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奥山おくやま義章よしあき

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奥山おくやま 義章よしあき
おくやま ぎしょう/よしあき
矢部やべ信太郎しんたろう へん近代きんだい名士めいし面影おもかげ だいいちしゅう
生誕せいたん よしみひさし3ねん11月29にち
1851ねん1がつ1にち
愛媛えひめけん 北宇和きたうわぐん 吉田よしだまち
死没しぼつ 明治めいじ45ねん1912ねん7がつ5にち
愛媛えひめけん 北宇和きたうわぐん 吉田よしだまち
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1872ねん - 1909ねん
兵科へいか 歩兵ほへい
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん少将しょうしょう
勲章くんしょう くんさんとう
出身しゅっしんこう 陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこう
除隊じょたい 教育きょういく
墓所はかしょ 一乗寺いちじょうじ (宇和島うわじま)
テンプレートを表示ひょうじ

奥山おくやま 義章よしあき(おくやま ぎしょう/よしあき、よしみひさし3ねん11月29にち1851ねん1がつ1にち〉 - 明治めいじ45ねん1912ねん7がつ5にち)は日本にっぽん軍人ぐんじん歩兵ほへい大佐たいさ大日本帝国だいにっぽんていこくだい4ぐん歩兵ほへい大佐たいさとして活躍かつやくしたのち郷里きょうり教育きょういくにもちからくした。別称べっしょう義章よしあき(ぎしょう)。位階いかいせい

生涯しょうがい

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よしみなが3ねん(1851ねん)に、愛媛えひめけん吉田よしだまちまれる。

明治めいじ5ねん1872ねん)に、東京とうきょう陸軍りくぐん教導きょうどうだんはいる。その明治めいじ12ねん1879ねん)に、えらばれて陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこう入学にゅうがく明治めいじ25ねん1892ねん)には、陸軍りくぐん少佐しょうさにんぜられる。明治めいじ27ねん1894ねん)に、にちしん戦争せんそう出征しゅっせいし、まんしゅうこくたたかう。その功績こうせきから、明治めいじ36ねん1903ねん大阪おおさか司令しれいかんせられ、大佐たいさ任命にんめいされたが、のち後備こうびやく編入へんにゅうさせられた。しかし、翌年よくねん明治めいじ37ねん1904ねん)のにち戦争せんそうふたた出征しゅっせいだい4ぐん歩兵ほへい大佐たいさ任命にんめいされた。また、戦後せんご義章よしあき功績こうせきから、少将しょうしょうにも任命にんめいされた。明治めいじ42ねん1909ねん)に、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん退役たいえき

郷里きょうりかえり、教育きょういくとして活躍かつやく。3ねん明治めいじ45ねん1912ねん)に、やまいにより逝去せいきょ

略歴りゃくれき

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 矢部やべ信太郎しんたろうへん近代きんだい名士めいし面影おもかげ だいいちしゅう竹帛ちくはくしゃ、1914ねん