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大塚おおつかどうあん

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大塚おおつか どうあん(おおつか どうあん、寛政かんせい7ねん1795ねん) - 安政あんせい2ねん5月30にち1855ねん7がつ13にち))は江戸えど時代じだい蘭学らんがくしゃ砲術ほうじゅつ指南しなんせんもんにしていた。

略歴りゃくれき人物じんぶつ

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1795ねん寛政かんせい7ねん)、幕臣ばくしんとして江戸えどまれる[1]江戸えど医学いがく大槻おおつきいわおさと玄幹げんかん)に、長崎ながさき蘭学らんがく西洋せいよう医学いがくならりんそうけんにそれぞれ師事しじし、1833ねん天保てんぽう4ねん)に江戸えど本所ほんじょ小梅こうめまち医院いいん開業かいぎょう[1]。また、このあいだ、1826ねん文政ぶんせい9ねん)にはシーボルトの江戸えど参府さんぷさいして7代目だいめ市川いちかわだんじゅうろうわせている。 1839ねん天保てんぽう10ねん)の蛮社のごくにおいては、渡辺わたなべ崋山かざんとの親交しんこうもあり、押込おしこ処分しょぶんけた[1]。また、高島たかしま秋帆しゅうはん西洋せいようじゅうたい演習えんしゅう参観さんかん関心かんしんった西洋せいよう砲術ほうじゅつ下曾根しもそねしんあつし師事しじし、1846ねんひろし3ねん)には江戸えど下谷しもたに三味線しゃみせんほりにて砲術ほうじゅつ指南しなん開始かいしした[1]。1855ねん安政あんせい2ねん)5がつ30にち死去しきょ享年きょうねん61さい[1]法号ほうごうふしいわおどうつな居士こじ[2]

は「勝蔵かつぞう」(または「あん」、通称つうしょう八郎はちろう」)、以後いご、「どうあん」(医者いしゃ開業かいぎょうしょうす)、「はちろう」(砲術ほうじゅつ指南しなん開始かいし改名かいめいあわせてごうを「瑪蜂」)と変遷へんせんした[1]。また別名べつめいとして「はちりょう」、べつごうとして「ほし臨堂」がある[3]

川原かわはら慶賀けいが交流こうりゅうらんくした。弟子でし大槻おおつき磐渓ばんけいはやしはちせんゆう西村にしむら茂樹しげきらがいる。

著作ちょさく

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  • うみかん瀾』青地あおち林宗りんそうじゅつ篠田しのだもとじゅんこう 文政ぶんせい10ねん(1827ねんじょ
  • えびす警雑ろく
  • ふね防禦ぼうぎょ建白けんぱくしょ
  • 遠西とおにし砲術ほうじゅつりゃくひろし3ねん(1846ねんかん[1]
  • よしみひさしおのれとり大屋おおやどうあん上書うわがきよしみなが2ねん(1849ねんかん
  • よしみえいかのえいぬ大屋おおやどうあん上書うわがきよしみなが3ねん(1850ねんかん
  • 『熕砲しゃ擲表やくよしみなが6ねん(1853ねんかん
  • 『粧台あいだ
  • 東西とうざいじゅう炮論』
  • かずらん官軍かんぐん抜隊りゅう学校がっこう全書ぜんしょやく安政あんせい3ねん(1856ねんかん[1]
  • じゅうやく起原きげんこう
  • 『瑪蜂さきおく雑記ざっき
  • 『瑪蜂随筆ずいひつ
  • らんやくよんじゅうはち引』

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h 武内たけうちひろし 1994.
  2. ^ 国書こくしょ人名じんめい辞典じてんだい1かん、332ぺーじ
  3. ^ 大塚おおつか, どうあん, 1795-1855”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん典拠てんきょデータ検索けんさく提供ていきょうサービス. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2021ねん11月13にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 市古いちこ貞次ていじ監修かんしゅう国書こくしょ人名じんめい辞典じてんだい1かん 岩波書店いわなみしょてん、1993ねん
  • 武内たけうちひろし ちょ武内たけうちひろし へん日本にっぽん洋学ようがく人名じんめい事典じてん柏書房かしわしょぼう、1994ねん7がつ1にち、79ぺーじISBN 4-7601-1104-2 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 佐藤さとうあきらかい洋学ようがく研究けんきゅう序説じょせつ -洋学ようがく封建ほうけん権力けんりょく岩波書店いわなみしょてん、1964ねん
  • 佐藤さとうさかえななへん日本にっぽん洋学ようがく編年史へんねんしにしきせいしゃ、1965ねん
  • 秀三しゅうぞう 『シーボルト先生せんせいその生涯しょうがい功業こうぎょうさん平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ、1968ねん