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小倉おぐらかおる

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おぐら かおる

小倉おぐら かおる
生誕せいたん 1920ねん10月13にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ワシントンしゅうシアトル
死没しぼつ (1979-07-13) 1979ねん7がつ13にち(58さいぼつ
死因しいん クモまく出血しゅっけつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 旧制きゅうせいたかしとく中学校ちゅうがっこう
旧制きゅうせい山口やまぐち高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう
職業しょくぎょう 広島ひろしまアメリカ文化ぶんかセンター
東京とうきょう国際こくさい文化ぶんか会館かいかん
広島ひろしま市役所しやくしょ
広島ひろしま平和へいわ文化ぶんかセンター
配偶はいぐうしゃ 小倉おぐら桂子けいこ(1962ねん - 1979ねん
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小倉おぐら かおる(おぐら かおる、1920ねん大正たいしょう9ねん10月13にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん7がつ13にち)は、広島ひろしま平和へいわ文化ぶんかセンター事務じむ局長きょくちょう広島ひろしま平和へいわ記念きねん資料しりょうかん館長かんちょうとう歴任れきにんした広島ひろしま職員しょくいんである。日系にっけいアメリカじん2せい[1]

経歴けいれき

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広島ひろしまけん佐伯さいきぐん廿日市はつかいちまちげん廿日市はつかいち出身しゅっしんである。1920ねん両親りょうしんのアメリカ在住ざいじゅうちゅうワシントンしゅうシアトルまれた。現地げんち小学校しょうがっこう卒業そつぎょう帰国きこくする。帰国きこく旧制きゅうせいたかしとく中学校ちゅうがっこうて、1942ねん昭和しょうわ17ねん)に旧制きゅうせい山口やまぐち高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん山口大学やまぐちだいがく経済学部けいざいがくぶ)を卒業そつぎょうし、兵役へいえきいてセレベスとう終戦しゅうせんむかえる。

終戦しゅうせん

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1948ねん昭和しょうわ23ねん)から広島ひろしまアメリカ文化ぶんかセンター、1953ねん昭和しょうわ28ねん)から東京とうきょう国際こくさい文化ぶんか会館かいかん勤務きんむしている。1960ねん昭和しょうわ35ねん)に広島ひろしま市役所しやくしょいれちょうし、渉外しょうがい課長かちょう市長しちょうしつ次長じちょうとう歴任れきにんした。1970ねん昭和しょうわ45ねん)から翌年よくねんまで広島ひろしま平和へいわ記念きねん資料しりょうかん館長かんちょうつとめた。

ちょうない随一ずいいち国際こくさいどおりとしてられ、国際こくさい平和へいわ文化ぶんか都市とし目指めざ広島ひろしま市政しせい貢献こうけんした。とくに1978ねん昭和しょうわ53ねん)に国際こくさい連合れんごう本部ほんぶビルニューヨーク)での原爆げんばく写真しゃしんてん功績こうせきがあった。1977ねん昭和しょうわ52ねん)に広島ひろしま平和へいわ文化ぶんかセンター事務じむ局長きょくちょう兼務けんむしてからは広島ひろしま市長しちょう原爆げんばく慰霊いれいさい平和へいわ宣言せんげん起草きそうたった。1979ねん昭和しょうわ54ねん)7がつ11にちどう宣言せんげん検討けんとう会議かいぎえた直後ちょくごクモまく出血しゅっけつたおれ、2にち急逝きゅうせいした。享年きょうねん58さい[2]

著書ちょしょ

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  • 『ヒロシマになぜ 海外かいがいよりのまなざし』(1979ねんけいみずしゃ

出典しゅってん

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  1. ^ My Small Steps from Hiroshima こうしてヒロシマは世界せかい発信はっしんされていった NHK広報こうほうきょく 報道ほうどう資料しりょう
  2. ^ 中国新聞社ちゅうごくしんぶんしゃへん広島ひろしまけんだい百科ひゃっか事典じてん 上巻じょうかん』(1982ねん)p.p191-192

関連かんれん項目こうもく

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