はじめとくきよし

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はじめとくきよし(メンテム、モンティムール、満州まんしゅう:ᡩᡠᡩᡠ
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転写てんしゃ:dudu mengtemu、漢字かんじ表記ひょうきもう哥帖木耳きくらげはじめ哥帖)は、清朝せいちょう宗室そうしつあいしんさとし)の遠祖えんそとされる伝説でんせつじょう人物じんぶつ清朝せいちょうでははじめ祖原そはら皇帝こうてい(deribuhe mafa da hūwangdi)と追号ついごうされている。

概略がいりゃく[編集へんしゅう]

清朝せいちょう所伝しょでんによるとみやこただしはじめとくきよし(dudu mengtemu)としょうし、らんけてオドリ・ヘチェン(ᠣᡩᠣᠯᡳ
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, odoli hecen, 鄂多さとじょう)から亡命ぼうめいしたファンチャ(ᡶᠠᠨᠴᠠ, fanca、樊察、凡察)の子孫しそんということになっている。知略ちりゃくにとみ、祖先そせんかたきちのためにきゅうてき子孫しそん40すうめいをオドリ(odoli、鄂多さと)の西方せいほう1500さとヘトゥアラ(hetu ala、赫図おもねひしげ奉天ほうてんしょうきょうきょうろうしろ)にさそい、半分はんぶんころ半分はんぶん人質ひとじちとした。さらにらえられていた同族どうぞく釈放しゃくほう要求ようきゅうし、部族ぶぞくひきいて旧領きゅうりょう回復かいふくしヘトゥアラに居住きょじゅうするようになったという。

これらの伝説でんせつのもとになったのは、明朝みょうちょう朝鮮ちょうせん記録きろくえるおんなしんぞくはじめ哥帖推測すいそくされる。イラン・トゥメン(ilan tumen、うつりらんまめ漫)の一部いちぶであるオドリ(ᠣᡩᠣᠯᡳ, odoli、鄂多さと、斡朶さと)の城主じょうしゅであり、ひろしたけ24ねん1391ねんごろに斡木かわ現在げんざいかいやすし)にはいり、永楽えいらく4ねん1406ねんごろけんしゅうひだりまもる指揮しき使任命にんめいされた。朝鮮ちょうせん記録きろくではその一族いちぞくは「わらわ」としてられ、清朝せいちょう記録きろくでは「佟氏」である。

朝鮮ちょうせん記録きろくは『満州まんしゅう実録じつろく』(ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ
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ᡴᠣᠣᠯᡳ
, manju i yargiyan kooli)などの記載きさい矛盾むじゅんし、たとえばはじめとくきよし祖先そせんであるはずのファンチャはおとうとで、はじめとくきよしてきころされたときあやうくびたとつたえる。漢学かんがくしゃ中島なかじまは、オドリのおんな真人しんじん朝鮮ちょうせん当時とうじ記録きろくのこされ、そうした記録きろくがない満州まんしゅうじんつてより信頼しんらいけるとかんがえた[1]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 中島なかじま竦『清朝せいちょう史談しだん』(1918ねん善隣ぜんりん書院しょいん
  • 対校たいこうせいふとし実録じつろく』(1974ねん国書刊行会こくしょかんこうかい
  • 稲葉いなば岩吉いわきち清朝せいちょうぜん』(1914ねん早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん
  • おしどりふちいち明代あきよじょじきの兀良哈三まもる」(1938ねん平凡社へいぼんしゃ世界せかい歴史れきし大系たいけい』より)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 中島なかじま竦『清朝せいちょう史談しだん善隣ぜんりん書院しょいん、1918ねん、P.46-52ぺーじ