」のこうには、伊藤いとうなまさら21しゅ山崎やまざき方代ほうだい12しゅとう県内けんない出身しゅっしん主要しゅよう歌人かじん短歌たんかかかげられている。ちなみになまさら長男ちょうなんは、夭折ようせつ歌人かじん伊藤いとう健一けんいちで、短歌たんか結社けっしゃ「みづがき」が中村なかむら美穂みほせんによる『伊藤いとう健一けんいち歌集かしゅう』(昭和しょうわ8ねん)を出版しゅっぱんしている。

りゃく年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1884ねん明治めいじ17ねん)…北巨摩きたこまぐん穴山あなやまむらげん北巨摩きたこまぐん韮崎にらさき穴山あなやままち3385番地ばんち)にまれる。さんにんいもうとがいる。
  • 1906ねん明治めいじ39ねん)…山梨やまなし師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう北巨摩きたこまぐん穴山あなやま尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう訓導くんどう
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)..山梨やまなし師範しはん学校がっこう付属ふぞく小学校しょうがっこう訓導くんどう(『あゆみ』44、395ぺーじ山梨大学やまなしだいがく付属ふぞく小学校しょうがっこう発行はっこう)。
  • 1908ねん明治めいじ41ねん)…甲府こうふ転居てんきょ
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)…森田もりた銀次ぎんじろう・ふゆの次女じじょはな(『山梨やまなしけん』19かん、495ぺーじ)と結婚けっこん
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん)…西にし山梨やまなしぐん山城やましろ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう訓導くんどうけん校長こうちょう
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん)…南都留みなみつるぐん視学しがく指導しどう主事しゅじ)。
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん)…東山梨ひがしやまなしぐん視学しがく
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)…山梨やまなし師範しはん学校がっこう嘱託しょくたく教師きょうしとなる。教科書きょうかしょ掲載けいさいされていた斎藤さいとう茂吉しげよしうた感銘かんめいけ、余生よせいうたきようと決心けっしんする。
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん)…短歌たんか結社けっしゃ「アララギ」入会にゅうかい斎藤さいとう茂吉しげよし師事しじする。
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん)…短歌たんか雑誌ざっし美知みちおもえ」を創刊そうかん主宰しゅさいする。山梨やまなし師範しはん学校がっこう嘱託しょくたくす。
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)…山梨やまなしけん教育きょういくかい機関きかん山梨やまなし教育きょういく』の編集へんしゅう委員いいんとなる。
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん)…『山梨やまなし教育きょういく編集へんしゅう発行はっこう責任せきにんしゃとなる。『紀元きげんせんろくひゃくねん記念きねん山梨やまなしけん教育きょういくかい昭和しょうわ16ねん発行はっこう
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)…山梨やまなしけん教育きょういくかい解散かいさん山梨やまなしけん教育きょういく会館かいかん維持いじ財団ざいだん理事りじちょう辞任じにん(『甲府こうふ教育きょういくひゃくねん』342ぺーじ)。
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん)…山梨放送やまなしほうそう(ラジオ山梨やまなし)と山梨やまなしにちにち新聞しんぶん短歌たんか選者せんじゃとなる。
  • 1972ねん昭和しょうわ47ねん)…老衰ろうすいにて死去しきょ。88さいぼつ

歌集かしゅう[編集へんしゅう]

  • 草谷くさだに』 1936ねん昭和しょうわ11ねん
  • 柴山しばやま』 1951ねん昭和しょうわ26ねん
  • やまくも』 1953ねん昭和しょうわ28ねん
  • 甲斐かいくに』 1965ねん昭和しょうわ40ねん

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 茂吉しげよし秀歌しゅうか鑑賞かんしょう』 1959ねん昭和しょうわ34ねん
  • 作歌さっかどう』 1949ねん昭和しょうわ24ねん

歌碑かひ[編集へんしゅう]

甲府こうふ夢見ゆめみ山中さんちゅうはら
 きたかた(かた)よりこま鳳凰ほうおうのうとりうつゆき高山たかやま
甲府こうふつつじヶさき霊園れいえん
 たにみちのぼりきたれるまなしたにあめのにごりの草谷くさだにをゆく
きたもり白州はくしゅうまち総合そうごう会館かいかん
 はるあらし(け)ならべけば駒ヶ嶺こまがみねみねこもらふ昨日きのう今日きょう
韮崎にらさき穴山あなやままちさくら公園こうえん
 南風みなみかぜきのぼりくる柴山しばやまぶきはゆらぐひかりみだして

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • なまさら短歌たんか鑑賞かんしょう中島なかじま雪子ゆきこちょ 1983ねん
  • 山梨やまなし歌人かじんたち』 中沢なかざわ玉恵たまえちょ 2006ねん
  • 山梨やまなし文芸ぶんげい研究けんきゅうはく倉一くらいちゆかりちょ 2009ねん
  • 甲府こうふ通史つうしへん だいさんかん 306ぺーじ、448ぺーじ、899ぺーじ、928ぺーじだいよんかん 518ぺーじ、 資料しりょうへん だいななかん 現代げんだい1 761ぺーじだいはちかん 871ぺーじ、  甲府こうふ編纂へんさん委員いいんかい 1990ねん
  • 山梨やまなしけん通史つうしへん だいろくかん 329ぺーじ、538ぺーじ資料しりょうへん じゅうきゅうかん 490ぺーじ、1225ぺーじ、1264ぺーじ別冊べっさつ山梨やまなしけん教育きょういくかい機関きかんそう目次もくじ昭和しょうわ11ねんから編集へんしゅうしゃとなる。山梨やまなしけん発行はっこう 2002ねん