(Translated by https://www.hiragana.jp/)
僕散思恭 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ぼくおもえきょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ぼく おもえきょう(ぼくさん しきょう、? - 1161ねん)は、きむおんなしんぞく貴族きぞく軍人ぐんじん。もとのゆるがせ熙宗ころした10にん一人ひとりである。もとりょうおうそうみき家臣かしん

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

出身しゅっしん貧寒ひんかんであり、そうみき抜擢ばってき武将ぶしょうとなった。そうみき死後しごはボディーガードのちょう一人ひとりとしてひろしむねつかえていた。そうみき次男じなんであるすすむ乃(うみりょうおう)から皇帝こうてい弑逆しいぎゃくはなしされると同僚どうりょうとはちがって躊躇ためらっていたが、すすむ乃から「きみちから必要ひつようなんだ」と結局けっきょく口説くどとされた。皇統こうとう9ねん12月9にち西暦せいれきで1150ねん)の熙宗の弑逆しいぎゃくでは熙宗の寝殿しんでん侵入しんにゅうする一団いちだんくわわり、侵入しんにゅうしゃました熙宗の叱咤しった一同いちどうおびえるなかぼくゆるがせは「ことここにいたってはめられるものか」とい、寝室しんしつ佩刀はかせかくされ丸腰まるごしでいた熙宗にりつけた。その去就きょしゅうさだまらないたいらあきら政事せいじかんがお秉徳おどして味方みかたにつけ、うみりょうおうされた曹王そうさとし(熙宗とうみりょうおう叔父おじ)を殺害さつがいした。

うみりょうおう即位そくいするとひだりふく点検てんけんとなり、ぼくおもえきょう改名かいめいされ、多大ただいなる財貨ざいかあたえられた。貞元さだもと3ねん(1154ねん)、みぎ丞相じょうしょう任命にんめいされた。正隆まさたか年間ねんかんふとしじょうくるる密使みっしとなり、軍事ぐんじ要職ようしょく歴任れきにんした。

正隆まさたか6ねん(1161ねん)8がつうみりょうおうみなみそう討伐とうばつくわだてた。嫡母ちゃくぼ皇太后こうたいごうたんそうみき正妻せいさい)はうみりょうおうに諫言したが、うみりょうおうに「おまえははではない、そう国王こくおうわらわだ」[1]ののしられた。その皇太后こうたいごう侍女じじょ高福たかふくむすめ[2]うみりょうおうに「皇太后こうたいごうだいおう[3]家族かぞく通謀つうぼうしている」とみつほうした。このころぼくおもえきょうちぎり遠征えんせいしたが、そのさいぼくおもえきょう皇太后こうたいごうへのべつ挨拶あいさつながかったため、うみりょうおう猜疑心さいぎしんいた。うみりょうおうは、皇太后こうたいごうみなみそう討伐とうばつじょうじて自身じしん廃立はいりつたくらんでいるとうたがい、皇太后こうたいごうころした。だいおう男子だんしのうち2にんったが、2人ふたりころされた。ぼくおもえきょうちぎりから召還しょうかんされ、すぐさま一族いちぞくもろとも処刑しょけいされた。そのときくちなわおおわれてしゃべれないようにしてからられたという。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 大金たいきんこくこころざし
  2. ^ 高福たかふくむすめちょうこうけ、うみりょうおう細作さいさくとなった。
  3. ^ りょうおうはじめみき長男ちょうなんで、うみりょうおう異母いぼけい神土かんど懣。当時とうじすでに故人こじんであったが、4にん男子だんしがあった。

伝記でんき資料しりょう

[編集へんしゅう]