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せん宗旦そうたん

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せん 宗旦そうたん(せん の そうたん、せん そうたん、1578ねん2がつ7にち天正てんしょう6ねん1がつ1にち) - 1659ねん1がつ11にち万治まんじ元年がんねん12月19にち)は茶人ちゃじんちち利休りきゅう後妻ごさいせんはじめおんせんしょうあんはは利休りきゅうむすめかめであり、しょうあんきょうせんいえいだ。千家せんげ3だい宗旦そうたんりゅうさんせんいえ)の

近年きんねん研究けんきゅうにより、利休りきゅう実子じっしせんみちやすちちとするせつ否定ひていされた。また、古市ふるいちはじめあんにより利休りきゅう本来ほんらい所作しょさまなんだというせつもある。

経歴けいれき

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1578ねん天正てんしょう6ねん)、しょうあんとしてまれた宗旦そうたんは、10さいころ祖父そふ利休りきゅう希望きぼう大徳寺だいとくじかつしょくとしてあづけられる。ちちしょうあん利休りきゅう後妻ごさいだったことから、家督かとくあらそいをけるために仏門ぶつもんれられたとわれている。はるむねえんのもとでぜん修行しゅぎょうみ、得度とくどした。

1594ねんぶんろく3ねん)、千家せんげ再興さいこうかなったことから、しょうあん希望きぼう還俗げんぞくし、弟子でしらとともに利休りきゅうりゅうわびちゃ普及ふきゅうつとめた(還俗げんぞく時期じきについては諸説しょせつある)。このさい豊臣とよとみ秀吉ひでよし利休りきゅうからげた茶道具ちゃどうぐ宗旦そうたん名指なざししてかえしたことから、伯父おじみちやすではなく宗旦そうたん利休りきゅう後継こうけいしゃされるようになったともわれている。しかし、ききである『茶話ちゃばなしゆびがつしゅう』の情報じょうほうであるため、確証かくしょうがあるわけではない(近年きんねん研究けんきゅうでは当時とうじ宗旦そうたん立場たちばがあまりつよくなかった実態じったいあきらかとなっている)。

1600ねん慶長けいちょう5ねんごろしょうあん隠居いんきょしたのにともない、家督かとくいだ。祖父そふ利休りきゅう豊臣とよとみ秀吉ひでよしにより自刃じじんまれたことから政治せいじとのかかわりをけ、生涯しょうがい仕官しかんしなかった。ちゃふう祖父そふ利休りきゅうのわびちゃをさらに徹底てっていさせ、ために乞食こじき修行しゅぎょうおこなっているように清貧せいひんであるという意味いみから、「乞食こじき宗旦そうたん」とばれたという。

しかし、子供こどもたちの就職しゅうしょくには熱心ねっしんで、長男ちょうなんむねつたな加賀かがはん前田まえだに、次男じなんそうまもる高松たかまつ松平まつだいらに、三男さんなんそうひだり紀州きしゅう徳川とくがわに、四男よつお宗室そうしつ加賀かがはん前田まえだつかえさせた。久田ひさたとの姻戚いんせき関係かんけい出来できたのも宗旦そうたん時代じだいである。

晩年ばんねんてたいちじょうだいやく2じょうひろさ)の茶室ちゃしつは、ちゃ精神せいしんあらわした究極きゅうきょく茶室ちゃしつとされている。

千家せんげ中興ちゅうこうとされ、毎年まいとし11月19にちには宗旦そうたんいとなまれる。

勘当かんどうされたむねつたなのぞく3にん息子むすこがそれぞれ武者小路むしゃのこうじ千家せんげ次男じなんいちおきな宗守むねもり)、表千家おもてせんけ三男さんなんこう岑宗ひだり)、裏千家うらせんけ四男よつおせん叟宗しつ)をおこした。これら3いえは、「さんせんいえ」として現代げんだいまでつづいている。

宗旦そうたん四天王してんのう

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宗旦そうたん門弟もんていなかで、とく活躍かつやくした4にん宗旦そうたん四天王してんのうという。

関連かんれん項目こうもく

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