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佐藤さとう良二りょうじ

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佐藤さとう 良二りょうじ(さとう りょうじ、1929ねん8がつ3にち - 1977ねん1がつ25にち)は、きゅう国鉄こくてつバス車掌しゃしょう名古屋なごやから金沢かなざわまでをむすめいかね急行きゅうこうせん路線ろせん沿いにさくらつづけ、「太平洋たいへいよう日本海にほんかいさくらむすぶ」というゆめ実現じつげん尽力じんりょくした。

来歴らいれき

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岐阜ぎふけん郡上こおりかみぐん白鳥しらとりまちげん郡上こおりかみ出身しゅっしん1953ねん国鉄こくてつ入社にゅうしゃし、美濃みの白鳥しらとり自動車じどうしゃJR東海とうかいバス美濃みの白鳥しらとり営業えいぎょうしょ<現在げんざい廃止はいし>)に配属はいぞくきん急行きゅうこうせん車掌しゃしょうとなる。

御母衣みぼろダム建設けんせつともない、水没すいぼつ地区ちくにあるさくら移植いしょく撮影さつえい記録きろくすることを移植いしょく作業さぎょう助力じょりょくした愛知あいちけん豊橋とよはし造園ぞうえん業者ぎょうしゃにわせい造園ぞうえん丹羽にわ政光まさみつから依頼いらいされる。そのなかで、そのさくらめいかね急行きゅうこうせん路線ろせん沿いに移植いしょくされた荘川しょうかわさくらふたた開花かいかしたとき花見はなみていた老婦ろうふさくらみきなみだながらにきついているのを目撃もくげきし、それにより佐藤さとうしんうごかされ、1966ねんころよりきん急行きゅうこうせん道路どうろ沿いにさくらはじめる。以後いご余暇よか苗木なえぎ手入ていれや植樹しょくじゅついやし、生涯しょうがいえるまでにやく2,000ほんさくらえたとわれる。

1977ねん1がつ25にち血管けっかん免疫めんえきだませいリンパぶししょうのため47さい死去しきょ

植樹しょくじゅ活動かつどう影響えいきょう

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かれ活動かつどうは、御母衣みぼろダムさくら移植いしょく記録きろく撮影さつえいになったことで、日本にほんさくらのかいから表彰ひょうしょうされたことや、生前せいぜんから新聞しんぶんやテレビでげられていたが、全国ぜんこくてき有名ゆうめいになったのはかれ死後しごかれ活動かつどう国語こくご教科書きょうかしょげられたことがおおきい。また、かれ手記しゅきもと中村なかむらただしともが『さくらどう』を出版しゅっぱん1994ねんには、このほん原作げんさくとし、神山かみやま征二郎せいじろう監督かんとくつとめた映画えいがさくら』が公開こうかいされ、佐藤さとうやく篠田しのだ三郎さぶろうえんじた。2009ねんには『さくらどう』のタイトルでテレビドラマよみうりテレビ制作せいさく)され、緒形おがた直人なおと佐藤さとうやくえんじている。また1994ねん名古屋なごやじょうからけんろくえんまでを2にちがかりで走破そうはする、だい1かいさくらどう国際こくさいネイチャーラン開催かいさいされ、2024ねん大会たいかいまで毎年まいとし4がつ下旬げじゅんおこなわれていた。[1]

生活せいかつ評判ひょうばん

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佐藤さとうについて一般いっぱんてきには、さくら撮影さつえいから感動かんどうして休暇きゅうか植樹しょくじゅついやした、といった「美談びだん」がおおいが、生活せいかつけっしてらくではなかった。国鉄こくてつ給料きゅうりょうだけではやっていけず、家計かけいささえるうえ自宅じたく民宿みんしゅくにして営業えいぎょうしていた。また、一緒いっしょさくらえにった運転うんてんはなしだと、かれ給料きゅうりょうをほとんどさくらにつぎんでいたこと、どう時期じき体調たいちょうくずしがちでやまいきゅうおおいことも、給料きゅうりょう反映はんえいされていた。そんな状態じょうたい家庭かていかえりみないでさくら世話せわをすることにたいするつま苛立いらだちは、映画えいがさくら』でもえがかれている。

それでも、めい金線きんせんかれなしにはかたれない。実際じっさい没後ぼつご30ねんちかくなっても、沿線えんせんでは「国鉄こくてつりょうちゃんをらんものはおらん」といわれるくらいであった。また、めい金線きんせん廃止はいしとき美濃みの白鳥しらとりえきでは、白鳥しらとりまち当時とうじ)によるセレモニーがおこなわれ、町長ちょうちょうかれ功績こうせきたたえていた。

その自宅じたく民宿みんしゅく「てんご」だが、現在げんざいでも営業えいぎょうしている。郡上こおりかみ白鳥しらとり地区ちくはスキーじょうおおく、冬季とうき学生がくせい合宿がっしゅくに、夏季かき建設けんせつ現場げんば飯場はんば宿舎しゅくしゃわりに利用りようされている。映画えいが『さくら』撮影さつえいにもスタッフの撮影さつえい基地きちとして使つかわれた。出演しゅつえんしたキャストのサイン色紙しきし館内かんない展示てんじされている。

現役げんえき車掌しゃしょう佐藤さとう人柄ひとがらどもきであり「ぼく、どこへくんよ。はらっとらんか。」などとはなしかけることもおおかったという。国鉄こくてつバスの輪禍りんか子供こども死亡しぼうしたとき、国鉄こくてつ職員しょくいん制服せいふく通夜つや参列さんれつしていた佐藤さとうが、ひときわ目立めだ嗚咽おえつにむせんでいたという。(佐藤さとう後輩こうはい佐藤さとう現役げんえき車掌しゃしょう時代じだい子供こどもであったもの回想かいそうでん

なお佐藤さとうについてはことなったつてもあり、映画えいが『さくら』を監督かんとくするさい神山かみやま征二郎せいじろう生前せいぜん佐藤さとう同僚どうりょう同級生どうきゅうせい取材しゅざいしたところ、佐藤さとう人柄ひとがらについてめるひとはおらず、へそがりな変人へんじんだというはなしけたという[2]

出典しゅってん

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  1. ^ 「ありがとう、さくらどう」30ねん歴史れきしまく 名古屋なごやから郡上こおりかみへ、感謝かんしゃの110km
  2. ^ 神山かみやま征二郎せいじろうまれたら戦争せんそうだった。 映画えいが監督かんとく神山かみやま征二郎せいじろう自伝じでん』シネ・フロントしゃ、2008ねん、pp.219-221

関連かんれん項目こうもく

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