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南唐書 (馬令) - Wikipedia コンテンツにスキップ

みなみとうしょ (うまれい)

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みなみとうしょ』(なんとうしょ)は、うまれいえらべぜん30かん

みなみとうしょ』はもとうまれいえびす恢・りくゆうさんいえがあった。うまれいつねしゅう宜興いいしんけんひとであり、その祖父そふうま元康もとやすなま前金まえきんりょう現在げんざい江蘇ちぁんすーしょう南京なんきん)にいて、みなみとうきゅうこと習熟しゅうじゅくそらんじていた。そう徽宗たかしやすし4ねん1105ねん)、うまれいは『みなみとうしょ』を撰述せんじゅつした。このしょは、『三国志さんごくし』「しょくしょ」のれいならい、さきぬししょ・嗣主しょおよびこうあるじしょき、そう5かん列伝れつでんは22かんある。めつこくでん2かん建国けんこく1かんは、もっぱらみなみとう35しゅうのことをしるす。

うまれいはまたおうおさむの『しんだい』の春秋しゅんじゅう筆法ひっぽうならい、巻首かんしゅ文末ぶんまつじょろんおおく「嗚呼ああ」ではじめるので、んでいくと読者どくしゃをうんざりさせる。後人こうじん評価ひょうかたかくなく、えびすふるえとおるは、「わたしはじめてうまれいの『みなみとうしょ』をれた。政治せいじはなしさけさかなにでもしようとおもっただけのことだ。りくゆうあらたに編纂へんさんした『みなみとうしょ』をれてみてこれをめば、正史せいし野史やしとはそれ自体じたいはるかにはなれていることがかる。もはやにせなどしてこれをいい加減かげんあつかうなどありえないことだ[1]」とっている。よしみやすし20ねん1541ねん)の姚咨の抄本しょうほんがある。きよしはつよん全書ぜんしょかんが『よん全書ぜんしょ』におさめた。

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ りくゆうみなみとうしょ』「みなみとうしょ題辞だいじ」(4ぺーじ)にえる:「 はじめてうまれいの『みなみとうしょ』を(う)、為政いせいもっさけだんさく(な)すべきのみ。りくゆうしんおさむせる『みなみとうしょ』を(え)るにおよんでこれれをめば、すなわ正史せいしひえかん 迥(はる)かにおのずからかかべつするをり、いまにせもっこれれをゆるがせ(ゆるが)せにするべからず(はじめとくれいみなみとうしょ》,以為政いせいさくしゅだんみみ。及得りくゆうしんおさむみなみとうしょ》讀之,乃知正史せいしひえかん迥自かかべつ以偽ゆるがせ。”)」。