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富民とみん協会きょうかい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

富民とみん協会きょうかい(ふみんきょうかい)は、1927ねん昭和しょうわ2ねん)、本山もとやま彦一ひこいちによって設立せつりつされた財団ざいだん法人ほうじんである。

本山ほんざん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶんげん毎日新聞まいにちしんぶん大阪おおさか本社ほんしゃ勤続きんぞく40ねん功労こうろうきん50まんえんのうちの20まんえんと、本山もとやま所有しょゆう朝鮮ちょうせん水田すいでんおよびはたけけい265まち9たん5うね時価じか30まんえん)が基本きほん財産ざいさんになった。

農事のうじ開発かいはつのため、試験しけん農場のうじょう経営けいえいべいむぎ収穫しゅうかく奨励しょうれい農民のうみん芸術げいじゅつひん展覧てんらん精農せいのう優良ゆうりょう農事のうじ組合くみあい表彰ひょうしょう、その全国ぜんこく農村のうそん青年せいねんあつ農業のうぎょう経営けいえい改善かいぜん講習こうしゅうかいひらくなど日本にっぽん農業のうぎょうかい向上こうじょう進歩しんぽするとした。

どうかいは、2004ねん7がつ解散かいさん[1]した。

出版しゅっぱんしゃとしての活動かつどう

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1929ねんから『富民とみん協会きょうかいほう』を発行はっこう[2]1936ねんから1959ねんまで断続だんぞくてきに、月刊げっかん富民とみん』を発行はっこうした[3]1959ねんから1989ねん12月まで、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ発売はつばいもととして後継こうけい月刊げっかん農業のうぎょう富民とみん』を発行はっこう1990ねん1がつから同誌どうしを『Fumin』に改題かいだいして発行はっこうつづけたが、1998ねん3がつ休刊きゅうかんした。

また、単行本たんこうぼん発行はっこうにもちからそそぎ、1930ねんの『富民とみん叢書そうしょだい1-3しゅう〉』以来いらい、『あき播草はなつくかた』(野間のま守人もりとちょ、1933ねん)、『柑橘かんきつかきぐり実利じつりてき栽培さいばいほう』(富樫とかし常治つねじちょ、1933ねん)、『昭和しょうわ農業のうぎょう発達はったつ』(1937ねん)、『しん農家のうか宝典ほうてん』(1947ねん)、『国土こくどはこうしてつくられた?八郎潟はちろうがた干拓かんたく記録きろく』(1974ねん)、『しん農業のうぎょう便覧びんらん』(1978ねん)、『転作てんさく有利ゆうり野菜やさい』(富民とみん技術ぎじゅつ選書せんしょ、1978ねん)、『田舎いなからしだい募集ぼしゅう. むらさきへん』(田舎いなからしネットワーク、1999ねん)、『地域ちいき農林のうりん経済けいざい研究けんきゅう課題かだい方法ほうほう』(地域ちいき農林のうりん経済けいざい学会がっかい、1999ねん)、『農業のうぎょう経営けいえい発展はってん投資とうし資金しきん問題もんだい』(稲本いなもと志良しろう辻井つじいひろしちょ、2000ねん)、『をみてつくれる冷凍れいとう食品しょくひんガイドブック』(松井まつい克己かつみちょ、2000ねん)などおおくの農業のうぎょう関係かんけい書籍しょせき発行はっこうしたが、2001ねん以降いこう出版しゅっぱん活動かつどうをほぼ停止ていしした。

農業のうぎょう博物館はくぶつかん

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農業のうぎょう博物館はくぶつかん
情報じょうほう
設計せっけいしゃ 中尾なかおたもつ工学こうがく)、北川きたがわ菊次きくじ現場げんばいん
施工しこう 大林組おおばやしぐみ
建築けんちくぬし 富民とみん協会きょうかい
事業じぎょう主体しゅたい 富民とみん協会きょうかい
管理かんり運営うんえい 富民とみん協会きょうかい
構造こうぞう形式けいしき 鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう
敷地しきち面積めんせき 616つぼ1ごう4しゃく
建築けんちく面積めんせき 357つぼ2ごう7しゃく
のべゆか面積めんせき 908つぼ4ごう3しゃく
階数かいすう 3かい一部いちぶ2かい
たか のきだか48しゃく塔屋とうや上部じょうぶまで60しゃく5すん旗竿はたざおいただきまで83しゃく
着工ちゃっこう 1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ5にち
竣工しゅんこう 1932ねん昭和しょうわ7ねん)7がつ10日とおか
所在地しょざいち 大阪おおさか泉北せんぼくぐん高石たかいしまちげん高石たかいし
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富民とみん協会きょうかいでは農業のうぎょう博物館はくぶつかん設置せっちした。農業のうぎょう大衆たいしゅう教育きょういくにはけるところがあるのは遺憾いかんであるとして、一般いっぱん大衆たいしゅう農業のうぎょう知識ちしき普及ふきゅう涵養かんようし、日本にっぽん進歩しんぽ発達はったつ後見こうけんするのが目的もくてきである。大阪おおさかさかい高石たかいし当時とうじ泉北せんぼくぐん高石たかいしまち)にまたがる「浜寺公園はまでらこうえんない建設けんせつくわだてて、1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ10日とおか起工きこう、8がつ竣工しゅんこう開館かいかんした。鉄筋てっきんコンクリートみやつこ3かいけん日本にっぽんインターナショナルしきという様式ようしき建坪たてつぼ340つぼ延坪のべつぼ900つぼ。 1かいおよび2かい陳列ちんれつしつで、だい1しつ土壌どじょう肥料ひりょうで、土壌どじょうおよび肥料ひりょうにかんするものだい2しつ農産のうさんで、普通ふつう作物さくもつ品質ひんしつ改良かいりょう園芸えんげい工芸こうげい作物さくもつかんするもの、だい3しつ副業ふくぎょうで、農村のうそんしゅ工芸こうげい養鶏ようけいやしなえ畜、一般いっぱん副業ふくぎょうかんするもの、だい4しつ農政のうせい経済けいざいで、農業のうぎょう統計とうけい農業のうぎょう経営けいえい農産物のうさんぶつ販売はんばい農業のうぎょう行政ぎょうせい比較ひかく農業のうぎょうかんするもの、だい5しつ植民しょくみん農業のうぎょうかんする資料しりょうてんれつし、3かいには本山ほんざん収集しゅうしゅうした考古学こうこがくじょう参考さんこうひんべる本山ほんざん考古こうこしつがあり、ほかにだい講堂こうどう講義こうぎしつだい露台ろだいがある。

ほん建物たてもの戦後せんごの1947ねん昭和しょうわ22ねん)4がつ22にち高石たかいし町立ちょうりつ中学校ちゅうがっこう高石たかいし市立しりつだかせき中学校ちゅうがっこう)の校舎こうしゃとなり、1947ねん昭和しょうわ22ねん)10がつ改装かいそう工事こうじ完工かんこうした[4]高石たかいし中学校ちゅうがっこう現在げんざいこう移転いてんは、大阪おおさか羽衣はごろも青少年せいしょうねんセンターとして利用りようされ、現在げんざいこわされ現存げんそんしない。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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