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出澤すざわさんふとし

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出澤すざわ さんふとし(でざわ さんた、1917ねん12月25にち - 1985ねん5月17にち)は、俳人はいじん筆名ひつめい出澤すざわ珊太ろう。SF作家さっかほし新一しんいち異母いぼけい

生涯しょうがい

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ほしいち庶子しょしとして東京とうきょうしば琴平ことひらまちげん東京とうきょうみなととらもん1丁目ちょうめ)にまれ、長野ながのけん北佐久きたさくぐん出澤すざわ夫妻ふさい息子むすことして入籍にゅうせきされ、生後せいごまもなく六本木ろっぽんぎ医師いし家庭かていあづけられてそだつ。麻布まふ小学校しょうがっこうから麻布あざぶ中学校ちゅうがっこうすすみ、中村なかむら草田男くさたお知遇ちぐうたことがきっかけで、中学ちゅうがく在学ざいがくちゅう俳句はいくはじめる。

水戸みと高等こうとう学校がっこう在学ざいがくちゅうみずだか俳句はいくかい創設そうせつする。このころ中村なかむら草田男くさたお竹下たけしたしづのじょ(じょ)の指導しどうによる成層圏せいそうけん句会くかい会員かいいんとなる。1939ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ入学にゅうがく1942ねん大学だいがく卒業そつぎょうして臨時りんじ召集しょうしゅうけ、近衛このえあゆみへいだい3連隊れんたい入営にゅうえい陸軍りくぐん中尉ちゅういとして広島ひろしまけん宇品うじな陸軍りくぐん船舶せんぱく司令しれい通称つうしょうあかつき部隊ぶたい)に赴任ふにんする。広島ひろしま原爆げんばく投下とうかされたさいにはあかつき部隊ぶたい一員いちいんとして遺体いたい処理しょり救援きゅうえん活動かつどう従事じゅうじした。

敗戦はいせんともない、1945ねん9月に召集しょうしゅう解除かいじょされて復員ふくいんする。ほしいちによりほし食糧しょくりょうひん株式会社かぶしきがいしゃ経営けいえいまかされ、同社どうしゃ経営けいえい軌道きどうせる。1948ねん9月、ほし製薬せいやく取締役とりしまりやくとしてむかえられたが、詐欺さぎってほし食糧しょくりょうひん株式会社かぶしきがいしゃ手放てばなすことを余儀よぎなくされ、1949ねん12月にはほし製薬せいやく取締役とりしまりやく役職やくしょくからも退任たいにんし、以後いご二度にどほし製薬せいやくとは関係かんけいたなかった。出澤すざわ後任こうにんとしてほし製薬せいやく取締役とりしまりやく営業えいぎょう部長ぶちょう就任しゅうにんしたのがほし新一しんいちだった。

その警察けいさつ予備よびたい勤務きんむ川崎かわさきほし製作所せいさくしょ設立せつりつする。日立製作所ひたちせいさくしょ下請したうけとしてマイクロスイッチ部品ぶひん製作せいさくしていたが倒産とうさんし、東京とうきょう渋谷しぶや俳句はいく雑誌ざっしなどを刊行かんこうする出版しゅっぱんしゃほし書房しょぼう」と不動産ふどうさん会社かいしゃ設立せつりつした。

俳人はいじんとしては中村なかむら草田男くさたお萬緑ばんりょく(ばんりょく)創刊そうかんたすけたほか水戸みとだかの1学年がくねん在籍ざいせきしていた親友しんゆう金子かねこ兜太こうたたちと同人どうじん俳誌はいし青銅せいどう」を発刊はっかんする。1962ねん4がつ金子かねこ創刊そうかんした「うみほど」に発行はっこうじんとして参加さんかする。晩年ばんねんは「すずかけ」の主宰しゅさいしゃとして活動かつどうした。

趣味しゅみとし、異母弟いぼていほし新一しんいちつこともあった。

長男ちょうなん出澤すざわけんふとしは、日本アイ・ビー・エム勤務きんむし、執行しっこう役員やくいんつとめた。

参考さんこう文献ぶんけん

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