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富樫とかしやすししゅん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
富樫とかし やすししゅん
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいただし8ねん1511ねん)?
死没しぼつ 天正てんしょう2ねん2がつ19にち1574ねん3月12にち
官位かんい 加賀かがかい富樫とかしかい
氏族しぞく 富樫とかし
父母ちちはは ちち富樫とかし稙泰
兄弟きょうだい やすししゅんはれさだ
稙春てんえき侍者じしゃ家俊いえとし
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富樫とかし やすししゅん(とがし やすとし)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう富樫とかし27だい当主とうしゅ[1]加賀かがこく野々市ののいちしろおも

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

富樫とかし稙泰長男ちょうなんとして誕生たんじょうとおるろく4ねん1531ねん)の大小だいしょう一揆いっきしょう一揆いっきかたとして参戦さんせんしたが、らえられた。のち逃亡とうぼうして、おとうとはれさだ死後しご家督かとくいだという。一度いちど加賀かがもど野々市ののいち城主じょうしゅとなるが、本願寺ほんがんじかためられ、越前えちぜんこく金津かなづ城主じょうしゅ溝江みぞえ長逸ちょういつのもとにせた。

しかし天正てんしょう2ねん1574ねん)、越前えちぜん一向いっこう一揆いっきにより金津かなづじょう落城らくじょうやすししゅん稙春てんえき侍者じしゃ共々ともども自害じがいし、富樫とかし滅亡めつぼうした。

なお、三男さんなん家俊いえとしからくもなんのがれて後藤ごとうわたるみぎ衛門えもんあらため、佐久間さくまもりまさしつかえて300せき所領しょりょうた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 富樫とかしだかからかぞえると18だい当主とうしゅ