(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宇野主水 - Wikipedia コンテンツにスキップ

宇野うのしゅみず

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇野うの しゅみず(うの もんど、なま没年ぼつねんしょう)は、16世紀せいき後期こうき本願寺ほんがんじ門主もんしゅ顕如けんにょつかえた右筆ゆうひつ[1][2][3]。『宇野うのしゅみず日記にっき』をしるしたことでられる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

宇野うのしゅみず日記にっき記載きさい事項じこう以外いがいられている事績じせきおおくない[3]顕如けんにょ側近そっきんとしてつかえており[3]天正てんしょう8ねん(1580ねん)には、石山いしやま合戦かっせん講和こうわのため織田おだ信長のぶなが顕如けんにょわした文書ぶんしょ一時いちじ保管ほかんした[1][4]

天正てんしょう11ねん(1583ねん)7がつ4にち顕如けんにょ貝塚かいづか到着とうちゃく(これより「貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき」の記録きろくはじまる)[5]

天正てんしょう13ねん(1585ねん)8がつ25にち貝塚かいづか私宅したくはらい、秀吉ひでよしから寺地てらちあたえられた大坂おおさか郊外こうがい摂津せっつ中島なかじま天満てんま本願寺ほんがんじ)に顕如けんにょらとともに移転いてん[6]

きょう東本願寺ひがしほんがんじ)に側近そっきんとしてつかえた[7]宇野うの新蔵しんくら[8]新蔵しんくら本願寺ほんがんじ記録きろくとして『宇野うの新蔵しんくら覚書おぼえがき』をのこした。

宇野うのしゅみず日記にっき

[編集へんしゅう]

宇野うのしゅみず日記にっき(うのもんどにっき)は、宇野うのしゅみずしるした天正てんしょう8ねん(1580ねん)から天正てんしょう14ねん(1586ねん)までの記録きろく

書誌しょし

[編集へんしゅう]

宇野うのしゅみず日記にっき』は以下いか3しゅ記録きろく総称そうしょうである[9]題名だいめいは『大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう』による[注釈ちゅうしゃく 1])。

さぎもり日記にっき
天正てんしょう8ねん(1580ねん)4がつから天正てんしょう11ねん(1583ねん)6がつまで。紀伊きいこくさぎもり御坊ごぼうでの記録きろく[9]べつだい天正てんしょう日記にっき[9]
天保てんぽう14ねん(1843ねん)に西本願寺にしほんがんじ書庫しょこからあかし如の日記にっき(『天文てんもん日記にっき』。べつだいに「あかし如上じょじょうじん日記にっき」など)とともに発見はっけんされた[11]本文ほんぶん天正てんしょう10ねん(1582ねん正月しょうがつはじまり天正てんしょう11ねん(1583ねん)4がつまでがおおむねとき系列けいれつ沿ってしるしてあるが、「前後ぜんご次第しだい不同ふどう」「前後ぜんごろんおもえ次第しだいちゅう」として順不同じゅんふどう追記ついきがある[11]
貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき
天正てんしょう11ねん(1583ねん)7がつから天正てんしょう14ねん(1586ねん)11がつまで。和泉いずみこく貝塚かいづか御坊ごぼう[9]および大坂おおさか天満てんま本願寺ほんがんじでの記録きろくべつだい顕如けんにょ上人しょうにん貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき[9]、「貝塚かいづか天満てんまうつり[5]、「宇野うのしゅみず[11]
真宗しんしゅう大谷おおや東本願寺ひがしほんがんじ所蔵しょぞう[12]
貝塚かいづか御座所ござしょ雑記ざっき
上記じょうきおな時期じき記録きろく[9]べつだい顕如けんにょ上人しょうにん貝塚かいづか御座所ござしょ雑記ざっき[9]、「雑記ざっき[9]
真宗しんしゅう大谷おおや東本願寺ひがしほんがんじ所蔵しょぞう[12]

明治めいじ時代じだい近藤こんどうびんじょうによって編纂へんさんされた『改定かいてい史籍しせきしゅうらん[注釈ちゅうしゃく 2]に「貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき」の部分ぶぶんが「宇野うのしゅみず」として収録しゅうろくされている。底本ていほん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく所蔵しょぞう写本しゃほんで、もとは貝塚かいづか医家いかである新川しんかわ所蔵しょぞうしていたものをうつしたものであるという[8]

1926ねん本願寺ほんがんじ津村つむら別院べついん刊行かんこうした『津村つむら別院べついん[注釈ちゅうしゃく 3]に「さぎもり日記にっき」が翻刻ほんこく収録しゅうろくされた。このさい、それまで「天正てんしょう日記にっき」としょうされていたこの史料しりょうに「さぎもり日記にっき」のタイトルがけられた[11]

1930ねん刊行かんこうされた『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき[注釈ちゅうしゃく 4]に「さぎもり日記にっき」「顕如けんにょ上人しょうにん貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき」「雑記ざっき」として収録しゅうろくされている。『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき』はこれら宇野うのしゅみず日記にっきのほか、あかし日記にっきである「あかし如上じょじょうじん日記にっき天文てんもん日記にっき)」、じつしたがえ蓮如れんにょ末子まっし)の日記にっきである「私心ししん」、および「あかし如上じょじょうじん書札しょさつあん」「顕如けんにょ上人しょうにん文案ぶんあん」をおさめた史料しりょうしゅうである。北西ほくせいひろしへん真宗しんしゅう史料しりょう集成しゅうせい だい3かん 一向いっこう一揆いっき』(同朋どうほうしゃ、1979ねん)に『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき全体ぜんたい収録しゅうろくされている[13]

近年きんねん刊本かんぽんでは、2016ねん刊行かんこうされた『大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう 文書ぶんしょ記録きろくへん14 東西とうざい分派ぶんぱ』(法蔵館ほうぞうかん)に「さぎもり日記にっき」「貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき」「貝塚かいづか御座所ござしょ雑記ざっき」として収録しゅうろくされている[10]

内容ないよう

[編集へんしゅう]

顕如けんにょ石山いしやま本願寺ほんがんじ退去たいきょ(1580ねん)、本能寺ほんのうじへん(1582ねん[注釈ちゅうしゃく 5]豊臣とよとみ秀吉ひでよし紀州きしゅう征伐せいばつ関白かんぱく就任しゅうにん(1585ねん)、顕如けんにょ天満てんま本願寺ほんがんじへの移動いどう(1585ねん)といった出来事できごとのあった時期じき記録きろくである。激動げきどうする政治せいじ情勢じょうせい[3]門主もんしゅ一族いちぞく内部ないぶ対立たいりつ[3]といった政治せいじてき記録きろくのほか、さまざまな風説ふうせつ[注釈ちゅうしゃく 6]や、災害さいがい[注釈ちゅうしゃく 7]なども記録きろくする。

顕如けんにょ側近そっきんとして豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすをはじめとするおおくの武将ぶしょうや、千利休せんのりきゅう今井いまい宗久そうきゅうさかい商人しょうにんとも交渉こうしょう[1]、「音信いんしん」「御礼おれい」といった名目めいもくでさまざまな物品ぶっぴん贈答ぞうとうおこなった[3]。また、さいわいわかまいのう茶会ちゃかい記録きろくなど、文化ぶんかめんでも注目ちゅうもくされる[3]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本にっぽんこう辞典じてん』「宇野うのしゅみず日記にっき」のこうでは『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき』でされた「さぎもり日記にっき」「顕如けんにょ上人しょうにん貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき」「雑記ざっき」のタイトルをしる[9]が、刊行かんこう年度ねんどあたらしい『大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう』でのタイトルをしるした[10]
  2. ^ 近藤こんどうびんじょうへん改定かいてい史籍しせきしゅうらん だいじゅうさつ』(近藤こんどう出版しゅっぱん、1902ねん)。復刻ふっこくばん臨川りんせん書店しょてんから1984ねん刊行かんこうされている。なお臨川りんせん書店しょてんは1966ねんに『史籍しせきしゅうらん』『改定かいてい史籍しせきしゅうらん所収しょしゅう史料しりょうさい分類ぶんるいした『しんてい増補ぞうほ史籍しせきしゅうらん』を出版しゅっぱんしており、「宇野うのしゅみず」はだい11さつ武家ぶけ故実こじつへん)に収録しゅうろくされている。
  3. ^ 鷲尾わしお教導きょうどうへん津村つむら別院べついん』(本願寺ほんがんじ津村つむら別院べついん、1926ねん)。
  4. ^ 上松あげまつ寅三とらぞうへん石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき 下巻げかん大阪おおさか府立ふりつ図書館としょかんちょう今井いまい貫一かんいちくん在職ざいしょくじゅうねん記念きねんかい、1930ねん)。『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき』の復刻ふっこくばん索引さくいんして清文せいぶんどう出版しゅっぱんから1966ねん刊行かんこうされている[13]
  5. ^ 本能寺ほんのうじへん前後ぜんこう徳川とくがわ家康いえやすさかいでの行動こうどうくわしくしるした史料しりょうとしてられる。6月2にちあささかいにいた家康いえやす信長のぶながうためあたふたと上洛じょうらくしたという記事きじがあり、その末尾まつびに「これは信長のぶなが生害しょうがい計略けいりゃくうん上洛じょうらく也」と細字さいじしるされる。細字さいじ部分ぶぶんについては墨色すみいろ本文ほんぶんことなっており『だい日本にっぽん史料しりょう編者へんしゃは「当時とうじ追記ついきナラン」としている[14]
  6. ^ 1587ねん大坂おおさかで「せんにんきり」としょうして人夫にんぷふうもの殺害さつがいする辻斬つじぎり事件じけん発生はっせいし、「あく瘡気かさけ」をわずらっていた大谷おおやおさむかいよしつぎ)を犯人はんにんとしてうたが風説ふうせつながれた記事きじなど。なお、この事件じけんについては宇喜多うきた次郎じろう九郎くろうらが「生害しょうがい」(自害じがいないしは処刑しょけい)となった。
  7. ^ 天正てんしょう地震じしん(1586ねん)など。天正てんしょう地震じしんでは各地かくち被害ひがいとしてつたえられた情報じょうほうなかに、飛騨ひだこくかえりくもじょう埋没まいぼつしるされている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c 日本にっぽんこう辞典じてん』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん)p.224、「宇野うのしゅみず」のこう
  2. ^ 宇野うのしゅみず”. デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus(コトバンク所収しょしゅう. 講談社こうだんしゃ. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g 宇野うのしゅみず”. ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん(コトバンク所収しょしゅう. 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  4. ^ 津村つむら別院べついん』p.191
  5. ^ a b 改定かいてい史籍しせきしゅうらん だいじゅうさつ』p.438
  6. ^ 改定かいてい史籍しせきしゅうらん だいじゅうさつ』p.469
  7. ^ 御手洗みたらい隆明たかあき. “明智あけち光秀みつひで本願寺ほんがんじ”. 真宗しんしゅう大谷おおや東本願寺ひがしほんがんじ. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  8. ^ a b 改定かいてい史籍しせきしゅうらん だいじゅうさつ』p.477
  9. ^ a b c d e f g h i 日本にっぽんこう辞典じてん』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん)p.224、「宇野うのしゅみず日記にっき」のこう
  10. ^ a b 大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう.文書ぶんしょ記録きろくへん14”. リサーチ・ナビ. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d 津村つむら別院べついん』p.170
  12. ^ a b 宗祖しゅうそ親鸞しんらん聖人せいじんななひゃくじゅうかい遠忌えんき記念きねん 2011年度ねんど特別とくべつてん親鸞しんらん真宗しんしゅうほんびょう歴史れきし-」出品しゅっぴん一覧いちらん”. 大谷大学おおたにだいがく. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)(コトバンク所収しょしゅう. 小学しょうがくかん. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  14. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶなが家康いえやす 清須きよす同盟どうめい実態じったい』(学研がっけん新書しんしょ)kindleばん位置いちNo.3121

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]