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小丸こまるじょう

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小丸こまるじょう
福井ふくいけん
小丸城跡の碑
小丸こまる城跡じょうせきいしぶみ
城郭じょうかく構造こうぞう 平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい
築城ちくじょうぬし 佐々ささしげるせい
築城ちくじょうねん 天正てんしょう3ねん1575ねん
おも城主じょうしゅ 佐々ささしげるせい
はいじょうねん 天正てんしょう9ねん1581ねん
遺構いこう 本丸ほんまるまるさんまるすみあと
指定してい文化財ぶんかざい 福井ふくいけん指定してい史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3553ふん52.5びょう 東経とうけい13613ふん48.6びょう / 北緯ほくい35.897917 東経とうけい136.230167 / 35.897917; 136.230167
地図ちず
小丸城の位置(福井県内)
小丸城
小丸こまるじょう
テンプレートを表示ひょうじ
小丸城の位置(日本内)
小丸城
小丸こまるじょう

小丸こまるじょう(こまるじょう)は、福井ふくいけん越前えちぜんにあった日本にっぽんしろ城跡じょうせきけん史跡しせき指定していされている[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

小丸こまるじょう本丸ほんまる虎口ここうもん石垣いしがき
小丸こまるじょう本丸ほんまる石垣いしがき

くら谷川たにがわによってできた味真野あじまの扇状地せんじょうち丘陵きゅうりょうに、野々宮ののみや廃寺はいじあと一部いちぶんで築城ちくじょうされた平城ひらじろである。本丸ほんまるるいほりあと城門じょうもんあとすみあとなどがのこる。1932ねん昭和しょうわ7ねん)には城跡じょうせきより前田まえだ利家としいえによる一向いっこう一揆いっきいきおい処刑しょけい様子ようすしるされているというかわら破片はへん出土しゅつどしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

越前えちぜんこくこった一向いっこう一揆いっきおさめた織田おだ信長のぶながが、府中ふちゅう10まんせきあまりを府中ふちゅうさんにんしゅおさめさせた。いのちけ、さんにんしゅ佐々ささしげるせい1575ねん天正てんしょう3ねん)に築城ちくじょう開始かいししたが、1581ねん天正てんしょう9ねん)になりせいえつ中国ちゅうごくうつりふうされ、6ねんあまりではいじょうとなった。しろ未完みかんであった可能かのうせいたかい。

なお、前述ぜんじゅつ文字もじかわら存在そんざい能登のとこく小丸山こまるやまじょう石川いしかわけん七尾ななお)との混同こんどうからおな府中ふちゅうさんにんしゅである前田まえだ利家としいえ居城きょじょうとする誤認ごにんがみられるが、当時とうじ記録きろくから確認かくにんできる小丸こまる城主じょうしゅ佐々ささしげるせいのみで、前田まえだ利家としいえ居城きょじょうちかくの越前えちぜん府中ふちゅうじょうである[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 小丸こまる城跡じょうせきつけ 野々宮ののみや廃寺はいじあと”. 福井ふくいけん. 2013ねん4がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ 瀬戸せとかおる金沢かなざわじょう前田まえだ利家としいえ」(初出しょしゅつ:『加能かのう史料しりょう研究けんきゅうだい20ごう(2008ねん)/所収しょしゅう:大西おおにし泰正やすまさ へん『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいさんかん 前田まえだ利家としいえ利長としなが』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-86403-207-0

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]